彼の正体
十年前。
色とりどりの花が咲きほこる城のテラス。
子供だらけのお茶会の隅っこ。
独りぼっちで佇む少年の容姿に、リセの目は引き寄せられた。この色ってまるで……
「ねえ……!」
あまりの感動に、リセは不躾に話しかけた。もちろん彼は驚いて、怪訝そうな目を向ける。
「突然ごめんなさい。あなた素敵ね。りんごの色をしているわ」
そう、彼は赤い髪、白い肌、茶色い目をしていた。
リセ自身は亜麻色の髪に茶色の瞳。何の変哲もない普通の容姿をしていたリセには、りんごのようにみずみずしい彼の色合いがとても魅力的に映った。
「リンゴ? なに? わからない」
「えっ……?」
少し言葉を交わしてみると分かった。彼はどうやら異国から来た少年のようだった。言葉は片言で、きっとこちらの言葉はあまり理解していない。
「りんごは、ええと……あれよ」
リセは、少し離れた場所にあるテーブルを指さした。プレートの上には、つやつやと輝くりんごのタルトが綺麗に並べられてある。
「りんごは……赤くて、丸くて、甘くて」
リセは大袈裟なジェスチャーを加えて必死になった。『りんご』が何かということを彼へ伝えるためだけに。
「私、りんご大好きなの」
「君、リンゴ、だいすき」
伝わっただろうか。彼はリセと目を合わせながら、丁寧に復唱してくれた。素直な少年に、リセは嬉しくなってしまって。
お茶会が終わりを告げるまで、少年には沢山の言葉を教えた。
『ケーキ』や『クッキー』を指さしながら。
『うれしい』や『たのしい』は表情をそえて。
リセが言葉を教える度に、クルトはそのまま復唱する。彼は恐ろしい程に飲み込みが早く、教えたものは一度で覚えた。それが凄くて、面白くて。お茶会の時間はあっという間に過ぎ去って……
お茶会もそろそろお開きというころ。
不意に、少年から指をさされた。
「えっ?」
「なまえ」
「そっか、私の名前ね」
「そう、なまえ」
「私は、リセ。あなたは?」
「クルト。リセ、たのしい。すき」
彼の言葉はとてもストレートで。
片言ならではの素直な言葉は、幼いリセを有頂天にさせた。
その後何度か開かれたお茶会にも、彼は現れた。その度に、リセは彼を構い倒した。「たのしい」というクルトの言葉を真に受けて。クルトも嫌がっているようには見えなくて……だからリセは調子に乗った。彼の隣は、リセの定位置になっていったのだった。
そして彼の帰国が迫ったお茶会で。我がエスメラルダ王国の言葉がずいぶんと上達したクルトから、告げられたのだ。
「リセ、必ずまた会おう」と。
いつか会おう、というだけの『約束』。
それが『将来を誓い合った男』の真相だ。
クルトの目尻のホクロを見ながら、リセは十年前の約束をぼんやりと思い出した。「彼は律儀な性格だったのだなあ」と……
いや、それよりも。クルトはどのようにして屋敷の中まで入ってきたのだろう。いつからあの場所でリセとクラベルの話を聞いていたのだろう。
リセはクルトの事を『将来を誓い合った男』として……いずれパートナーとなる男のように話し、クラベルを信じ込ませようとしていた。
聞かれていてはまずい。失礼が過ぎる。
「ク、クルト……ちょっと話が……」
「リセ、言葉を慎みなさい」
クルトに話しかけようとしたリセを、父の声が制した。視線を部屋の入口まで戻すと、そこには舞踏会に出かけたはずの父が息を切らして立っている。
「お父様。どうされたのですか、舞踏会は」
「リセ……その方はディアマンテ王国の第二王子、クルト殿下でいらっしゃる」
ぜえぜえと扉に寄りかかりる父の言葉に、リセとクラベルは息をのんだ。
「ディアマンテ王国の第二王子……?」
あの、りんご色のクルトが?
余計な一言が飛び出そうになり、リセは思わず口をつぐむ。
ディアマンテ王国といえば、我がエスメラルダ王国の隣に位置する大国だ。エスメラルダ王国は商業の発達した豊かな国だが、対するディアマンテ王国は魔法技術で世界を圧倒する魔法大国であった。
「フォルクローレ伯爵、案内感謝する」
「いえ……。リセ、粗相のないように。クラベル、お茶を」
「は、はい!」
あまりの出来事に固まっていたクラベルは我に返り、父と共に部屋を後にした。
部屋に残されたのはリセとクルト、そして……とっておきのチョコレート。
(ど、どうしましょう……)
あの可愛いクルトが、まさかこのようなやんごとなきお方だったなんて。城のお茶会に参加するくらいなのだから名家の御令息なのだろうとは思っていたが、なんと隣国の王子だったとは。
七歳のリセは何も知らなかった。知らなかったとはいえ……当時クルトに何をしただろう。
隣国の王子相手に気安く話しかけ、得意げにエスメラルダの言葉を教え、べったりと纏わりつき、お腹いっぱいと言うクルトへ更にお菓子を勧め、城の庭を連れ回し、魔法を見せろと無理を言い……
(お父様ごめんなさい……もう既に粗相だらけだったわ……)
身体中から体温が無くなってゆく。青い顔をしたリセを見下ろしていたクルトは、おもむろに向かいのソファへと腰を下ろした。
「これは?」
クルトはテーブルの上のチョコレートを一粒摘むと、ためらい無く口の中へ放り込む。
「旨いな」
「それは……今エスメラルダ王国で評判のチョコレートなのです。ひと月ほど予約待ちをして、やっと入手できるほどの」
「リセもメイドも、旨そうに食べていたな」
その言葉で全てを悟った。
クルトは最初から、全て聞いていたのだと。
リセはもう腹を括るしかなかった。
「申し訳ございません!」
リセはクルトに向かって勢い良く頭を下げた。額に、嫌な汗が流れる。
「私はメイド相手にありもしない事を話しました。後で全て訂正致します、そのようなことは無かったと。過去にも数々の御無礼を……大変申し訳なく、なんとお詫びして良いのか分かりません」
頭の中が猛スピードで回転している。回転し過ぎて、空回りしている状態だ。
もう、何から謝っていいのか分からなかった。気安く話しかけていたことや庭を連れ回したりしたことなども、ひとつひとつ謝罪していくべきだろうか……
「リセ」
考えを巡らせていると、不意にクルトから名を呼ばれた。下げたままだった頭を、おずおずと上げてみると……
突然口いっぱいにひろがる甘い香り。目の前には数粒、浮遊するチョコレート。リセは理解するのに数秒かかった。クルトの魔法で、チョコレートを食べさせられたのだと。
「くくっ……」
チョコレートを頬張りながら目を丸くしているリセを見て、クルトは笑っている。からかうようなその瞳は、やけに可笑しそうで……
なにが。なにがそんなに可笑しいのだろうか。
「リセ、普通でいい」
「えっ?」
「俺は昔のように、リセと普通に話したい」
普通……と言われても。
無理である。だってクルトがディアマンテ王国の第二王子だと、リセは知ってしまった。一介の伯爵令嬢が気安く喋って良いような御人ではないのだ。
「殿下、無理を仰らないで下さい」
「なぜ無理などと」
「殿下が王子様でいらっしゃるからです」
クルトはリセの返事が納得いかなかったのだろう。腕を組み、なにか考え込んでいる。
「分かった。せめて『殿下』をやめろ」
「そんな……では、なんとお呼びすれば」
「クルトと」
いや、それも無理だろう。あまりの無礼に、父が激昂するに違いない。
「それではクルト様、と呼ばせていただきます。よろしいですか」
「……仕方ない」
クルトは少し不服げにため息をつくと、改めてリセと視線を合わせた。
「リセ、これからよろしく頼む」
『これからよろしく』。
一体何を?
リセは混乱していた。隣国の王子から、何を『よろしく』と頼まれることがあるというのだろうか。
早く、早く……お父様戻ってきて。クラベル、早くお茶を持ってきて……
成長した彼と対峙するリセは、戸惑いを隠しきれなかった。
なぜかクルトと、二人きり。
静かなこの部屋で、時計の秒針だけが妙に耳に鳴り響いた。