13 月夜に現れた女
その夜。
魅音が眠りについて、まもなくの頃だった。
(……ん?)
何か聞こえた気がして、魅音はふわっと眠りの淵から浮上した。
(人の声……?)
女の声のようだ。ぼそぼそと、外から聞こえてくる。時折、すすり泣きが混じった。
(もー。夜中に独り言とか迷惑ー、やめてよね)
そう思いながら寝直そうとして、あ、と目を開き起き上がる。
(いかんいかん、幽鬼かもしれないのか。確かめないと)
人ならざるものに慣れ過ぎているのも考えものである。
寝台から降りた魅音は、布の履に足を入れた。寝間着のまま静かに戸を押し開けると、外廊下に出てみる。
内院には月明りが射し込み、ぼんやりと明るい。
その内院を、ゆらゆら、ふらふらと横切っていく人影がある。
やはり寝間着姿のそれば、青霞だった。おぼつかない足取りで、よく見れば裸足だ。冷たい石畳の上を、ぺた、ぺたと歩いていく。
(寝ぼけてるの……?)
確かめようと見つめる魅音の前で、青霞は口を開く。
『私はやってない……嫌よ、後宮を出たくない』
魅音は眉を顰めた。
(青霞の声じゃ、ない)
青霞の口から、青霞よりも高い女の声が、つらつらと漏れ出す。
『盗んでなど……おりません……本当です……私にはお役目が。子を産むお役目が。どうかお情けを……嫌、追い出さないで、私は何もしてない、まだ何も、何も、何も』
魅音は外廊下から内院に降りると、スタスタと青霞に近づいた。彼女の前に回り込む。
「はい、こっち見て」
『…………』
ゆっくりと、彼女は顔を上げた。その顔からは、表情が抜け落ちてしまっている。
『……なに?』
そう言った青霞の耳元で、何かが揺れた。
耳飾りだ。昼間、青霞が落としてすぐにしまいこんだ蝶の耳飾りが、片方だけ彼女の耳で揺れている。
魅音はゆっくりと聞き返した。
「あなたは、誰なの?」
『私は……文晶。高文晶』
つぶやいた青霞は、微笑む。
『私、妃として、陛下のお子を産むの』
「そう。その蝶の耳飾りは、あなたの?」
『……みみ、かざり』
しゃっくりのような音が喉から漏れた直後、青霞の声が割れ始めた。
『違う違う違うっ、私のじゃない、私じゃない!』
いきなり青霞は、自分の顔の左側を両手で掴むような勢いで触った。耳飾りを探り当てると、必死で外そうとする。
『盗んでなんかいない、私じゃないのに、ひどいわ、どうして、誰が』
魅音は手を伸ばし、青霞の両手を押さえた。
「そんなに力任せにしたら、耳がちぎれてしまう。待ちなさい、外してあげるから」
『……あ……』
青霞はボーッとした目で魅音を見つめ――
――ふっ、と身体から力が抜けたかと思うと、倒れかかって来た。魅音は素早く彼女を支え、一緒にしゃがみ込むようにして石畳に座らせる。
その拍子に、耳飾りが魅音の胸元に触れた。
(あ。触ってやっとわかった、この耳飾りって何か憑いてる)
魅音の目が赤く光り、にょき、と頭に狐の耳が生えた。口からはチラリと牙が覗く。本性を垣間見せて、威嚇したのだ。
ぼんやり光っていた耳飾りは、チリチリッと震え、そしてフッと光が消えておとなしくなった。
(やれやれ)
魅音も耳を引っ込め、耳飾りを青霞の耳の穴からそっと抜く。
すると、うっすらと青霞が目を開いた。
「……あ……」
「目が覚めた?」
魅音は言いながら、さりげなく耳飾りを自分の懐に隠す。
「え……翠蘭? あれ、やだ、何で外?」
魅音にもたれていた青霞は、慌てた様子で身体を立て直した。その声は、元の青霞のものだ。
「嘘、私ったら寝ぼけたの? 恥ずかしい、ごめんなさい、あの、ありがとう……!」
「いいのいいの。なんか気配がするなと思ったら内院にいるから、びっくりしたけどね。もうすぐ陛下に会うから緊張したんじゃない? それとも、昼間の鍼が効きすぎたかな?」
「そうなのかしら、ああもう嫌だぁ」
恥じ入った様子の青霞を助け起こし、魅音は彼女を寝室まで送った。寝台に座らせ、尋ねる。
「何か飲む?」
「大丈夫、ありがとう」
青霞はようやく微笑んだけれど、まだ不安そうだ。
「また寝ぼけたらどうしよう……」
「寝室の戸に、外から箒でも立てかけておこうか。戸が開いたら倒れて音がするでしょ、誰かしら気づくと思う」
そして、魅音はさりげなく続けた。
「そういえば、寝つきが悪いんだったっけ。ずっとなの?」
「え、あぁ」
青霞はハッとしたように目を逸らした。
「ずっとなんてことはないわ! うん、ほら、季節の変わり目だからじゃないかしら? そのうち落ち着くと思う」
「あー、それはあるかもね。さーて、私は戻ろうかなー」
「ええ、ありがとう翠蘭。おやすみなさい」
「おやすみ、青霞」
魅音はにっこりと微笑みかけると、青霞の寝室を出た。そして、正房の裏手にある物置から箒を持ってくると、青霞の寝室の戸に外から立てかける。
自分の寝室に戻り、寝台に腰かけると、魅音は懐から耳飾りを取り出した。
手のひらの上で月光を反射して、翡翠の蝶は妖艶なまでに美しい。今にも羽ばたきそうに見える。
(高文晶、と言ったっけ。あれは誰? 一体、この耳飾りは何なんだろう?)
その夜は、魅音の寝台にある棚に耳飾りを置いて寝たが、何事も起こらなかった。
翌日、昴宇に頼んで調べてもらった結果、わかったことがあった。
高文晶は先帝時代に『嬪』だった妃で、青霞は侍女だったころ、彼女に仕えていたようだ。
「そっか、青霞の主だったんだ。結構前に、後宮を生きて出たって聞いたわ」
魅音が聞くと、昴宇が淡々と答える。
「はい、昨年の秋に。記録を読んでみたところ、皇后の耳飾りを盗んだそうです」
「…………はい?」
「いや、だから、高文晶は、先帝の皇后だった愛寧殿の耳飾りを盗んだんです。それがバレて罰せられ、後宮を追い出されて尼寺に行った、と」
「えぇぇ⁉」
びっくりして魅音は聞き返す。
「なんかこう、心の病で……みたいなフワッとした理由は聞いてたけど、本当はそれが原因だったの⁉」
「よりにもよって皇后のものを盗むなんて、まともな神経ではできませんから、心の病といえばそうなのかもしれませんね」
「ええと、その耳飾りって、もしかして蝶の形をした翡翠の?」
指で蝶の形を宙に描きながら確かめると、昴宇が軽く目を見開く。
「……? よく知ってますね、そうです」
魅音の耳に、昨夜の叫びが蘇った。
『違う違う違うっ、私じゃない、私じゃない!』
『盗んでなんかいない、私じゃないのに、ひどいわ、どうして、誰が』
(その心残りが怨念となって、耳飾りに残っている……? 妃として子を産む、ってはっきり言ってたもんね。濡れ衣を着せられるだけじゃなく後宮を追い出されて、役目が果たせなくなって。……でも)
彼女は、懐に隠した耳飾りに上から触れた。
(どうして、文晶妃が盗んだ耳飾りを、青霞が持ってたの? 犯行が発覚した後、皇后に戻されたのではなく?)
怪異を調べている最中にこんなことを知ってしまったら、文晶妃と青霞に起こったことも調べないわけにはいかない。