198話
ゴクン、と飲み込んで店内の隅に目をやるサロメ。今は見たくないものランキングの第一位がそこに。
「……あれよ、あれ」
美しい木目で鎮座する、背面を壁に向けたアップライトピアノ。だがそれは一見するとちょっと特殊な机のよう。というのも、グランドと違いコンパクトなアップライトの場合、アクション機構は横ではなく縦になる。これで省スペースをしているのだが、このピアノにはその部分がない。
ならば電子ピアノか? というとそれもまた違う。アメリカのメーカー『ボールドウィン』。これを筆頭に作られた『ドロップアクション』。簡単に言えば、上に持ってきていたアクションを下に持ってきただけ。これはクラシックよりもジャズピアノとしての利点を追い求めた部分が大きい。それは。
「あれ、最初ピアノだと思わなかった。曲はよく知らないけど」
今はもう誰も弾いていないが、先ほどまで嗜んでいた人がいた。跳ねるような楽しいリズムだったことはファニーにもわかったが、聴いたことはない曲。聴いたことがあってもわからないけど。
「ジョージ・シアリング『バードランドの子守唄』。ジャズのスタンダードナンバー」
ボソッとサロメはその曲名を教える。しかし弾いていた人の腕前はともかく、まずなによりユニゾンが悪い。インテリアとしての意味合いが強いのだろう。調律も腕が悪いヤツが適当に、という感じか。ちなみにバードランドはニューヨークのジャズクラブの店名。
数秒後には忘れているであろう作曲者と曲名を聞いたファニー。
「ふーん」
スフォリアテッラを齧りながら、溢れるパイ生地のほうに心配をする。帰る前に軽く掃除をしていこう。
スイーツを食しながらサロメは再度ピアノを確認。そこにはただ。なにも言わずに存在するのみ。
「あんなのがあるって知ってたら来なかった。いや、でも味はいいからね……悩むわ」
手に持ったカンノーリの断面に視線を移し、頬を膨らませる。そういえば『ゴッドファーザー』の三作目で、このスイーツで毒殺されたヤツがいたなと思い出すと、なんだか胃のあたりがもたれてくる。ピアノといい、安心して味を楽しませてほしい。
「調律してきなよ。簡単でしょ? ささっと」
他人事なのでファニーが唆す。気になるならそうするべき。調律するところ見てみたいし。あ、自分はスイーツ食べながらだけど。
白目を剥きながらサロメは拒否する。アトリエから逃げるようにここに来たのに。
「やーよ。なんでタダでやんなきゃいけないの。今はオフ。ピアノなんか聴きたくもない」




