16 耳飾りの怨霊の正体
後宮に帰りついた時には、わずかに残照が空の端を染めるばかりで、すでに一番星が瞬き始めていた。
花籃宮の内院はもうすっかり暗くなっていて、いくつかの吊り灯籠に火が入っている。正房の裏手にある厨房からは煮炊きの煙が上がっていたけれど、とても静かだ。
魅音は白狐から元の自分の姿に戻ると、すぐに回廊に駆け上がった。青霞の部屋の戸を叩く。
「青霞、いる? ちょっといい?」
しかし、返事はない。
「開けるわよ」
一応断ってから、魅音は戸を引いた。中を覗き込む。
「……!」
青霞は、灯りも点さず、一人静かに椅子に腰かけていた。
その手に、小刀が握られている。魅音が開けた戸から入った灯籠の灯りが、きらり、とそれに反射した。
そのまま、青霞は小刀を自分の首に――
「待ったー!」
駆け寄った魅音は、バシッ、と青霞の手首を横にひっぱたいた。小刀が手を離れ、部屋の隅まで飛んでいく。
魅音は、懐から霊符に包んだ耳飾りを取り出すと、青霞の額に叩きつけた。
「元の身体に戻れ!」
いきなり、甲高い悲鳴が響いた。
耳飾りから靄が吹き出し、青霞の背後で人の姿になった。影のようなその姿もまた、青霞の姿をしている。まるで、そこに青霞が二人いるように見えた。
(やっぱり!)
影の青霞はしばらく身もだえしていたけれど、やがてまた靄になり、椅子に座っている青霞の身体に吸い込まれていった。
「青霞! 青霞、起きて」
魅音は彼女の頬を軽く叩く。
すると、青霞がうっすらと目を開いた。
「……翠蘭……?」
彼女は瞬き、そしてあたりを見回す。
「私……あれ? 今、誰か……痛た、いったぁ、おでこ……」
「青霞、よく聞いて」
魅音は噛んで含めるように言い聞かせた。
「耳飾りのことなんだけどね? 文晶妃の怨念なんて、憑いてなかったの」
「え? だって魅音が、耳飾りに文晶様の怨霊が、って」
「ごめん、全然違ったわ」
魅音はスパッと謝り、続ける。
「たった今、はっきりわかった。夜に彷徨っていた青霞は、あなたが覚えている、傷ついていた時の文晶妃。過去の文晶妃の姿を、あなたが再現していたの」
「……どういうこと?」
「耳飾りを見るたび、あなたは当時の文晶妃の様子を思い出して、後悔してたんでしょ?」
「ええ……そう、そうね」
「そのあなたの念が生霊になって、自分を罰してたんだよ。牡丹宮で二度目の盗みを働いたのも、その生霊だったんじゃないかな」
「私が、自分で……⁉」
青霞は目を見開いた。しかし、すぐにうつむく。
「……そうだとしても、文晶様が傷ついたことに変わりはないわ。今もお辛い思いを……」
「あっ、ハイこれ」
魅音は懐から、手紙を取り出す。
「えーと、ちょうど文晶様から後宮に届いてたものでーす」
さすがに、今日一日で尼寺に行って書いてもらってきた、とは言えない。
「へ? ちょうど手紙が来た……って?」
さすがに混乱しつつも、青霞はとにかくそれを受け取り、開いた。
手紙には、文晶が侍女たちに向けて書いた、詫びと感謝が綴られている。今、寺で穏やかに、子どもたちと暮らしていることも。
「ああ、文晶様……!」
手紙を抱きしめた青霞の表情が、ふわり、と柔らかくなった。
同時に、薄暗い部屋の中、青霞の身体が一瞬内側から光を放ち、そしてゆっくりと消えた。
(あ。今、生霊が完全に、青霞の身体に戻った)
ホッとした魅音は思わず、青霞の膝にすがるようにして床に座り込み、大きなため息をついた。
「あーーーー、よかった」
「わ、翠蘭、大丈夫? あの、あなた、結局今日は何をしていたの? 耳飾りを預かると言ったきり、姿が見えなくて」
「えっ、あっ、何にも? ちょっとその辺をぶらぶらしてただけ。耳飾りありがとうね、お祓いしないとね」
へへっ、と魅音が笑ってごまかしていると、戸をトントンと叩く音がした。
「青霞様、お食事のお時間です。……あら?」
戸が開いて、雨桐が顔を出し、魅音に気づいて目を丸くする。
「翠蘭様、こちらにいらっしゃったんですか⁉ お戻りになられたなら声をかけて下されば」
「あ、ごめんごめん! ご飯? 私のご飯もあるよね? 部屋に戻るからちょうだい、もうめちゃくちゃ腹ペコでお腹と背中がくっつきそう! 卵焼きもつけてね!」
魅音は元気よく立ち上がり、「じゃあね青霞!」と手を振って部屋を出た。
自室に戻り、長椅子にぐったりと座り込む。
「あー、疲れたぁー」
そしてふと、思った。
(……それにしても。青霞はずーっと後悔していたんだろうに、どうして今? 一昨日の夜になってから、何をきっかけに、生霊があんなふうに動き出したんだろう?)
しばらくして、魅音が戻ったと聞きつけた昴宇がやってきた。
食後のお茶を飲みながら、魅音は今日の顛末を話して聞かせる。すると昴宇は、疑問が晴れた、といったすっきりした表情になった。
「道理で、耳飾りから感じる念が弱いと思っていたら。他者への害を引き起こす怨霊ではなかったわけですか」
「うん、びっくりだよね。噂話以外で初めて怪異が起こったと思ったら、生霊よ生霊」
「いや、あの、怪異は初めてではありませんからね? 鬼火が出てますからね?」
「人が死んだ場所で鬼火が出るのなんか、当たり前すぎて」
数に数えていない魅音に、昴宇は少々呆れた。
「いい度胸してますね」
「褒めるな褒めるな」
「褒めてません。とにかく、他にも不幸な目に遭った妃はおいでですし、その周辺をちょっと調べてみた方がいいかもしれませんね」
「そうね。ところで、蝶の耳飾りはどうしたらいい? 青霞が盗んだみたいになっちゃってるけど、誰も気づいてないし」
結局持ってきてしまった耳飾りを見せると、昴宇はすぐに答えた。
「今になって後宮内で見つかった、ということにして、太常寺に保管しましょう。他の縁起が悪い品と一緒にね。陛下にも、そういうことで各所に話をつけてもらいます」
(へぇ?)
ふと、魅音は思う。
(陛下って結構、昴宇の言うことなら何でも聞いてくれるのかな。そんな言い回しだったよね。ずいぶん気に入られてるんだな)