跳んで!炎に入るメアリーちゃん!
ある日、ゴミ捨て場に捨ててあった人形を拾った。洋風の可愛らしい人形で、汚れてはいるが、拭いて綺麗にしてやれば、まだまだ使えそうであった。紙袋にでも入れ、タグをつけ、¥15000とでも書けば娘は大喜びだろう。あぁ来月の誕生日はこれを使おう、そうしよう。私はその薄汚れた人形を拾いメアリーと名付けた。
「よろしくね。メアリー」
悪魔のように笑った私を無表情で見つめ返したメアリーからコトリと手が落ちた。
「ママーこれなにー?」
翌日、戸棚の中に隠してあったというのに、娘が目敏くメアリーを見つけ出した
。たぶん、お腹が空いて、私が何か隠してないか漁っていたのだろう。学校が休みの今日、給食がないので娘は、雛ではなく鷲にならなければならない。この狭い部屋の中、隠すには無理があり、すぐに発見されてしまった。
「それはねー開けてのお楽しみ☆」
娘が私の表情を伺う。この反応は食べ物じゃないな、そしていいものではないな。娘の表情がモノを言う。物質の乏しさは人から豊かさを奪い卑しくする。それは子供でも同じらしい。
「うっわ。なにこれ・・?」
紙袋から、まるで汚いものでも取り出すようにメアリーを取り出す。手を掴まれ、ダラリと項垂れるようなメアリーに私は不気味な思いがした。生きていたものが死んでいくような遠くて私には届かない何か。手が取れ、紙袋に落ちた。
「ヒッ」
娘が悲鳴を上げ、紙袋を落とした。ドサリ
鈍い音を出して、メアリーは落ちた。紙袋から首だけ出したメアリーは静かに天井を見つめていた。
「怖くね?」
「怖いね…」
二人して天井を見つめ続けるメアリーを見下ろした。娘はあきらかに人形を気味悪がっている。これでは、プレゼントにはならないだろう。
「これ、どうしたの?」
「何かに使えるかなーって。」
「そんなのいいから早く働いてよ。」
親娘の間に薄暗い沈黙が降りた。継母みたいなことを言う。娘は静かにメアリーを見下ろし続けている。この薄汚い人形と自分を重ねているのかもしれない。将来的に現実的ないい女になるに違いない。でも、実は中身は乙女な私好みな女の子に育ってほしい。
「あきちゃんにプレゼントしようかと思って。」
娘は無言で私を睨みつけた。私は気まずさに負けて、つい目を逸らしてしまう。メアリーだけが一種の目的のようなモノを見つけているようだ。人形は語らず動かず、だから理想を投影できるのだろう。
「いらないから捨ててきて。」
娘は冷たく言い放つと食べ物を探して冷蔵庫を漁り出した。ガサゴソガサゴソ娘が冷蔵庫の奥深くに這入っていく。
「今日はカレーがいい!」
冷蔵庫から溶けたような声がした。
雨の中、紙袋に入れたメアリーを片手に私は買い物のため外を歩いていた。ざあざあと目障りな雨は景色をまどろませ、どこか陰鬱な臭気を纏わり付かせた。私の嫌いなカビの臭い。
「ごめんね。メアリー。短い付き合いでした。」
可愛そうなので、袋ごと元の場所。ゴミ捨て場にメアリーを戻した。袋に雨が跳ね返り、雨粒が私の足を濡らした。さあてと、帰ってカレーでも作らないと。
今日のカレーはシーフードカレーだ。材料はジャガイモ。ニンジン、玉葱、ちくわ、はんぺん、サラダマリアージュ。
「ねえ、せめて、ちくわの輪切りは辞めて。」
雨止まないかなあ。晴れたら就活しようと思ってたのに。娘はなんだかんだ文句を言いつつも、カレーをたいらげ、おかわりまでしようとしている。困ったらカレー与えとけばいい。具材はなんでもいい好きに抱く。力強いイケメンなんだよなあ。
「明日の朝と夜ご飯にするから、おいといて」
「いや。」
「あんまり食べると胃が大きくなって、食べ物無くなった時きついよ。」
娘の手が止まった。いや、わずかに震えてる。その瞳に暗い未来を輪切りの竹輪に映していた。粘っこく淀み暗い。
カタリ
娘がカレーに蓋をした。空腹は思考を奪う。
翌朝の目覚めは悪かった。ガサゴソと娘がゴキブリのように棚を漁っているのだ。そこには、なにもないのに。
「やめな」
まどろみながら口をついた。声はしわがれ、喉が渇いた。娘は止めない。私を咎めているように。私はそっぽを向くと口をゆすぎに身体を起こした。
「ねえ人形拾ってきたって、他にも何かあるんでしょ?」
「ないよ。そんなの」
酷い顔だ。鏡の前に立つ。髪はボサボサ、フケが目立ち痩せて窪んだ眼がギョロギョロと自分のものじゃないように動く。
「人形売れないかな」
紙袋を手に娘が鏡の中に立っていた。昨日元いた場所に戻したはずの紙袋。少し濡れていて形が変わっている。へこみ、中の人形の重みを感じさせている。なぜか生きている人間が入っている気がした。
「拾ってきたの?いらないって言ってたじゃない。」
「何が?そこの棚にあったよ。」
「昨日カレー買いに行くついでに捨ててきたの、拾ったんでしょ?」
「そんなはずないじゃん。」
「いるなら、いるって昨日言ってくれれば良かったのに」
「いらないよ、こんなの」
娘が袋からメアリーを取り出す。髪がわずかに濡れているようで、まばらに額と目に張り付いている。改めてまじまじ見る。よく見れば、やはり可愛い。私のセンスに狂いは無い。
「学校持ってっていい?」
「いいよ。あげる」
元々、娘にあげるつもりで拾ってきたのだ。何をするつもりか知らないが。あの子の好きにさしたらいい。娘は無い時間を使い、カレーを温めながらメアリーを拭き綺麗にしていた。温め終えたカレーを食べつつメアリーを真剣に見つめ何かを必死に思案していた。普段とは違い子供らしい純情さと力強さを兼ね備えた娘はカレーを食べ終わるとメアリーの髪を編んでやり、ガムテープで服の埃を取り、手入れをする。ひとしきり気は済んだのか納得したのか
「よし」
と言うと。メアリーを紙袋に入れ、走り去っていった。私はぼそぼそとカレーを食べ、娘の熱の残響がざわめき、生きている活力が、少しだけ湧いた。
「よし」
今日こそ、良い仕事を見つけよう。
良い仕事は、どこかの誰かがやっているみたいだ。私は泣く泣く、あまり良くない仕事に決まった。高望みは良くない。そう思う。働くのか、やだな。足取りは自然と重くなった。だけど、娘の前では明るく振る舞おう。仕事決まったよって言えば、きっと娘は喜んでくれるに違いない。これが一人だったら私は暗いまんま先の見えない生活に沈み込んでいっただろう。
「ただいまー」
「おかえりー」
娘がせわしなく動き回り、食事の準備に熱を入れる。どうやら私を待ち、帰る時間に合わせてくれたみたいだ。私はそんな娘にほっとしながら、床に腰を下ろした。
「仕事決まったよ。」
「うそ!やった!」
娘が自分のことのように喜び、その動きを加速させていく。なんだか踊ってるみたいだ。たちまちテーブルに食器が並べられていく。わざわざランチョマットまで敷き、寂し気な我が家のテーブルが華やかに彩られていく。食べるのは昨日の残りだけど、これだけで、ずいぶん気が違うものだ。シーフードカレーに山盛りのキャベツの千切り。ん?
「このコロッケどうしたの?」
食卓には四つコロッケがお皿に並べてあった。私が買った覚えのないコロッケは、どうやら娘が用意したものらしかった。
「売れたの」
ニヘヘとはにかむように娘は笑みを浮かべた。
「あの人形、友達に400円で売れたの。そのお金で買ったの。ママの仕事決まるといいなと思って」
私はその時、どんな顔をしていたのだろうか?泣きそうな嬉しいのか。娘はそんな私の顔をまじまじと伺っている。
「ありがとう」
やっと、それだけ言えて娘の頭に手を置いて頭を撫でた。娘は頬を赤らめ気恥ずかしそうにしながら笑っている。
たかだか400円のコロッケが幸せになり、心を充足させる。メアリーはコロッケに化け私達のお腹と心を満たした。
その晩のカレーの美味しさは一晩寝かせたどころの美味しさなんかじゃ、とてもいい表すことのできないものとなった。
どんな仕事でも明日は頑張ろう
コロッケを美味しそうに食べる娘を見て、私は誓った。
「私メアリー!今、あなたの家の前にいるの。」
「え?」
夜中に電話が鳴った。非通知と表示され、とりあえず出てみたら子供のような高い声で、そんなことを言った。
「誰です?」
「私メアリー!今、あなたの家の前にいるの。」
変わらないトーンに機械の音のような音声。私はたちまち不気味になり、無言で電話を切った。
2分と待たず、また非通知表示で電話が鳴り響いた。私は娘を起こしてしまうのがイヤで通話ボタンを押した。
「私メアリー!今、あなたの家の前にいるの!」
「娘の友達ですか?あきはもう寝てますよ。」
「私メアリー!今、あなたの家の前にいるの!」
酷いイタズラだと私は感じた。娘はイジメられてるんじゃないかと不安が頭をよぎる。私は電話を片手に寝室から玄関へと移動し、ドアを開けた。家の前にはメアリーが紙袋にもたれるようにしながら佇んでいた。その目は私の奥の奥を突き刺すように見続けている。辺りを見渡すも人影はない。電話は、ツーツーと何も無かったかのように切れていた。私は何故か力が抜けたが、寝ている娘を思い、すぐに心の奥から怒りという熱が湧いてきた。私は紙袋にメアリーを入れると近くにあるゴミ捨て場の奥の方へメアリーを放り込んだ。
翌日から私は働き、上手くできず何度も頭を下げつつ自分なりに必死に働いた。自分の人生は娘の為にあるんだと思うと少しだけ見栄を張るように強くなれた。
「ただいまー」
「おかえりー」
それでもクタクタにはなる。帰りに惣菜は買ってはいるものの、それを用意する気にもならず袋のまま机に置いた。娘は餌を渡された犬のように袋をガサゴソ漁りだした。よほどお腹が空いていたようだ。
「仕事、どうだった?」
「いっぱい失敗した。」
娘が袋を漁るのを止め、私を見つめた。その目は不安に澱んでいる。
「大丈夫?」
「まかせな」
パッと娘の表情が明るくなり、一生懸命、袋を漁り惣菜を出していった。
「お風呂入ってくるから先、食べてていいよ。」
「いいよ。用意して待ってる。」
私は疲れていることも忘れ、急いで風呂をすますのだった。
「そういえばさ、売った人形が無くなったんだって」
「人形なんて無くならないでしょ。誰にあげたの?」
「かなちゃん。部屋に置いてたらいつの間にか消えてたんだって。」
「へー。」
昨日の電話はかなちゃんか?凝ったことをするものだ。400円の人形でクラスメイトを怖がらせ、話の種になるなら、それもありなのかもしれない。400円は今の私達にとって大金なので、そんな使い方するなんて、とても腹が立つ。
「ごめん!って謝られたけど、ゴミを上げたなんて言えないから反応に困っちゃった。まあ、いいけどってちょっと偉そうになっちゃって!コロッケ以下なのにね!」
楽しそうに話をする娘に、昨日の晩にあった事をどう言ったらいいか分からず、私は曖昧に返事をしながら食事を終えたのだった。
「私メアリー!今、あなたの家の前にいるの!」
「かなちゃん…?」
「私メアリー!」
私は電話を切り、玄関へと向かった。案の定、玄関前に人形が佇んでいた。はぁ…と短いため息をつき。私は人形を拾い家の中へ入った。
翌日、仕事を終え家に帰るとあの人形が机の上に置かれていた。娘は私に「おかえり」と言うが早いか人形にさり気なく目を向けた。
「これ、どうしたの?」
「玄関に置いてあったよ。」
隠しようが無いので私は正直に話した。電話の事は言わない。娘に不安になってほしくなかった。
「かなちゃんかな?」
「さあ?そうじゃない。ただ置いてあったから。」
「いらなかったのかな?」
「分かんない。」
娘は難しい顔をして人形を見つめている。覗き込むように人形を見つめ
「また売れるかな」
とポツリと言った。言うが早いか、また人形をいじり始め、せっせと髪をとぎ、結びはじめた。
「あきちゃん何してるの?」
「前と同じ人形だってバレないようにしてる」
「かなちゃんに売るの?」
「いや、違う子」
せっせと人形を整える我が子に、逞しさすら感じる。この子ならきっと大丈夫。貧乏はあきを成長させたのだ。あーお金欲しい。メアリーは、この前よりキレカワって感じになった。
翌日の食卓に大きなメンチカツが二つ並んだ。
「今回は500円で売れた。」
我が娘は大物に育つという期待に胸が膨らんだ。私と娘は久しぶりの肉肉しい食感と油に
「うまい」「うまい」
震えた。
「私メアリー!今、あなたの家の前にいるの!」
「あーはいはい」
真夜中の電話は、また同じやつだった。仕事の疲れが取れてない私は電話に起こされたことで若干キレかけていたが、子供のすることなんだと、あしらうように対応した。玄関を出ると、また同じ所にメアリーが置かれている。
「芸の無い奴」
近くに居るであろう犯人に聞こえるよう、わりと大きな声で言ってやった。その時メアリーが項垂れるように傾き、私は「ハハッ」と自嘲気味な笑いが起きた。
「昨日も同じこと言いましたよね?」
「すいません」
「一昨日も言いました。」
「すいません」
「昨日も一昨日もすいませんすいませんって謝る事が仕事だと思っていませんか?」
丁寧に追いつめながら怒るコイツ嫌い嫌い嫌いだ。給料日まで先は長く人生はこれまた長いらしい。先の見えない道のりにぞっとしながらも私は手探りで進み続け、そしてつまずき続ける。
「あの、聞いてますか?」
「すいません」
目先の事ばかりに気を取られる。安心が欲しい。あと、お金欲しい。
「人形、また無くなったんだって。」
「また玄関に置いてあったよ。」
娘は私の顔を不思議そうに見た。俯きながら具の少ないスープをかき混ぜた。怖い本当は聞きたく無い。家の中まで暗くどんよりした空気が入り込んだら私は発狂してしまうかもしれない。
「あきさあ。いじめられたりしてないよね?」
「えーそれは無いと思うけど。」
娘は腕を組み思い当たる事柄を探っているようだった。私に気を使って隠してるのかも。そう思うと心が引き裂かれそうだった。職場で怒られるより、娘が私の知らない場所で泣いてる方が、どんなに嫌だろう。
「んん??無いなあ?かなちゃんとさやちゃん実は仲悪いから二人で私を嵌める事なんてしないし。」
「仲悪いんだ。」
「だから、同じ人形売ったってバレやしないんだよ。バレた所で疑心暗鬼が大黒柱だよ。お前、私の人形盗んだろ?って(笑)」
ふふっと不敵に笑う娘。末恐ろしさと頼もしさ。子供の成長は早く、あきは私に勇気をくれる。
「次は誰に売ろうかな♪」
はしゃぐように、あきはメアリーに手入れを施していくのだった。
次の日、メアリーは普通にあきに連れられ帰ってきた。
「売れなかった!」
ちくしょー!と髪をバサバサに掻き乱し、悔しがる我が娘。なんでも800円で売りつけ、唐揚げを買ってくる手筈だったらしい。肉に飢え過ぎ。誰のせいだ!とカウンター喰らいそうだから言わないけど。
「欲張り過ぎたか…」
っち。と舌打ちをしてジーっとメアリーを見つめるあき。次の作戦を考えているらしい。
「あきちゃん。ごめん、ご飯用意してくれない?仕事疲れて…」
「今、真剣に忙しいの!」
私は泣きそうになりながら、いそいそとご飯の用意をするのだった。こんな手つきだと、また明日怒られそうだなと、身体はため息に沈み込んでいき鬱鬱と、また体を重くさせていく。泣きそう。
「はい、わたしですぅ。」
「私メアリー!今、あなたの家の中に居るの!」
「知ってるううぅ。」
電話が待てども待てども鳴り止まず。「あぁ勘弁してよ」と這うように電話を取った結果これだ。誰とも分からない相手は当たり前のことを言い、私は眠気をこするように、うつらうつらと夢心地に返答していった。
「私メアリー!今、あなたの家の廊下にいるの!」
「はあ。寒くないですか。」
「私メアリー!今、あなたの後ろにいるの!」
「そうですね。」
「私メアリー!今、あなたの隣にいるの!」
「添い寝とか。」
私は憎々しく電話を切り、夢の世界に溶けていった。
翌朝、枕元にメアリーが寝かせてあった。
「きもちわる」
どんよりとした空気に震えるように起きた。人形が添い寝してくれたことに対し喜びも悲しみも感じなかった。疲れた体は鈍く、頭が上手く動かない。なんかどうでも良かった。
「…あんたも大変ね。」
安い同情は自身を暗くさせた。目覚ましが鳴り響き、今日の、1日の始まりを告げる。メアリーは布団から出ようとせず、私は
「人形は楽でいいわね。」
とメアリーに当たり散らした。
朝ご飯を食べながら嬉々として今日の予定を語るあき
「スマフォで調べたらあの人形、定価5000円はするのね。今までは逆に安すぎたんだよ。これはいけるなって。2000円で売れたらロースト、ローストビーフを買ってくる。」
未知の食物に涎を食むようにしながら、目を輝かせるあき。いつもショーウィンドウを横目で眺めながらグラム350円に叩きのめされていたあき。メアリーは今日ローストビーフになるらしい。
ローストビーフ!!
「今日は頑張ってたじゃない。」
帰り際、ぶっきらぼうな物言いは、あの嫌な奴から出た言葉だった。頭の中をローストビーフが占め括り、余計な事を考えなかったのが却って良かったらしい。
「あ、ありがとうございます。明日も頑張ります。」
私は咄嗟に、それだけ言うと逃げるように仕事場を出た。見上げた夜空は星空を讃えていて、肌寒いが、体はどこか暖かで恥ずかしさに火照っているかのようだった。体は疲れているが気力が私を突き動かしていく。明日もこんな感じで頑張ろうと私という個体に誓いあうのだった。
家に帰ると部屋の中には音楽が響いていた。ボレロという荘厳なクラシックが響き渡り、中心にはあきが正座をしていた。
「ただいま。これ何事?」
「3000円」
「え?」
「3000円で売れたの。」
あきが立ち上がり、冷蔵庫の中を開けた。音楽はいつしか佳境を迎え、私を何処かに誘っていく。あきが両手いっぱいに抱えてきたのは、まるで花のように飾られたローストビーフの"セット"であった。ローストビーフはボレロに負けず優雅に、だけど力強く安物のテーブルの上に鎮座していた。どんな大輪の花よりも輝かしいその姿。なんと、この花食べられるのだ。
「柔らかい」「柔らかい」
人生が変わる予感がした。
「私、メアリー!今あなたの家の前にいるの!」
ローストビーフが話しかけてくる。私は無言で玄関まで駆けていき、ビーフを抱き上げた。
「おかえりなさい。」
メアリーの目は何処か悲しみと恐怖に彩られているようだった。可愛そうだと手を握ると手が外れた。私は慌てて付け直し
「ごめんねごめんね」
と子供をあやすように言いながら家の中へと入っていった。目はニタニタと笑いメアリーを抱えた箇所は燃えているように熱い。生きていた。生の謳歌は止まらず彼方へと私達を運んで行く。
あきが味を占めた。様々なネットオークションにメアリーを出品し始めメアリーは各地に売り飛ばされた。大半の稼ぎは食物へと変わっていったが少しの余りはメアリーの"オメカシ"に使われた。どうやらあきにはセンスがあるようで、その受けがまた良い。メアリーは、ある時はハム、ある時は近江牛、ある時は値段の張るカルピスに。様々な姿に成っていった。豊富なカロリーとタンパク質は様々な好影響を私達にもたらした。動きは良くなり、自信に満ち仕事が楽しくなりはじめた。その頃になると私は認められ、少しだが給料も上げてもらえた。あきも以前までは、ほおがこけ、どこかみずぼらしい感じが抜けなかったのに、今や血色は良くなり健康的な張りのある元気いっぱいの少女へと変貌を遂げていた。肉は人生を良くする。
「私メアリー!今あなたの県に居るの!」
「メアリー。家の前に来るまで電話してこないで。この前言ったでしょ。」
「……。」
無言で電話が切られた。1時間後、電話が震えている感覚がしたが、バイブレーションに電話の設定を変えていたため、あまり気にすることなく、電話を布団の下へと押し込むと、そのまま寝入ってしまった。
翌朝、メアリーがテーブルの上に寂しげに横たわっていた。どこか疲れた身体を休めているかのようだった。そのうち、あきが起き、メアリーを手慣れた様子で整えていく。メ○ルカリに乗せている写真と見比べ、寸分違わぬよう細心の注意を払いながらメアリーは成り代わろうとしていた。
「できた!会心だわ。我ながら自分の才能に惚れ惚れする!時間もだんだん短縮できてきた!」
「長野県だっけ?」
「そうそう。住所はここを見て。メアリー行ってらっしゃい!行ってきます。」
あきの力強さに思いを馳せながら、私は大切にメアリーを段ボールへ詰め、出勤路にある配送センターへと歩を進めた。あと少し、というところで非通知の電話が鳴り響いた。私は歩き、メアリーを抱えたまま、その電話に出た。
「私メアリー!今、段ボールの中に居るの!」
「明日は長野だから。」
「…。」
「次は東京。その次は神奈川。埼玉。写真も新しいの撮るって、あきが張り切ってる。忙しいから早く帰ってきなね。」
「私メアリー!私…私!人形なの!」
その声には何時もの機械的な音声だけではない、必死な力強さが備わっていた。だけどメアリー。違うよ。
「いえ、あなたは金の卵よ。」
「…。」
電話はプツリと切られた。私は配送センターで手続きを済ませ、メアリーを見送った。長野で買った人はいたくメアリーを気に入いってくれたようで、わりと高値で買ってくれたらしい。最近、あきとカタログを見ながら明日の事を話すのが今の私の一番の楽しみだった。メアリーが帰って来るであろうその晩、私達はすき焼きを食べている。金の卵を割ろう。さあ割り下にねぎと焼き豆腐を従え黄金色に輝く松坂牛へと成り変わるメアリーに誰が非難をくれようか。そこに恨みや憎しみは決して生まれず、そこにあるのは旨みと肉脂味ばかりが支配する黄金色。まさにそれは人生なのだ。
長野に行ってからメアリーは消息を絶った。電話はかからず、買い手に謝り、返却を求めるも、どこかに失くしてしまったようで買い手も混乱していた。
「メアリー。」
あきがしょんぼりとメアリーを撮った写真を見返している。時々、肉の写真も挟まるが、あきにとっては良い思い出なのだろう。メアリー売却のお断りのメールを各地に書き、寂しくも慌ただしく日時は過ぎていった。
電話がかかってこなかった日から30日後、あきが高熱を出したと職場に嘘の電話をかけ、休みを貰った。あきと二人でメアリーを探しにいくためだった。
どこに行き着くのか分からない旅というのは、私とあきは初めてで、移動しているだけだというのに、とても楽しく時間が経っていった。緑が矢のように過ぎていく。二人で見慣れない物を見つけるたび、教え合い、笑いあった。作ってきたおにぎりを食べ、交互に眠ったりしながら、電車の中で色んなことをあきと話した。
慣れない土地に娘と二人、手を繋ぎ、スマフォを確認しながら歩を進める。初めて来たが、とても素晴らしい場所だった。静かに潮風がなびき、とても見晴らしが良く遠くまで見通せる。人気はないが夕日に照らされた波がキラキラと賑やかに赤色に輝いていた。
メアリーは海辺に佇みジッと夕日に顔を向けていた。夕日の赤色はまるで炎のようにメアリーを焼きつくそうとしている。そうはさせない。火柱のように私達に影が伸びる。私はその影を踏みつけながら、気づかれないよう、そっと近づいた。
「はーい。捕まえたー!迎えにきたよー!」
メアリーを抱き上げ、さっと紙袋に入れた。すると、すぐ非通知から電話がかかってきた。私は無視するつもりだったのだが、あきが
「でて!でて!」
と、煩かったので仕方なく通話ボタンを押し、電話に出た。
「私メアリー!今、紙袋の中にいるの!」
「私メアリー!紙袋の中にいるの!」
メアリーの真似をして、あきに通話の内容を知らせてやる。あきは
「キャッキャ」
と声を抑えるよう、はしゃぎながら笑った。私も娘につられ、「あはは」と明るい声が出た。メアリーをぶんぶん振ってやる。メアリーの声は心なしか震えていた。
「私メアリー!私、今?!?!紙袋の中?!?!」
「GPS。あなたの足に取り付けてある可愛いポシェット。その中にGPSが取り付けてあるの。」
「私?!今、GPS?!」
「メアリーが生まれた時にGPSなんてないもんね。この30日あなたの行動は逐一私達に追われていたの。あなたの行動パターンと活動日時は、これまでの行動を照らし合わせ完璧に把握したから次から勝手なんかさせないよ。」
「私メア」
電話がブチリと切れた。あきが紙袋からメアリーを取り出したのだ。あきがメアリーを見つめ、ニンマリ笑いすぐに紙袋に戻した。すかさず電話が鳴り響いた。
「必死だ!!」
私達はあまりの可笑しさにケラケラ笑い、ひとしきり笑った後、ようやく電話に出た。
「もしもしメアリー。今、あなたは紙袋の中に居るのよ。」
「わ、私メアリー…私は…私はこれから何処にいくの?」
「とりあえず帰る。その後、東京、神奈川、愛知県。今、あきが必死に英語の勉強をしてるからゆくゆくは海外なんかも行くかもね?もうすぐ和服が届くから、撮影しに何処かに行こうね。近くの川なんかいいんじゃない?小舟なんて買ってさ。あなたなら流されても大丈夫でしょ?」
あきがクスリと笑う。これからの生活に楽しみは絶えない。
「というか大丈夫!!あなたは、これから何処にも行けないわ!!」」
「わ、わた、私メアリー!たす、たすけ」
私はメアリーを紙袋から取り出し、手を繋いだ。もう片方の手をあきが繋ぐ。メアリーを真ん中に私達は歩いて行く。夕日に照らされたメアリーは業々と燃え盛る私達の野望に似合い赤く赤く燃えていた。