4 後宮に妃は四人ぽっち
ところが。
後宮は、魅音の予想とは少々違う様子だったのだ。
まずは、天昌城に到着する。二重の外壁に開いた門を通り抜けると、一気に明るくなって視界が開けた。
そこは、帝国中の人々だけでなく、東方や西方から様々な人種の人々が集まる巨大な都市だ。賑やかな大通りには店がずらりと並び、市場に行けば揃わないものはない。
何台もの馬車が行きかう大通りは、皇城の門へと繋がっている。政務機関が集中する区域の入口だ。その門も巨大で、まだまだ距離があるはずなのに、まるですぐ近くにあるかのように錯覚するほどだ。
皇城の奥が、皇帝のおわす永安宮。その西側が、後宮である。
魅音は、手配された輿に乗って運ばれながら、御簾の外を眺めていた。
(前世ぶりに都にやってきたけれど、ずいぶん賑やかになったものね! 後宮の中はどうかな。ちょっと楽しみ)
どうせすぐに抜けるのだからと、魅音は呑気に構えている。
(私、というか翠蘭お嬢さんは県令の娘なんだもの、きっとそれなりの品階になれるわよね。しばらく働かずにのんびりできそう!)
皇城の西側にぐるりと回れば、後宮の入口にあたる門があった。魅音は馬車から降りる。陶家の使用人たちとは、ここでお別れだ。
「頑張れよ」
「気をつけて」
事情を知っている使用人たちは、ひそひそと魅音を励まし、去っていった。
後宮は、正式名称を掖庭宮と言う。永安宮の掖にあるからだろう。高い塀と水濠に囲まれた広大な一角で、いくつもの宮や庭園、祠や廟などがあり、小さな都のようになっている。ないのは店くらいのものだ。
門卒に案内されて水濠の橋を渡り、西門からいよいよ後宮に入る。
するとすぐそこが、内侍省の建物だった。内侍省とは、宦官──男性機能を切除した官吏──が所属する機関で、皇帝の私生活を管理する。
先に知らせを出してあったので、内侍省の一室で宦官と宮女が一人ずつ待っていた。この二人が、魅音の世話を担当するようだ。
宦官とはすぐに別れ、魅音は宮女に案内されて、渡り廊下を進んだ。
「陶翠蘭様のお世話をさせていただきます、雨桐と申します。このたびは、入宮おめでとうございます」
三十歳ほどだろうか、しっとりしたたたずまいの雨桐だが、どこか申し訳なさそうにしている。
「ご存じの通り、王将軍……陛下が帝位にお就きになって、まだそれほど経っておりません。後宮も整っておらず、宮女の数も最小限でございまして、翠蘭様にも専用の宮を用意することができず……」
「他の妃たちと一緒に暮らす、ということ? 別に構わないわ、気の合う人がいれば楽しいでしょうし」
「恐れ入ります。いずれ、細かいことも決まってくると思いますので」
ひたすら恐縮する雨桐だったけれど、魅音にはしめたものである。
(そんなにバタバタしてるなら、陛下も当分、後宮にはいらっしゃらないでしょうね。よしよし)
歩きながら、雨桐はすらすらと後宮での生活を説明してくれた。魅音は感心する。
「とてもわかりやすいわ。雨桐も、宮女になったばかりでしょうに」
「あ、いえ……私は、先帝の代から宮女をしております」
「えっ、そうなの? みんな、怖がって逃げてしまったかと思った。噂を聞いたわよ」
「そういう者も多かったのですが、帰る場所のない者もおりますし、他にも色々……」
詳しくは語らなかったものの、雨桐は微笑む。
「陛下が儀式を行って下さいましたので、きっと大丈夫です」
話をしながら到着したのは、内院を中心に四方が建物になっている宮だった。
「花籃宮でございます」
名前の通り、淡い紅色の花を咲かせる杏の木や、小さな黄色い花をたくさんつけた山茱萸などで、内院は華やかだ。雨桐は奥へと進む。
「お妃様方にはひとまず、こちらにお部屋をご用意してございます」
(そうか、私も『妃』って呼ばれるんだった)
そのつもりなどないわ、似合わないわで、魅音は何だか背中がもぞもぞした。
内院を挟んで左右の建物に、戸が四つずつ並んでいる。
「東側の手前、お二つが、翠蘭様のお部屋です。お荷物は運び込んでおきます」
教えてくれた雨桐は、さらに正面の正房に魅音を案内した。
「ひとまずこちらで、部屋のお支度が済むまでお待ちください。居間になっておりまして、皆様、こちらでおくつろぎです」
「ありがとう」
「後ほど、お茶をお持ちします」
雨桐は礼をして、立ち去っていく。
(さあ、いよいよだわ)
魅音は一呼吸置いてから、居間の両開きの戸を開いた。
居間には、若い娘が三人、いた。
奥の丸窓のそばには卓子と椅子があり、薄紅色の襦裙をまとった美女が一人、茶を飲んでいた。ちらりと魅音に流した視線、スッと伸びた背筋、まとう澄んだ空気……おそらく高貴な出自の女性だろう。魅音と同じくらいの年頃に見える。
そして、後の二人は手前の長椅子に並んで座っていた。こちらも良家の女性という感じでありながら、ぐっと砕けた雰囲気。何か話をしていたようだけれど、魅音に気づいて振り向く。
濃い青の襦裙の方は、翠蘭より少し上の年頃で、愛想のいい笑顔を見せた。淡い水色の襦裙の方はやや幼く、もしかしたら十三、四くらいの年齢かもしれない。ふっくらした頬にえくぼを浮かべてはにかむ。
(どなたがどこのお嬢さんなのかしら。家格がわからん……)
とにかく、両手の平を身体の前で重ね、頭を下げて無難に挨拶する。
「初めまして。陶翠蘭と申します」
すると、手前の二人はそわそわしつつも何も言わず、奥の女性だけが口を開いた。
「私が、李美朱よ」
(私『が』?)
それは明らかに、「当然私を知っているわよね」というニュアンスだ。
(いや知らんがな)
仕方がないので、ひとまずもう一度礼をすると、美朱はスッと立ち上がった。そして、するすると滑るように魅音の方に歩いてくる。
「あなたが来て、やっと揃ったというわけね」
ため息混じりにそんなことを言いながら、美朱という彼女はそのまま外に出て行ってしまった。戸が閉まる。
(『揃った』?)
首を傾げていると、待ちかねたように長椅子の二人が声をかけてきた。
「翠蘭さん、座って座って!」
「お疲れ様です」
「あ、ありがとう」
長椅子の端に腰かけさせてもらうと、二人は代わる代わる名乗った。
「私、江青霞よ」
「私は、白天雪。よろしくお願いしまぁす」
しっかりした年上らしい方が青霞、おとなしげな年下らしい方が天雪だ。
「私も、十日ほど前に来たばかりなんです」
ふわりと天雪が笑えば、青霞が軽く身を乗り出す。
「私は先帝の頃から宮女やってたんだけど、ここに残ることにしたらあれよあれよという間に昇格してしまったわ。ね、それより知ってました? 妃、私たち四人だけなんですって」
「へ?」
思わず変な声を上げた魅音は、目をぱちくりさせてしまった。
帝国の後宮で一番位が高いのは、もちろん皇帝の正妻である『皇后』である。しかし、新皇帝の俊輝にはまだ皇后がいない。
皇后とははっきりと区別された、ありていにいえば妾たちは、『妃』と呼ばれる。しかし、その妃が美朱・青霞・天雪、そして翠蘭(魅音)の四人しかいないと言うのだ。
(先帝には百人以上いたと聞いてるけど、新皇帝には四人ぽっち?)
「えっと、あの、まだ到着していないだけではなく?」
聞いてみると、二人は同時にうなずく。
「四人しか決まってないみたい。この後は今のところ、誰か来る予定はないそうよ」
「陛下も、まだ一度も後宮にお見えにならないんです」
「先帝時代からの宮女も少ない上に、新しい子も少ないの」
「その宮女たちも、美朱様のお世話に忙しいんですよ」
「そう、あの美朱様は強引に、空いている珊瑚宮を自分の宮って決めちゃって。ちょっとどうかと思うわ」
「宮女たちは、珊瑚宮を整えるのに、精一杯。私たちのことなんて、ほったらかしなんですー」
『宮女』というのはつまり、後宮で働く女たちのことである。
(この二人、ずいぶん意気投合してるなー。まあ、さっきの……美朱様だっけ? 彼女があんな風にツンツンしてるんじゃ、他に仲良くできる人もいなかったでしょうしね)
魅音はニコッと笑ってみせる。
「へぇ、そうなんだ。新しい陛下が即位なさって、まだずいぶんゴタついているとは聞いていたけど」
「そういうこと。まあ、先帝の頃みたいに命の危険がないぶん、気楽ね」
「これからも、何も起こりませんように」
二人は揃って、祈るように両手を合わせた。
色々話してみたところによると、李美朱は戸部尚書(財務大臣)の娘だそうで、矜持の塊のような人柄らしい。
照帝国の妃には三段階の位があり、上位が『夫人』、中位が『嬪』、下位が『婦』と呼ばれる。
本来なら『夫人』が暮らす豪奢な四つの宮殿があるのだが、美朱はそのうちの一つである珊瑚宮を自分の宮と決めてしまったらしい。四つの中では一番小さいそこを選んだあたりは、一応遠慮なのか何なのか。さすがに、魅音が来た日は顔合わせのために、本来暮らすはずだった花籃宮にいたようだ。
困ったことに青霞や天雪の言うとおり、宮女たちの多くは珊瑚宮にばかり出入りしていた。まあ、身分の高い妃に仕えて美味しい思いをしたいというのは、魅音も理解できる。
もちろん、魅音たちもこの花籃宮に個室があり、食事の上げ下げや洗濯はしてもらえるのだが、主に雨桐が必死で駆け回っており、手の空いた宮女がちらほら助けに来る。着替えや行水はご自分で……という感じだった。
(うーん、目論見がはずれてしまった。宮女にアザを目撃してもらおうと思ってたのに、その機会がないじゃないの)
魅音は少々、軌道修正を図る。
(自己申告するしかないな)
後宮に来てすぐ、というのもわざとらしいので、少しでも日にちを置いてから、胸のアザが現れたと訴えよう。そして、しばらくしたらアザを一つ増やし、さらに数日したらまた増やして、何ならアザを大きくして……と「化け直し」ていけばいい。
そう考えた魅音は、ひとまず翠蘭のつもりで、後宮生活を送ることにした。