3 下女、身代わりになる
翌日、魅音は願い出て、県令夫妻と翠蘭に話を聞いてもらった。
「申し訳ありません、昨日のお話が、耳に入ってしまいました」
「ああ……いや、あれだけ大きな声で話していたのだから仕方ない」
県令は鷹揚に許したが、魅音はさらに言う。
「それで、あの……誰かが行かなくてはならないのであれば、私が、お嬢さんの身代わりになるのは、どうかと思うのですが」
「魅音が? 身代わりに?」
県令の妻は、戸惑っているようだ。
「何を言ってるの、聞いていたのでしょう? 後宮に行ったら恐ろしい目に遭うかもしれないと、そういう話をしていたのですよ。あなたはそれでも行きたいと?」
「まさか、魅音」
翠蘭は眉を顰める。
「そんなに、うちでの暮らしが不満なの? 後宮で一発逆転、陛下の目に止まるかも……って夢みるくらいに?」
「ち、違います、逆です!」
魅音は急いで言う。
「身よりのない私を引き取っていただき、お嬢さんにも優しくしていただき、心から感謝しておりました。いつか恩返しをしたいと思っていたので、身代わりになりたいのです。もちろん、救っていただいた命を粗末にするつもりはございません。仮病を、使ったらどうかと」
「仮病?」
「はい。私がお嬢さんのフリをして後宮に入り、そして時期を見計らって、もうとにかくすっごく体調が悪いフリをするんです。そうしたら、郷に返されるでしょう? 私、ここに戻って来れます。それまでの間くらいなら、何か恐ろしいことがあっても我慢します。私、お嬢さんほど賢くないですけど、すぐに体調を崩せばごまかせると思いますし」
県令は眉を顰める。
「しかし仮病などと、後宮の医官に見抜かれるのでは」
「何でもしますっ。寝ないとか、食べないとかしていれば本当に体調は崩れるでしょうし、わざと吐くくらいできますし」
熱意を込めて、魅音は続けた。
「いったん郷に帰されれば、もう呼ばれることはないと思うのです。そして、病気が治ったことにすれば、本物のお嬢さんはお婿様を迎えることができます」
そして引き続き、翠蘭も、翠蘭の子も老師から学ぶだろうから、魅音も学び続けられる、という寸法である。
魅音は上目遣いで聞いた。
「いかがでしょうか?」
県令夫妻は顔を見合わせ、そして話し合いを始めた。
その間に、翠蘭が魅音に近寄ってきた。ぼそっ、とささやく。
「……悪かったわ。ホントに、私のために申し出てくれたのね。私は魅音とずっと一緒のつもりだったから、行っちゃうって思ったら何だか……寂しくて」
「ちょっとの間だけです、ちゃんとお嬢さんのところに帰ってきます! だいたい、私が陛下の目に止まるなんてあり得ませんから」
魅音は笑い交じりに言い切ったけれど、翠蘭はツンとそっぽを向きながらつぶやく。
「バカね、自分じゃわからないのかしら。魅音って結構……可愛いのに」
(あら、私のこと、そんなふうに)
翠蘭のこういうところが、魅音はますます可愛いと思うのだ。
そしてついに、県令夫妻は魅音を、翠蘭の身代わりとして後宮に送ることに決めたのだった。
出発の日。
魅音は翠蘭の襦裙を身にまとい、良家の娘っぽく化粧をする。元々、翠蘭はタレ目、魅音は吊り目というところ以外、二人は背格好が似ているのだ。しかも、後宮に翠蘭の顔を知っている人物などいないので、狐仙の力で翠蘭に化けるまでもない。
「なんか、化粧、うまいのね」
翠蘭に感心されて、魅音はちょっと焦りつつ「み、見よう見まねです」とごまかした。
(二百年の年の功ってやつよ! 人間の観察だってしてたもの!)
翠蘭は心配そうに言った。
「魅音、本当にまずそうだったら、時期を見計らって……なんて悠長なことしてないで、すぐに病気のフリをして帰ってくるのよ。絶対よ」
「お嬢さん……そんなに心配して下さるなんて」
「べ、別にあなただけのことじゃなくてっ、『陶翠蘭』が呪い殺されたら本物の私が困るでしょ! いいから気をつけなさい!」
しかし、魅音には絶対にうまく行くという自信があった。
にっこりと、笑ってみせる。
「はい。とにかく、私もここに絶対に戻ってきたいので、頑張りますね。行って参ります!」
魅音の暮らしていた県は、照帝国の都・天昌から馬車で数日の距離だ。後宮入りは公の職務なので、旅には街道沿いの駅を利用できる。無料で宿泊したり、食事をしたりできるのだ。
その途中、後宮にまつわる噂を聞いた。
「後宮は、死んだ妃たちの幽鬼や鬼火がちょいちょい現れるんだってな」
「いや、陛下が大々的な鎮魂の儀式を行ってからは、落ち着いたらしい」
「我が国の方術士たちは、死者にはとりわけ手厚いからな」
魅音は聞くともなしに聞きながら、思う。
(ふーん、鎮魂の儀式をやったのか。対症療法で終わらなければいいけどね。ま、行ってみればわかるか)
駅を辿って旅をし、明日は天昌に到着するという日の夜。
魅音は一人、宿の裏庭に出た。
早春の冷たい空気の中、ほんのりと梅の香が漂う。見上げれば、夜空は星屑の海だ。北斗七星がくっきりと、空に描かれている。
魅音は胸の前で、握った拳を交差させると、両手の人差し指と中指を揃えて伸ばした。
「北斗星君の名の下に。我が身よ、偽りの姿を宿せ!」
ふわっ、と、風が身体を取り巻いて、すぐに消えた。
魅音は手を開くと、そっと胸元を開いてみる。
左の胸に、青緑色のアザができていた。これは今、彼女が望んで現れるようにしたものだ。このくらいの変身なら簡単である。
(仮病がばれるんじゃないかって県令夫妻は心配していたけど、こうやって病人に変身すればいいんだから、簡単、簡単。わざわざ具合が悪そうなフリをしなくても、これで十分でしょ。だって、こんな肌をした妃なんて、皇帝陛下は手をつけないでしょうし)
翠蘭に「陛下の目に留まることなどない」と言い切ることができたのも、この術を使うつもりだったからだ。
胸元を直しながら、魅音はほくそ笑む。
(妃の一人として行くんだから、きっと宮女が私の世話をしてくれるはず。うまく機会を作って、宮女にこのアザを目撃させよう。医官を呼んで調べさせても、原因はわかりっこない。アザは、日を追うごとにじわじわと増やしていこう!)