15 山寺の尼僧
昴宇を呼び出した魅音は開口一番、宣言した。
「明日、文晶妃に会ってくる」
「は?」
目を丸くして、昴宇は聞き返した。
「ちょ、永安宮の陛下に会いに行くだけならまだしも、天昌を出るつもりですか⁉」
文晶妃は現在、天昌の北の山中にある尼寺で暮らしているのだ。近いとはいえ、普通に行くなら馬に乗って行っても一泊しなくてはならない
魅音は、耳飾りの事情について説明した。
「――というわけで、この耳飾りに文晶妃の怨念が憑いてるみたいなの。でも本人は生きてるんだから、生霊に近いものなわけ。それなのにこれを封じたり壊したりしたら、その人も壊れてしまう。本人に生霊を戻さないといけない。で、行くなら一番速いのは、狐の足で走れる私」
魅音は自分を指さして、「いいよね?」と首を傾げてみせた。
「な、なるほど。それなら、一日で帰ってこれる……か……」
納得せざるを得ない昴宇がうなずくと、魅音は片手を差し出した。
「生霊を身体に返す霊符みたいなやつ、あるよね? ちょうだい」
「自分で神通力を使って仙術とかかけられないんですか⁉」
「かけられませんが何か⁉」
「はいはいそうでした今は人間ですもんねキレないで下さいよ。全く、方術士使いが荒い……」
昴宇は懐から霊符用の紙を取り出すと、墨を磨ってサラサラと霊符を書いた。魅音の見たところ、複雑な呪文を完璧に霊符に仕上げている。
「……よく覚えてるね」
「基本的な呪文くらい、覚えてますよ」
さらりと言う昴宇だが、魅音は
(これで『基本』?)
と思う。
(太常寺に所属する方術士の中では下っ端、みたいな話だった気がするけど、皇城の方術士ってそんなに優秀な人が揃ってるのかな。それとも――)
「――できました」
書き上げた昴宇は、それを魅音の前に置いた。
「これを耳飾りに重ねた上で、文晶妃の身体のどこでもいいので触れさせてください。発動します。……魅音、一人で大丈夫なんですか? 怨念が暴れるかもしれない」
「まぁ大丈夫でしょ、青霞を憑り殺してない程度のやつだし」
さらりと言う魅音を、昴宇は眉間にしわを寄せて見つめた。そしてふと、卓子の上にあった耳飾りを手に取り、つぶやく。
「でも確かに、僕が触ってみてもこの耳飾り、そこまで強い念は感じないんですよね。力が内へ、内へと向いているというか……」
山の中の靄はすっかり晴れて、杉の木の間を日光が幾筋も、斜めに射し込んでいる。
尼寺に続く石段を、白い狐が一匹、飛ぶように駆け上っていた。魅音である。
昼が近くなり、山門が見えてきたところで、魅音は足取りを緩めた。人目がないのを確認し、くるり、と前転して人間の姿になる。
しかし、その姿は魅音ではない。外見は、青霞のものだった。
「お頼み申します。こちらに、高文晶様がおいでと聞き、訪ねてまいりました」
山門の前で、青霞の姿をした魅音が声を張り上げると、僧が出てきて中に通してくれた。案内されて本堂を回り込むと、何やら賑やかな声が聞こえてくる。
少し開けたところで、数人の子どもたちが、毬で遊んでいた。そして、そんな彼らを外廊下の石段に腰かけてニコニコと眺めている、若い尼僧がいる。剃り上げた頭、臙脂色の僧服は詰襟で腰で縛ってあり、同じ色の袴を履いていた。
「……高文晶様?」
「……はい」
ゆっくりと魅音に目を向けた尼僧が、文晶だった。どこか夢見るような、とろんとした目つきをしているけれど、その目をぱちぱちと瞬かせて言う。
「…………青霞? 青霞ね、まぁ……」
「お久しぶりでございます」
「会えて嬉しいわ。元気そうで、何よりです。でも、どうして、このような山の中まで?」
「文晶様。私、罪を告白するために参りました」
魅音はゆっくりと文晶に近づきつつ、懐から紙を巻いたものを取り出した。
「これを盗んだのは、私です。その罪を、私が文晶様に、着せたんです」
両手で差し出すと、つられたように文晶が手を出した。載せる時に、ちゃり、と音がする。
霊符で包んだ耳飾りである。二つを同時に文晶に触れさせるように、昴宇に言われていた。
(さあ、元の魂にお帰り)
魅音は、文晶が霊符を開いて中を見るのを確認してから、両膝をついて頭を垂れた。
「申し訳ありませんでした。幾重にもお詫びいたします」
頭を下げ、霊符の発動を待つ。
――ところが、発動する気配がない。
(え? 触ってるのに……おーい昴宇、どゆことー?)
痺れを切らしてちらりと顔を上げる。
文晶は耳飾りを見つめ、泣き出しそうな顔をしていた。そして、魅音に視線を移す。
「謝らないで、青霞」
屈んで魅音を助け起こし、文晶は言った。
「ええ、そうね、私に罪を着せた誰かを恨みながら、私はこの寺に来たわ。でも、だんだん心が落ち着くにつれて、私も悪かったと気づいたの」
「え……」
「後宮から出たことでやっと、物事を外から見られるようになりました。そして、先帝陛下と珍貴妃が妃たちにしていたことが何だったのか理解して……たとえ私は良くても、辛い思いをしている人が何人もいたのに、私は自分が子を産むことしか考えていなかった」
文晶の手は、小さく震えながらも、魅音の手を強く握る。
「先帝が討たれたから、私を救ったあなたにもきっと幸せが訪れているはず、と信じていましたが……自分を責めて、ずっと辛い思いをしていたのね。ごめんなさい青霞、もういいのよ。私は今、この子たちと幸せに過ごしているわ」
「あ、はい、あれ? えっと、あの、子どもたちってどういう」
発動しない霊符に戸惑いつつ、きゃっきゃと遊び回る子どもたちについて魅音が問うと、文晶はその視線を追って微笑んだ。
「先帝の、身内の子どもたちよ。親が連座して罰せられて、子は寺に預けられたの。子に罪はないから、大事に育てているわ。反省の日々を送っていた私のところに、こんな可愛い子たちが来てくれるなんて……」
(ん?)
魅音は少し考えてから、文晶に尋ねた。
「では文晶様は、この子たちが来る前にはもう、罪を着せた犯人を恨む気持ちはなくなっていたのですか?」
「……? そうよ」
不思議そうにしつつも、文晶はうなずいた。
「それで心が落ち着いて、身体も健康を取り戻したの」
(確かに、顔色もいいし……え、待って。じゃあもうだいぶ前から、文晶妃は青霞を恨んでなどいない。それなのに一昨日の夜、青霞は耳飾りにとり憑かれて、あんなふうに……)
しかもたった今、生霊を本体に戻す霊符が、文晶には効かなかった。
(……青霞をあんなふうにしたのは、文晶妃の生霊ではないということ? じゃあ、どうして)
はっ、と息を呑み、魅音は立ち上がった。
(そうか!)
「青霞……? どうしたの?」
不思議そうに見上げる文晶に、魅音は早口で答える。
「あの、その紙と耳飾り、返してもらっていいですか⁉ 皇后様にお返ししますので!」
「あ、ええ、どうぞ……?」
そもそも、とっくに皇后に返したはずの耳飾りである。青霞が持ってきているのがおかしいのだが、そこまで頭が回らないらしく、文晶は戸惑いつつも返してくれた。
魅音は受け取りながら言う。
「それと、今の話、一筆書いていただいても⁉」
「書く?」
不思議そうな彼女に、魅音は大きくうなずいた。
「青霞……は私か、ええと、文晶様を心配している元侍女たちに、文晶様の今の様子を知らせたいんです!」
「ああ、そうね。では、少し待っていてくれる?」
文晶はうなずき、手紙を書くために寺の中に入っていく。
魅音は、杉の木々の間から見える空を見上げた。
(夜になったらアレが目覚めて、また悪さをするかもしれない。なるべく早く帰らないと!)