144話
そしてこの流派を使用する人物として、アルゲリッチやホロヴィッツなど、世界最高峰のピアニストが数多くいる。コンクールで賞を獲るなら、とまで呼ばれる弾き方。それが脈々と受け継がれている。
「……ロシアピアニズムは『鐘のタッチ』とも呼ばれるほど、繊細さが要求されます。となると……それを考慮しつつ、音を小さくなんて調律、さらに難易度が跳ね上がりますよ。脱力を意識しすぎるとピアニッシモの表現力が削られますし」
自分だったら引き受けたくない、というマイナスな思考がランベールに一瞬よぎった。いや、なにを言っている。可能性は無限だ。不可能はない。ないが……どうするつもりだ?
もしこれを可能とするならば、サロメの腕前は予想を遥かに超えている。わざわざ呼び寄せたルノーも、その扱いに困る。
「ま、お手並み拝見といくか。我々は」
だが、そもそも整調にも細心の注意を払わねばならない。なにせ左手を最大限に生かすためにタッチ感を慎重に。その確認には。
そこへランベールが名乗りをあげる。
「……俺が試弾してみます。俺も一応はネイガウス派ですから。てことはあいつ——」
「気づいていたんだろうな。あのあと演奏したのか?」
我々が帰宅したあと。二人を残してしまったけど。ルノーも気になってきた。
ランベールは『星はきらめく』の演奏を思い出し、ほろ苦さに襲われる。
「まぁ……ほんの少しだけ……」
やっぱり昨日は調律なんてしないで帰ればよかった。
「さてと」
考えていても、悩んでいても仕方ない。手際よくルノーは鍵盤とアクションをピアノ本体から外す。フロントピンやバランスキーピンに大きな錆びつきはないが、全体的に鍵盤の重さが少々気になる程度。が、逆に合わせやすい。深さ調整なども必要はなさそう。
手分けしながらランベールは、モヤモヤとした部分を社長から聞き出しにかかる。
「……あいつは、あぁいうヤツなんですか?」
「知らん」
あいつ、とはもちろんサロメ。が、ルノーも知らないものは知らない。
おい、と心の声で文句を言うランベール。そんな無責任な。
「いや、知らんと言われても。社長が連れてきたんでしょ?」
あんな爆弾を。いつ爆発するかもわからないようなのを。それもまぁまぁ大規模なヤツ。
手は止めず、ブッシングクロスを調整しながらルノーは真実を話す。
「知っているのは小さい頃のあいつ。会ったのも昨日が数年振り。電話の感じでなんとなくわかっていたけどな」
いつの間にかあんな女王様みたいに。昔はもっとこう、普通だった。たぶん。




