吹き荒ぶ風の中で
すきま風の音が響く、倉庫の中。
時折、強く吹く北風が倉庫の扉をガタガタと揺らした。
「……クルト殿下が来たかと思ったね」
「え?」
「今の風、あの突風に似てたから」
リセとセリオンの二人は、もうかれこれ一時間ほど寒い倉庫内で座り込んでいる。
助けを呼びたいのは山々だけれど、このままシルエラ達の思惑にはまってしまうのも避けたかった。
「クルト殿下、リセがいないことに気づいたかな」
「そうね……そろそろ気づいて下さったかもしれないわね」
クルトは音楽室。
本当なら今頃、クルトとリセは帰り支度を始めるところだ。リセがいつまで経っても戻らないことを、心配しているかもしれない。
「リセ、やっぱりこのコート返すよ」
「どうして。駄目よ、セリオンは薄着なんだから」
「リセとこんなとこで二人きりな挙句、コートまで借りてるなんて……殿下に知れたら殺されちゃいそう」
「何言ってるの、セリオンにとっては不可抗力だったのよ。クルト様もそんなに心狭くないわよ」
「そうかなあ……」
リセに再び押し切られて、セリオンは渋々コートを羽織り直した。その溜息さえも、白く凍ってしまいそうな寒さである。
リセは震えながら考えた。
大声を出して助けを呼んでしまえば、ここから出られるかもしれない。けれど、密室にいたリセとセリオンはあらぬ疑いをかけられる。
しかし助けを呼ばなくとも、いずれシルエラの息のかかった者がやってきて、リセとセリオンの関係をでっち上げるのだ。
助けを呼んでも呼ばなくても、リセの醜聞は避けられない。
ならばもう、早く助けを呼んで倉庫から出してもらった方が得策かもしれない。何せここは寒すぎる。制服のジャケットを着ているとはいえ、リセの身体も冷えきってしまっていた。
醜聞……クルトは、どう思うだろうか。ディアマンテ王国は、どう思うだろうか。せっかく、リセを婚約者として歓迎してくれているというのに。
つくづく、自分の情けなさに落ち込んでしまう。
婚約の話が進んでいたとしても、まだリセはただの『お世話役』に他ならない。
もし……この醜聞が原因で、婚約の話が流れてしまったら。クルトとは、これきりなのだろうか。クルトがディアマンテへと帰ってしまったら、もう会えなくなってしまうのだろうか……
「……リセ、泣いてるの?」
「えっ?」
セリオンに言われて気がついた。
リセの頬に涙が一筋、流れていたことに。
凍りそうな手でそっと頬に触れてみれば、あつい涙が指先を濡らした。
涙に触れた途端、じわじわと胸が苦しくなってゆく。
世話役として傍にいたのは、ほんの少しだけの間であったのに。
彼との未来が失われることを想像しただけで、こんなにも悲しい。
知らぬ間に……涙が溢れてしまうほど。
リセはやっと自覚した。自分の気持ちに。
クルトがどれほど大きな存在か……
「セリオン、ここを出よう」
「え……どうやって」
「倉庫を壊そう。自力で出よう」
「なに無茶言ってるの。落ち着きなよ」
リセはセリオンの制止もきかず、倉庫を壊せる何かを探し始めた。
ここから出よう。扉を壊そう。何か、何か……リセは泣きながら、取り憑かれたように倉庫を探した。
クルトとの未来を守りたい一心で。
倉庫の片隅に、大きく頑丈なスコップを見つけた。これなら扉を壊せるのではないか……
「そんな重いスコップ、リセじゃ持つだけでやっとでしょ。俺でも無理だよ」
「で、できるわ」
リセは大き過ぎるスコップをずるずると引きずってみたが、力をいっぱい込めてみても持ち上げることすら叶わない。持ち上げようとしたスコップはカランと大きな音を立て、リセの足元へ倒れてしまった。
それを見下ろすリセの瞳からは、再び涙がぽろぽろと溢れてきた。己の非力さに泣けてきて。
「ああもう、やめてよ……リセ、正気に戻ってよ」
付き合いの長いセリオンも、こんなに取り乱したリセは初めてであった。幼い頃からマイペースで泣いたことも無かったリセが、今は子供のように泣いてしまっている。
「大丈夫だよ。何があっても、クルト殿下がリセを手放すわけないでしょ」
「わ、分からないじゃない。クルト様が望んでくれても、周りがそれを許さないかもしれないじゃない」
リセは足元に転がったスコップを見つめたまま、ボロボロと涙をこぼす。今セリオンがどんな言葉をかけても、きっとリセの心には届かない。
「もー……どうすればいいのさ」
セリオンにはお手上げだった。かくなる上はダメもとでこのスコップを使ってみるか……
一体誰が使うんだと思うくらいに大きく重いスコップを、セリオンが手に取った時。
突然、ガタガタと倉庫全体が震え出した。
「な、何……すごい風だわ」
「倉庫ごと吹っ飛びそうだね……」
外を、ものすごい風が吹き荒ぶ。この倉庫など、壊れてしまうのではないかと思うほど。その風は、どんどん勢いを増してゆく。
恐ろしいほどの風。
なのに、どうしてなのだろう……この風の音が、リセを落ち着かせてくれるのは。
心に希望が灯るのだ。この嵐のような風は、もしかして────
南京錠をかけられた倉庫の扉は、ガタガタと激しく音を立てて……
ついには、扉は鍵ごと吹き飛んだ。
扉が取り払われると、次第に風も収まってゆく。
入口から見えるのは暗く日が落ちた学園で……遠巻きに集まる生徒達。取り巻きを連れて固まるシルエラ。そして────その身に風を纏わせ、佇むクルト。
「リセ」
暗がりの中でも分かる彼の赤い髪が、風で舞い……リセは目が離せなかった。
クルトは解放された倉庫に向かって、迷い無く歩いてくる。
その姿が、その足音が、リセの心の奥を大きく揺さぶった。
「クルト……っ」
リセは、彼をそう呼んだ。
それは無意識だった。縋るようなリセの声にクルトは目を瞬かせ……自身から立ち昇る風をするすると消滅させてゆく。
穏やかさを取り戻したクルトは、リセの正面へと立つと……彼女をふわりと抱きしめた。
「リセ、気づかなくてすまなかった」
リセの冷えきった身体が、クルトの温もりに包まれる。
彼の腕の中は、とても暖かくて安心して。
身も心も、触れた場所から溶けてゆくようだった。
あと二話ほどで完結予定です。