2 先帝妃の呪い
話は二ヶ月ちょっと前、年明け早々にさかのぼる。
魅音は、とある県を治める県令・陶氏の家で、下女としての日々を送っていた。身よりのない彼女は孤児院にいたところを、運良くこの家に引き取られたのだ。
県令には、娘の翠蘭がいた。魅音は掃除や洗濯以外に、翠蘭と同じ十六歳ということで、彼女の話し相手や身の回りの世話もしている。
翠蘭は、少々わがままで甘えん坊。文句を言いながらも、裁縫やら踊りやら良家の娘としてのアレコレを学び、残りの時間はひたすら書に没頭している文学少女でもある。
彼女は卵が嫌いだが、魅音が卵好きなことを知っている。食事に卵料理が出ると、器をこっそりと「食べていいわよ」と魅音に渡してくるのが常だった。味のついたゆで卵とか、ふわふわ卵の湯などもだ。
そんな翠蘭が、魅音は実は可愛くて仕方がない。
(孫ってこんな感じかしらー!)
狐として生まれ、何度も生まれ変わって二百年の修行を積み、狐仙となった魅音にとって、人間の十六歳の娘など赤子に等しい。そんな翠蘭が、魅音の大好物である卵をくれるというのは、可愛い以外の何ものでもなかった。
(ちょっとくらい人間で過ごすのも、悪くないわね)
さて、翠蘭のところには週に二日、高名な老師が学問を教えにくる。
老師にお茶をお出しして下がった後、翠蘭が学んでいる間、魅音は休憩時間だ。
厨房からこっそりと、裏庭に出る。灰色の空の下、白い息を吐きながら庭石に腰かけると、魅音はチッチッと二回舌打ちをした。
すると間もなく、ちょろっ、と膝に灰色のネズミが上がってきた。
そのつぶらな瞳をじっと見つめ、魅音は命じる。
「行っておいで」
ネズミはピクッと耳を動かしてから、魅音の膝を降り、翠蘭の部屋の方へと姿を消した。ネズミは狐の眷属で、言うことを聞かせられるのだ。
魅音は目を閉じ、ネズミの視界を共有する。
本性が狐仙でも、器が人間だと、使える力はかなりのポンコツだ。操れるのはネズミだけだし、あとはせいぜい簡単な変身ができるくらい。白狐になら、いかにも普通の白狐の姿に変身できるけれど、他の生き物に化けようとした場合は身体の大きさを変えられない。見た目をちょっといじれる程度なので、人間が変装するのと大して変わらないのだ。
魅音の視界に、先ほどのネズミが見ている景色が映った。低い視点でちょろちょろと廊下を走り、壁の穴から入って柱を上る。そして屋根裏にやってきたネズミは、天井の穴から翠蘭の部屋を見下ろした。
老師の声が聞こえ、翠蘭が筆で紙に何か書きつけている。
下女にすぎない魅音は教育を受けることができないのだが、こうしてこっそり翠蘭の様子を覗いて学ぶのが楽しみだった。しかも翠蘭は興味の範囲が広く、老師に様々な質問をするので、老師もあれこれ教えたくなるらしい。詩歌ばかりでなく、兵法から薬学、果ては官吏試験に出るような内容まで織り交ぜてくれる。女である翠蘭は官吏にはなれないので、必要ないにもかかわらず、である。
魅音は夢中で講義に聴き入った。
そんなある日のことだった。
「イヤよイヤ、ぜったいに、イヤ!」
翠蘭の部屋から、叫び声が聞こえてきた。
驚いた魅音は、様子をうかがうためにネズミを呼ぼうとしたが、そうするまでもなくさらに声が聞こえてくる。
「後宮になんて行きたくない!」
(はぁ?)
魅音はギョッとした。
後宮──皇后や妃、そして宮女たちが暮らす場所。帝国全土から集められた女性たちは、たった一人の男性、皇帝のためだけに、そこで生きることになる。
どうやら翠蘭に、そんな後宮に入る話が持ち上がっているらしい。最近、新皇帝が即位したので、彼のためにそれなりの身分の若い女性が集められているのだろう。
けれど、翠蘭は本気で拒否している。
「私知ってるのよ! あそこに行った女の人、何人も殺されてるって聞いたもの。ちょっとしたことで罰せられて毒を飲まされたり、戯れに首を絞められたり!」
翠蘭が言っているのは、本当のことだ。ただし、暗君だった先帝の後宮の話、つまり二ヶ月ほど前までの話である。
先帝は色に溺れ、様々な女性たちを集めたが、中でも珍貴妃と呼ばれる女性に夢中になった。貴妃、というのは、皇后を除けば後宮の女性で最も高い位の称号である。
この貴妃が残虐な嗜好の持ち主で、先帝と二人、他の妃たちを痛めつけては楽しんだらしい。死んだり大けがをしたりした者もいれば、心を病んだ者もいるそうだ。
昨年末、とうとう先帝は討たれ、追いつめられた珍貴妃も後宮の自分の宮で自害した。
胸に短刀を突き立てた彼女は、
「呪ってやる……呪ってやる……」
と繰り返しながらこと切れたという。
二人はそれぞれ、生まれながら持っている霊力――魂の力――がそれなりに高かったので、廟に厳重に封じられた。先帝は、皇帝家から罪人が出た際に葬られる廟に。そして珍貴妃は後宮内の罪人が葬られる廟に、だ。
この政変は、関係者の逃亡を防ぐためにしばらく伏せられていたが、いよいよ県令などある程度の地位の人間には情報が伝わって来たところだった。
珍貴妃は孔雀の意匠を好み、衣服や装身具に孔雀の羽の柄を多く取り入れたので、現在、その意匠を使うことは禁忌となっている。
耳を澄ませると、翠蘭の父である県令の声が聞こえてくる。
「いや、後宮がひどい状態だったのは、先帝の時の話でだな。だからこそ討たれて、新たな陛下が即位なさったのだから、そんなことは」
「後宮には、いびり殺された女たちの幽鬼が出るって聞いたわ。それに、珍貴妃が新しい陛下を呪ってるって。呪われてる人の後宮に入ったら私も呪われる!」
幽鬼とは、要するに死者の霊のことである。
「これ、声が大きい!」
たしなめる県令の声に続いて、その妻の声が続く。
「でもあなた、翠蘭が恐ろしく思うのも無理はありませんわ。それに、ただでさえ後宮は、陛下の寵愛を巡って争いの起こりやすい場所です。そんなところに、一人娘の翠蘭を行かせるなんて……婿をとるつもりでしたのに」
「それはまあ……しかし、新皇帝の後宮に、この郡から誰かしら差し出さないことには」
郡、というのは、いくつかの県のまとまりの名前だ。県令はおそらく、郡からの命令に従わなくてはならないのだろう。
「嫌ですってばぁ! どうして私なの⁉ みんな行きたくないはずよ。県令の娘だから、お手本として行かなくちゃいけないの? だったら私、こんな家に生まれなければよかった! うわぁぁあん!」
翠蘭の号泣が聞こえ、今度は県令の妻が娘をたしなめていたが、もはや県令はうろたえるばかりのようだ。
(そんなぁ、困った)
魅音は思う。
(お嬢さんが後宮に行ってしまったら、もう老師は来てくださらない。私、勉強できなくなってしまうではないの!)
もっともっと勉強し修行すれば、狐仙からさらに神仙という高みに昇れる。そのために、翠蘭に行かれてしまっては困るのだ。
(それに、何年もお世話しているからわかる。お嬢さんは本当に怖がりで、怪談系の話も一切受けつけない人だから、恐ろしい噂のある後宮で暮らしたりしたら病気になっちゃうわ。行かせるのは可哀想)
そこで魅音は、ある決心をした。