100話
それを横目で確認し、ユーリは再度、前方の闇に目を向けた。
「なにをバカな。僕だって、あなたくらいの歳の頃、ビールで酔い潰れたことだってある。それに、貴族なんてもう飾りだ。この豪勢な家だって、爺さんや父さんが必死に働いてくれた結果でしかない」
呆けながらも、少しずつ自身の仮面を剥ぐ。貴族の中には不動産管理で巨額の富を為し、一度も労働らしい労働をしたことがない、という人物ももちろんいる。だが、ラヴァン家は海外との貿易で、地道に資産を増やしてきた。それは全て、人間の力。
「ま、どうでもいいけどねー」
父の経営能力、母のピアノの才能。そういったコンプレックスの結果、ツギハギだらけで形作られたユーリ・ラヴァン、という人物の生い立ちなどどうでもいいサロメは、ゆっくりとだが、確実に銅マグの中身を減らす。
こんなあっけらかんとしたラベルの中身。それがユーリは気になる。
「……にわかには信じがたいが、フランスでもトップクラスの調律師だそうだな」
誰も御せない才能と能力。調律において、それはどんなものなのか。
チーズが欲しくなってきたサロメは、適当にあしらう。
「なにを基準にしてそう言ってるのか知らないけど、まぁ総合的に見ればそうなんじゃない?」
なんかこの前もそんなの聞かれたなー、と思い返した。どうでもいいわ。
だが、ユーリは前のめりになりながら、真剣に問う。
「なにをどうやったらそうなれる。才能か?」
それを聞き、鼻で笑うサロメ。つまらない冗談だ。
「調律師に才能は必要ない。決められたことを決められたようにするだけ。あとは経験からくる微調整。あ、微調整には少し才能必要かも」
調律において、必要なことはなによりもその『数』。様々なピアノと不調の原因に触れ、経験という刃を磨いていく。絶対音感なども必要ない。なぜなら、時代によっても、場所によっても基本のピッチというものは違う。惑わすくらいなら、ないほうがいい。
「必要なのは覚悟。調律師を、仕事じゃなくて生き様として捉える、ね。死ぬ時はきっとチューニングハンマーでピン回してる最中に死ぬわ。あ、飲まないならそれもちょうだい」
飲まれる気配がない、ノンアルコールのヴァン・ショーを不憫に思い、ユーリの手から強奪する。いや、飲まないならってだけで。無理やりではない。誰かに言い訳する。
掻っ攫われた銅マグに動揺することもなく、ユーリは会話に熱を帯びる。
「僕にその覚悟がないと?」
その矛を向けられた先にはサロメ。言い終わったところで、なにをこんな少女に僕は……と、反省する。
「知らないわよ。調律師のどうこうできる範囲じゃない。魔法使いじゃないんでね」
人生相談までウチは扱っていない。「別料金取るわよ」とサロメは牽制する。




