リセの春
「さあ、リセお嬢様。今日も張り切ってきれいにしましょうね」
「クラベル、ほどほどでいいのよ」
「何を仰いますか、リセお嬢様は今や注目の的でらっしゃるのに。ちゃんとしましょう、ちゃんと」
最近、メイド長のクラベルは張り切っている。
朝はリセの髪を念入りに梳き、夜は丁寧にオイルを塗り込んで。
今もクラベルが櫛を動かす度に、長い亜麻色の髪がさらさらと輝く。
「髪も随分伸びてしまったわね。そろそろ少し切ってもらおうかしら」
「こんなにも美しい御髪を切るなど勿体ない。クルト殿下もお嬢様のこの髪が大層お気に入りのようですし」
「そうかしら」
「そうでございますよ!」
鼻息も荒くクラベルが主張するので、リセは思い出してしまった。クルトに、髪をなでられた日のことを。
たちまち顔を赤くし俯くリセに、クラベルはようやく来た春を見た。
「ふふ。お幸せなのですね、リセお嬢様」
「そ、そうね……」
リセはそう答えるだけでやっとだった。
地味色で普通すぎるこの髪も、クルトが気に入っているなら悪くない。そう思った朝だった。
「リセ、最近きれいになったね。一ヶ月前とは全然違うよ」
いつものようにテニスコートでクルトを眺めていると、こちらもいつものようにセリオンがやって来た。ゆったりと、購買で買ったドリンクを飲みながら。彼は珍しくリセを褒めた。一言余計であるのだが。
「毎朝、メイド長が張り切って支度してくれるの。髪なんて、それはもう時間をかけて」
「まあ、リセは注目浴びてるしね。身なりくらいはきちんとしておかないとね」
「セリオン、貴方いちいち一言多いわね」
たしかにクラベルやセリオンの言うように、リセへの注目は以前と比べものにならないほどであった。
クルトとの婚約はまだ二人の間での口約束に過ぎず、ディアマンテ王へは一先ず報告をした段階。正式な契約を交わした訳では無い。なのに、学園ではいつの間にか周知の事実のようで驚いている。
「まだ、婚約者じゃないんだけどな」
「でもクルト殿下はそのつもりでしょ」
そうなのだ。クルトは本気だった。
リセが婚約に了承してからというもの、クルトは何度かディアマンテと婚約についての書面をやり取りしているようだった。
普段無口なクルトが、このことについてはリセへの報告を欠かさなかった。それはきっと、リセを安心させるために。
「そろそろ、殿下にもう少し甘えてあげたら」
「……え? 何言ってるの……?」
「昔はあんなに仲が良かったのに。いつまで他人行儀なの」
他人行儀なのだろうか。
クルトは王子だ。しかも大国ディアマンテの。父からも念を押されて言われている。『決して粗相のないように』と。
「私は、クルト様に失礼が無いように……」
「それだよ。それが他人行儀だって言ってるの」
「そんなこと言われても」
「クルト殿下のこと、嫌いじゃないんでしょ?」
リセがクルトのことを嫌いなはずがない。
むしろ十七歳のクルトを前にすると、リセは妙に落ち着かなくなる。もっと近づきたいような、でも離れたくなるような……自分で自分がコントロール出来なくなるのだ。
「俺と話すみたいに、殿下とも話してごらんよ」
「で、出来るわけないでしょ」
そうやってセリオンの無茶振りをあしらっていると。
「よくあんな恐ろしい国へ嫁ごうなんて思うわね」
美しく棘のある声が響いた。
リセは、声の主へと視線を向けた。侯爵令嬢シルエラとその取り巻きが、クスクスと笑いながらリセとセリオンの前へと近づいてくる。
「恐ろしい国……? なんのことでしょうか」
「ディアマンテのことよ。嫁ぎ先があんな野蛮な国なんて、ほんとうにお可哀想に」
シルエラのその目からは、敵意しか感じられなくて。リセを『可哀想』などと思いやっているようには到底見えなかった。
「シルエラ様が仰っている意味が、よく分かりませんが」
「ディアマンテの方々は皆、恐ろしげな魔法を使うとか。そのような国にお独りで嫁がれるとは、リセさんは流石ですわね。怖くはありませんの?」
シルエラ達は大国ディアマンテを『恐ろしい』『野蛮』と言い、可笑しげにクスクスと笑う。
どうしたというのだろうか。ついこの間までクルトの周りで黄色い声を上げていたシルエラの、手のひらを返したようなこの態度は。
「ディアマンテは……魔法は、恐ろしくありませんよ」
「なんですって?」
リセは思わず言い返してしまった。だって許せなかった。なぜディアマンテが……クルトの国が、そのような言われ方をしなければならないのか。
「私……魔法は素晴らしいと思っています。昔からずっと」
昔クルトの魔法を見たあの日から、魔法に対してはただただ憧れるだけ。
リセが知らないだけで、恐ろしい魔法もあるのかもしれない……クルトが以前放った、突風のように。それでも、目にした事の無い魔法に対して恐れを抱くなど、リセには出来なかった。
「それに、私は独りではありません。クルト様がいらっしゃいますから」
「まあ! 生意気な」
侯爵令嬢であるシルエラに対して、言い過ぎたかもしれない。彼女は顔を真っ赤にして目を吊り上げた。
シルエラの美しい手が、リセめがけて振り上げられた。
叩かれる。そう思った時。
肩を抱かれた。
クルトだった。
振り上げられたシルエラの手は、クルトを前にして行き場を失い……そろそろと降ろされた。
「クルト様」
「リセ、無茶をするな」
「は、はい……」
クルトはリセを隠すように、シルエラと対峙した。突如現れたクルトに、リセだけでなくシルエラ達もたじろいでいるようである。
「リセは私の婚約者だが、お前はそれを知っていて殴ろうとしたのか」
鋭く温度の無いクルトの目が、シルエラを射抜く。しかしシルエラはその冷たい視線に負けじと口を開いた。
「……リセさんはまだクルト殿下の婚約者ではないと、父からもそう伺っておりますわ」
「ディアマンテは、リセを婚約者として歓迎している。あとは双方の意向を詰めるのみだ」
「なんですって……」
これにはリセも驚いた。こんなにも早く、婚約の話がそのようなところまで進んでいるとは。
リセがクルトを見上げると、冷え冷えとしていた彼の表情も柔らかく緩む。
「……行くわよ」
シルエラ達は唇を噛みながら去っていった。
一体、彼女達は何がしたかったのだろうか。悪目立ちしているリセを、『ディアマンテへ嫁ぐ可哀想な娘』だと罵りたかっただけなのだろうか。
「はあ。分かりやすく妬まれてるね、リセも」
「えっ。シルエラ様は私のこと『可哀想』だって言ってたけれど?」
「あのねリセ。クルト殿下のお世話役に名乗り出るほどの人が、本気でそんなこと思うかな? ほんと鈍感なんだから」
セリオンはリセに向かって、小馬鹿にするようなため息をついた。何も分かっていなかったリセは、黙りこくるしかない。
そうか……先程の一件は、シルエラに妬まれていてのことだったのか。それでは、シルエラはまだクルトに未練が?
「リセの不安を煽り、あわよくば婚約を辞退させようとしたのだろう」
「そうなれば、シルエラ嬢にもチャンスがあるかもしれないからね」
なんと……そういうことだったとは。つくづく自分の鈍さに呆れてしまう。
「リセ」
クルトはリセの名を呼ぶと、そっと彼女の手を取った。彼は手を離さぬまま、じっと俯いていている。
どうしたのだろう。リセはされるがままに、彼の一挙一動を見つめていたら。
「……ありがとう」
ぽつりとそう呟いた彼の顔が、十年前の彼と重なって。
もう一度、クルトと出会えて良かった。
十七歳の彼と出会えて、本当に良かった。
リセは湧き上がる自身の幸せを、心の底から噛み締めたのだった。
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