1 後宮妃の化けの皮
皇帝の妃に選ばれ、入宮して、一ヶ月。
『陶翠蘭』は、後宮を出て行くことになった。
頭から被巾を被った女は、うつむいたまま石畳の上を歩いていた。翡翠色の裙の裾が、寂しげに揺れる。
先導する宮女が、ちらりと振り返った。
「翠蘭様。アザ、痛みますか?」
「いいえ」
『翠蘭』と呼ばれた彼女は、返事をしながら少しだけ顔を上げた。被巾の隙間から、意志の強そうな吊り気味の目が覗く。その頬には、うっすらと青緑色のアザができていた。
彼女はまた顔を伏せ、袖で口元も隠す。
「心配、ありがとう。こんな色なだけで、痛みはないの」
「そうですか。本当に、一体何が原因なのかしら……医官も結局、治せないなんて」
「仕方ないわ。胸や背中にも出てしまったし。お見苦しい姿を、陛下にお目にかけるわけにはいかないもの」
「ええ……翠蘭様も見られたくないでしょうし……。にしても、一度も陛下にお目通りすらしないまま、後宮を出ることになるとは」
宮女は気遣わしげだ。
石畳の先、外へと繋がる西門へ向かいながら、『翠蘭』は答える。
「こんな私に陛下はお見舞い金を下さって、心から感謝しております。せっかくなので、都の宿で故郷からの迎えを待つ間、他の医者にも診てもらうことにするわ」
後宮を取り囲む、分厚い壁までたどり着いた。
春を迎えて、日射しは暖かい。うららかな風が彼女を送るように、どこかで咲いている桃の花びらをヒラヒラと運んできた。
彼女は門の前で振り向き、胸の前で両手を重ねると、一ヶ月を過ごした後宮に向かって丁寧な礼をした。
「お世話になりました。私はお役に立てませんでしたが、照帝国の、そして皇帝家の繁栄を、心からお祈りしております。……あなたにも、世話になったわね」
「いいえ、私は何も。……故郷までの旅路、どうかご無事で。ご病気の速やかな治癒を祈っております」
礼をする宮女に、彼女は寂しそうに微笑んでうなずきかけた。
そして再び、くるりと門に向き直る。
誰も見ていない被巾の陰、口元を隠した袖の下で──
ニマッ! と、ご機嫌な笑みが浮かんだ。
(さー終わった、帰ろ帰ろ! やーっと以前の生活に戻れるわー)
豪華な丹塗りの門扉は、彼女を牢獄から解き放つかのように、大きく外へと開いていた。
彼女が意気揚々と足を踏み出した。その瞬間。
バチイッ、と、空間に雷のようなものが走った。
「うあっ⁉」
いきなり何かに身体を締め付けられ、彼女はギョッと目を見開いて胸元を見下ろした。
青白く光る紐のようなものが、腕ごと胴体をとり巻いている。
「翠蘭様、どうかしましたか? 忘れ物でも?」
宮女の、戸惑った声。どうやら宮女には、この紐が見えていないようだ。
(何これ、方術⁉)
方術、というのは、神仙の力を借りてかける術のことである。
あわてて彼女が辺りを見回すと、パチッ、ビリビリッ、と後宮の壁の内側に沿って光が走っている。後宮をぐるりと取り巻いているのかもしれない。
(ひと月前、ここから後宮に入った時は何もなかったのに! とにかく、このままじゃ脱出できなくなる。逃げなきゃ!)
彼女は無理矢理、足を踏み出した。門はすぐ目の前なのだ。
しかし、足を動かした瞬間、バチイッ!
青白い光がさらに空を走り、今度は足を束ねるように膝に巻きついた。
当然、彼女は前のめりにスッ転ぶ。
「きゃひんっ!」
被巾がふんわりと脇に落ち、顔が露わになった。
(くっ、動けない。身体が痺れてきた……!)
そこへ、駆け寄ってくる足音がした。つま先の四角い履が視界の隅に入り、男の得意げな声が降ってくる。
「かかったな、妖怪め!」
「なっ、何言ってるのよっ、私はただの人間っ……!」
かろうじて顔を捻り、見上げた。
そこに立っていたのは二十代前半くらいの、ひょろりと背の高い男だった。長い黒髪を後ろで一つに束ね、手に何か薄っぺらいものを持っている。
霊符だ。人間一人一人が持つ霊力を使って術をかける際に使う、呪文の書かれた紙札である。
(やばっ、術士!)
「この結界に引っかかるのは妖怪だけだ。尻尾を出せ! 『顕』!」
術士の男が、シュッ、と霊符を振り下ろした瞬間──
──彼女が、自分で自分にかけていた術が、解けた。
「あっ、ちょ、やめ、うっそおおおん」
身体を取り巻いていた力が消える。
宮女が目を丸くして、つぶやいた。
「え、翠蘭様、顔のアザが消えて……あっ、耳と尻尾⁉」
「んぎゃっ」
『陶翠蘭』の頭にはとんがった大きな耳、軽くめくれた裙の裾からはフサフサの真っ白なしっぽが覗いていた。あわてて霊力を巡らせて引っ込めたが、もう遅い。
そして、さっきまで顔にあった青緑色のアザは、すっかり消えていた。
若い術士は冷ややかな、しかし勝ち誇った笑みを浮かべる。
「正体を現したな。化け狐だったか」
衛士たちが集まってくる中、彼女はくっきりした吊り目で術士をにらみつけた。
(くっそぉ。もう少しで成功だったのに!)
陽がとっぷりと暮れた。
照帝国の都・天昌は、二重の外壁に囲まれており、天昌城とも呼ばれる。その北の中央部に、皇帝が起居し執務する永安宮と呼ばれる建物群があった。あちらこちらで篝火が焚かれ、夜空に火の粉が昇り、星屑に紛れていく。
『陶翠蘭』は後宮ではなく、この永安宮の奥まった一室に連れてこられた。青白い紐はすでに消えていたけれど、物理的に麻縄で後ろ手に縛られている。罪状は、後宮を脱走しようとした罪、ということになっていた。
目の前には、三人の人間がいる。
まずは、さっきもいた宮女の雨桐。『彼女』をチラチラ見て、温和な顔にひたすら困惑した表情を浮かべている。
次に、霊符を使って彼女を捕まえた術士、昴宇。ギロリとした目つき、とんがった雰囲気の彼は、真面目そうだが根暗そうでもある。彼がこの部屋に方術をかけているため、彼以外の者は術を使えない。
最後に、真正面。美しい彩雲の描かれた壁絵を背にし、大きな椅子にゆったりと腰かけている、その人は。
彼女が会わずに終わるはずだった照帝国の新皇帝、王俊輝その人だった。
「その娘が、『陶翠蘭』か?」
元々は将軍職に就いていた彼は、大柄な身体に似合わない身軽さで立ち上がると、彼女に近づいてきた。
彼は多くの味方の支持を受け、暗愚を極めた先帝を討った。そしてそのまま皇帝に推され、帝位に就いたばかりだ。まだ二十代半ばの若さである。
今現在は、政務が滞っている間に異民族に奪われた土地を奪い返し、腐敗を招いた臣を粛正し、永安宮を追われた有能な人材を呼び戻して人事をやり直し……と多忙な日々を送っており、その姿には覇気が漲っていた。
俊輝は、彼女の目の前に立った。高いところから鋭い視線で見下ろされると、ものすごい圧を感じる。
「報告では、陶翠蘭という県令の娘が後宮に入って間もなく病気になり、顔や身体にできた青緑色のアザが消えないと聞いていた。それで、故郷に帰ることを許したのだが……。しかし、この娘にはアザなどない上、耳と尻尾を見せただと? 化身の者だったとは。いったい、何のために後宮にいたのだ」
「それを、これから白状してもらいましょう」
昴宇が霊符を手に、一歩踏み出した。
彼女は二度、小さく舌打ちをしてから、鼻で笑ってみせる。
「あら、ずいぶんお若い方。あなたみたいなひよっこ方術師が術をかけたところで、私にしゃべらせることなんてできるのかしら」
淡々と昴宇は答えた。
「そうですか。では先に殺してから、魂を呼び出す術を使ってしゃべらせましょう。若いので気が短くてすみません」
「待て待てそうじゃないっ。普通にしゃべるって言ってるの!」
一瞬で彼女は降参する。
「あーもう。翠蘭様、さすがに死ぬわけにはいかないのでしゃべります、ごめんなさーい!」
「つまり、お前は『陶翠蘭』ではないのだな?」
腕組みをした俊輝に聞かれ、彼女はエヘヘと愛想笑いした。
「はい、陛下。翠蘭様のお世話をしていた、もうホントに取るに足らない、陶家の下女でございます。でも人間ですよ、っと」
ぱらり、と手首を縛っていた縄を下に落とし、ぷるぷると手首を振る。
「あぁ、痛かった」
「なっ、お前!」
気色ばんだ昴宇が、反射的に彼女と俊輝の間に割って入った。彼女は両手のひらを見せながら、彼を見上げる。
「痛いから外しただけよ、皇帝陛下に逆らうようなことはしないわ。……ありがと、もう行っていいよ」
左の手のひらには、ネズミが一匹、載っている。白と黒のまだらという変わった模様だ。
彼女が軽く舌を鳴らすと、ネズミはチュッと応えるように鳴き、手から飛び降りて走り去っていった。
「ネズミに縄を噛み切らせたのか」
俊輝は感心したように顎を撫で、昴宇はますます目つきを鋭くする。
「眷属として操れる、ということか? やはり妖怪なのだな?」
彼女はムッと頬を膨らませた。
「その辺の妖怪と一緒にしないで。狐仙ですっ!」
狐の妖怪が修行を積み、神に近い存在になったのが、狐仙である。
「ほう。狐仙」
「い、今はまあ、一時的に生まれ変わって、ただの人間だけど……」
彼女はもごもごと口ごもってから、改めて顔を上げて皇帝を見据えた。
「名でお呼び下さい。私の名は、魅音。胡魅音と申します」