クルトの我儘
「リセ、良くやった」
父は書斎でリセを迎えた。心配症な父だが、それはそれは輝くような笑顔で。こんなにも明るい父は久しぶりだった。このところ、クルトのことで心配を掛け通しであったから。
クルトと別れてから、リセは父にすぐ報告をした。
彼から婚約の打診を受け、そしてリセはそれをお受けしたと。するとどうだ。父はリセを抱きしめ、泣きながら喜んだのだ。
何度目かの大きな大きな「良くやった」が、部屋に響いた。
「クルト殿下は大国ディアマンテの第二王子、別にエスメラルダの者と繋がらなくても困らぬほどのお方。にも関わらずわざわざリセへ求婚してくださった。お前はなんて幸せ者なのだろう」
父の、大袈裟なまでの喜びよう。クルトとリセの縁談は、これほどまでに望まれているものだったのか。クルトへの返事は間違っていなかったのだと、リセは安堵したのだが。
「これで、エスメラルダも安泰だ。良かった良かった」
リセは返事が出来なかった。
父の顔を見ることすらも。
「リセ、よかったね」
いつものテニスコートにて。リセの隣には当たり前のようにセリオンが立っていて、二人は一緒にクルトのテニスを眺めている。
「……よかったのかしら」
クルトがリセを抱え、コートを立ち去ったあの一件以来。侯爵令嬢シルエラ達のあからさまなアプローチは無くなった。ただ依然としてクルトの人気は健在で、彼の周りには多くの生徒達が群がっている。
「何を悩んでいるのさ」
「……私でいいのかなって」
「いいのかなって……誰よりもクルト殿下本人がそれを望んでいるじゃない」
セリオンはクルトと約束した通り、リセに触れたりということはなくなった。ああやって手を握ったり肩を抱いたりもされたが、彼は純粋にクルトとリセの応援をしていたつもりのようだった。
父と同じく、セリオンもクルトとリセの婚約話を喜んだ。ただ、父とは違い、友人として。
「リセは嫌なの?」
「え?」
「クルト殿下との婚約が」
「……嫌なわけでは……」
「ほんとリセって何様なの。何がそんなに不満なの」
リセのなんともはっきりしない態度に、セリオンはイライラとしているのだろう。言葉にトゲがあり、そのトゲがリセの胸にグサグサと突き刺さる。
『私でいいのかなって』
リセにとっては本当に、その一言に尽きるのだ。
今でこそ手放しで喜んでいる父だが、リセがクルトの世話役に選ばれた日など「リセで大丈夫なのだろうか」と、頭を抱えながら心配していたではないか。
リセだって心配だ。自分はただの伯爵令嬢で、何の取り柄も無く、ディアマンテの言葉を操る訳でもない。
そんなリセが、ただクルトに選ばれたというだけでディアマンテ王家に嫁ぐというのは、果たして現実的なものなのだろうか。夢物語のようにしか思えない。その上、この婚約が国と国を繋ぐ、などと言われて……
「私……周りについていけないの」
「ついていけない?」
「だって私、つい一ヶ月前まで本当に何も無かったのよ。婚約も、恋愛も、夢中になることも、何も」
「まあ……リセって、ぼーっとしてたもんね」
そんなリセの前にいきなり現れたクルト。二人の仲を後押ししようとするエスメラルダ王家。学園でのやっかみ。父からのプレッシャー。
気づいた時には周りが固められていて、身動きも取れなくなっていた。リセはいきなり目の前に敷かれたレールを、現実感の無い足取りでただ歩くだけ。
「これがエスメラルダのための婚約だとしても、私……実感が湧かなくて」
視線の先にはラケットを振るクルトの姿。彼からも言われた。『エスメラルダと、ディアマンテのために』と────
「リセ、それは違うよ」
思い悩んでいるところを、セリオンからきっぱりと一蹴されて。リセは思わず彼を見上げた。
「リセの婚約は、リセのものだよ」
「私のもの……?」
「リセはリセのために、クルト殿下と幸せな婚約をすればいいじゃない」
無責任に放り投げられたセリオンの言葉は、思いがけずリセの胸へと染み込んでゆく。
この婚約が自分のためだなんて、思いもしなかった。クルトみたいな地位のある人と幸せな婚約だなんて、考えたことがなかった。
リセは気付いてしまった。
婚約について心が晴れない、その理由を……
「セリオンと何を話していた?」
帰りの馬車が、がたごとと揺れる。
目の前で足を組むクルトはいつも通り何も喋らず、時々「寒くないか」とリセを気遣うだけだったのだが。
不意に、彼から声を掛けられた。昼間、セリオンとテニスを眺めていた時のことだろうか。
「見ていらっしゃったのですね」
「……リセの様子が変だった」
「そんなことは」
向かい合うクルトが、真っ直ぐにリセを見る。彼の瞳は、誤魔化そうとするリセのことなど見透かすようで。じっと待っている、リセの言葉を。
「……別に、何でもないのです」
やっと出てきたリセの言葉に、クルトはフッと微笑んだ。なぜ笑うのだろう。今、笑われるようなことは────
「リセは、昔から嘘が下手だ」
「う、嘘なんて」
「リセが『何でもない』と言う時は、何かある時だ」
リセは誤魔化そうとしていたのに、あっさりと見破られてしまった。じっと見つめる彼に、リセの下手な隠し事など通用しそうに無い。
意を決して、リセは口を開いた。
「……私との婚約は、ディアマンテとエスメラルダのためになりますか?」
「ああ、勿論」
「実は私、『国のため』というのがどうにも寂しいようなのです」
クルトが、怪訝そうな表情を浮かべた。
それもそうだろう。王子である彼にとって、婚約など『国のため』に他ならない。そんなクルトにこのようなことを伝えても、呆れられて終わりかもしれない。それでも。
「国のためと言うのなら、『私でいいのだろうか』とも……ずっと思ってました。エスメラルダには、もっと適任である者が沢山居ますから」
「俺はリセ以外、選ぶ気は無い」
「……それは何故ですか? 理由を伺いたいのです、私は」
図々しいということは自覚している。
それでもリセは、クルトの言葉が欲しかった。
彼の世話役になってからというもの、周りの期待に圧倒され、その期待はリセ自身の心を素通りしてゆくような……そんな寂しさがずっと胸にくすぶっていた。
そこから救ってくれるのはきっと、クルトからの言葉だけ。
「何を言うかと思えば」
「……申し訳ありません」
「そもそも、この婚約は俺の我儘なのだから」
「我儘?」
クルトが眉を下げ、申し訳なさげに微笑む。
「俺はリセが欲しい、エスメラルダはディアマンテとの縁が欲しい。ただ利害が一致しただけの事」
「……では、『エスメラルダと、ディアマンテのために』と仰ったのは」
「エスメラルダのためでも良いから、リセに頷いて欲しかった。リセを手に入れられるのなら」
偽りのないクルトの言葉が、リセへと真っ直ぐに届いた。彼の『国のため』という言葉は、リセを手に入れるための手段だったと。
彼が望んでくれたから。
何も無かったリセにとって、それが大きな自信となった。胸に灯った自信は、固くなっていたリセの心を溶かして……みるみるうちに、暖かいもので満たしてゆく。
これまでで一番の笑顔を浮かべたリセに、クルトの瞳は奪われた。
昔と変わらぬ、柔らかな微笑み。
リセは知らない、それがどれだけクルトの心を癒したか。
がたごとと揺れる馬車。
もっとフォルクローレ家の屋敷が遠ければいいのに。
思わずそう願ってしまう、帰り道だった。
次回、クルト視点になります。