1話(イラストあり)
目を閉じる。閉じた目の前には一台のアップライトピアノ。マホガニーでできている年代もの。メーカーはプレイエル。フランスの老舗メーカーだ。
イスに座り耳を澄ます。八八ある鍵盤を二つ叩くと、大きく唸りが聞こえる。それもそのはず、もう数年に渡って弾かれておらず、調律などされていない代物だからだ。
このピアノの所有者は、孫がピアノを習い出すから使えるようにしてほしいということだった。ずっと昔に自分が弾いていて、それからしばらく使われていないものらしい。ここまで年代ものになると、所有者の自宅でどうこうできる問題ではない。工房に持って帰ってオーバーホールしなければこのピアノは蘇らないだろう。いや、持って帰ってもどうなるかはわからない。中も虫やネズミに侵食されているかもしれない。
提案と見積もりを出すと決まって返ってくる言葉がある。
「それなら電子ピアノに変えようかしら」
非常にもったいなく思う。響板さえ割れていなければ、いや、割れていたとしても合うスプルース材さえあれば唯一無二の音が蘇るのに。それだけのポテンシャルを秘めている。プレイエルのマホガニーを売却なんて、ショパンが生きてたら背後からドロップキックかまされるぞ、とひとりごちて男は正気に戻る。
このピアノをどうするかは自分には決められない。本当のこのピアノの音を聴かせて、思いとどまれと言いたい。だが、それは自分達の仕事ではない。男は作り笑いを浮かべる。
「当店にも中古の良いピアノがありますが、そちらはいかがでしょうか」
「いや、またメンテだのなんだのって面倒よ。電子ピアノにするわ。あの子だってどこまで本気でやるかわからないし」
これも時代の流れか。騒音の問題などもあるだろう。お隣の国ドイツでは、州によっては日曜日は掃除機をかけることすら禁止されているような厳格なところもある。ピアノなんてもってのほかだろう。
もう一度プレイエルのピアノを見据えた。ショパンが泣いているようだ、と感じた。それでもお客様の要望に応えなくてはいけない。
「かしこまりました」
調律師。世の理に逆らう者達。
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