「自由という名の呪縛から」
遥かなる昔、江戸という町で、与謝彦という少年が駆けまわっていた。自分の足よりも一回りほど大きい草履を履いて、叫ぶ大人たちから逃げ回る。
懐に抱えた芋を落とさないよう、しかし派手に大立ち回りし、小さな体を柔軟に動かしていた。
右へ左へ、上から手が伸びてくるたびひょいひょいと軽快にかわす。
大人たちの注意をしっかりと集めたところで、与謝彦は屋台の下へ滑り込んだ。与謝彦しか目に映っていなかった大人たちは、まんまと罠に引っかかり屋台へ衝突。
「へへへっ! 今日もダメだったなぁおっちゃんら。まったくいつになったらおいらを捕まえてくれるんだか……」
あからさまな挑発に、大人たちも声を荒げてきた。
「くっそ与謝彦! いい加減にしろよお前! 親無しだからって何してもいいわけじゃ……」
「おい。そこまでにしとけ」
大人たちの一人が何かをいいかけたが、もう一人の男がそれを止めた。
――気ぃ使ってんじゃねぇやい。
「へへへっ! いい大人が、毎日毎日雁首揃えてだらしねぇ! あとおいらのことは、鳶って呼べやい!」
それだけを言い残し、与謝彦は屋根を伝って逃げていく。
与謝彦の親がいなくなったのは、与謝彦が生まれてすぐのことだった。といっても、与謝彦自身にその記憶があるわけではない。
気付いた時には自分だけ、手を繋ぐ相手がいなかった。
周りの大人たちはそれなりによくしてくれたが、家族のようには扱ってはくれなかった。
――それでも、友達や親代わりがいてくれる。仲良くしてくれるなら、今のままでも……。
年が五つになった頃。近所の子どもたちと喧嘩をした。弱い動物をいじめている奴らが許せなかったのだ。結果は圧勝。複数でボコボコにされたりもしたが、それ以上に拳を振るってやった。その中には、居候先の息子もいた。
「お前ってやつは! 俺の息子になんてことをっ!」
「あなた! やめてください! 相手は子どもです……」
その晩、親代わりの大人に殴られ続けた。やがて目を覚ますと、与謝彦は揺れる荷馬車で倒れていた。馬を操る大人は、与謝彦を買ったと、はっきり言った。
自分が売られたことについて思ったのは、
――とうとうこの日が来たか。
それだけだった。
生みの親も知らず、育ての親には売られ、今度はどんな親の元へ流されるのか。自分はたらいなんかではないのに。
柵の内側から、遠ざかる景色を眺める。
そこには見た事もない木々が生い茂り、赤や緑と色づいていた。ここがどこなのか、山であること以外は分からなかった。
ここから見えるのはせいぜい、草木と空くらいのもの。
その空にだって、鳶が回っているだけだった。
――鳶は、生まれて一ヶ月ほどで巣をたつという。それに比べて僕はどうだろうか。このままいけば、飼い主が変わるだけだ。僕も、鳶のように……。
気付いた時には檻から抜け出し、山道を駆け下りていた。
そうしてたどり着いたのが、江戸という町だった。
与謝彦は盗んできた芋を川で洗い、焼いた落ち葉の中に入れた。焼き上がるのを待っているうちに、汚れた服も洗っておく。
一張羅の着物には、ところどころ穴が空いていて、ボロボロだった。
「新しい服、いるかもなぁ……」
その時に必要なものだけを盗む。それが与謝彦の流儀だった。
生きていくための罪だとしても、自分が生きていることが罪だとは思いたくなかったのだ。だからせめてもの抵抗として、自分なりに取り決めをした。
焼いた芋を二つ食べて、その日の食事は終わり。育ち盛りの与謝彦にとっては少々足りないが、生きていくには十分すぎる。
しかし、ふと親子で笑いあっている人達を見た時に思う。
――おいらは自由だ……。鳶だ……。だから寂しくなんてない。
まるで暗示のように、何度も何度も言い聞かせるが……。繰り返せば繰り返すほど自分の中に根付いていった。そんな気持ちを抱えながら、この日はもう一軒狙う。服を盗むには、華族は絶好の標的だった。なぜならそもそもバレないからだ。
建物の陰に潜み、豪勢な荷馬車が通りすぎていくのを窺う。
与謝彦は何を盗もうかと物色していた。が、与謝彦の目は一人の少女にくぎ付けになった。かつての自分同様、檻の中に入れられて外を眺めている。
見たこともないほど、美しい少女だった。着ているものを見る限り、あの子は平民の出だ。
じっと見つめる与謝彦の視線に気づいたように、少女がこちらを向いた。
急に目を向けられ、咄嗟に手を振ってしまった。すごく違和感もあったし、首だってかしげてしまった。
それが彼女に伝わったのか、袖口で顔を隠すように笑った。
すっと手を少し上げ、振り返してくる。
彼女の顔はすぐに見えなくなったが、すだれが降りる一瞬。ほんの一瞬だけ、頬を伝う涙が与謝彦の目に映った。
「……あいつも、売られたってことなのか」
言葉にしたとき、自分でも驚くほど感情が溢れていた。
――これは怒りだ。
体中の血が沸騰したように熱くなって、筋肉が張り詰める。頭の中は疑問で埋め尽くされ、何故あんな子が、何故あんな目に、何故おいら――いや、僕と同じ目にあうんだろうか。そしてこの後は……?
与謝彦がいくら常識や知識に乏しかろうと、どうなるかは知っていた。平民の少女が華族の荷馬車に乗る理由なんて、そうあるものじゃない。
――あの子の親も、変わってしまったんだろう。
そう思った時、体が勝手に動いていた。一直線に、あの子のところへ踏み出す――しかし、誰かに腕を掴まれる。
「うわっ――。おっちゃん? なんだよ急に」
「やめとけ。お前いま、あの子のこと助けに行こうとしたろ? 俺たちみたいな平民とは違って、あいつらは刀を下げている。突っ込んだ瞬間に斬られて終わりだ」
「へっ! おっちゃんには関係ないだろい! おいらは――」
「お前の過去に何があったかは知らないし、盗みをして殴られるのはお前の勝手だ。でもな、その役目は俺たちの仕事だ。これまで盗った分、ちゃんと仕事で返せ」
そう言うと、握っていた与謝彦の手を放して去っていった。
「――なんだよ今さら……」
そっと呟き、急いで自分の家へ走る。
あの子は助けたい。でも自分には力がない。そう思った与謝彦は、闇夜に忍ぶことにした。
日が落ち、町内が静まり返る。
「おいらは弱い。普通にやってもダメだ。だから、おいらの武器を……」
与謝彦は黒く染めた服で、屋根の上に立つ。目の前には、立派な門構えの家。見張りは二人。両方とも槍を持ち、腰には刀を差している。
――さあ、狩りの時間だ。
鳶のようにしっかりと狙いを定める。
瞬間、衛兵二人の間を陣取った。
「なんだお前っ――」
敵の脇差を二本抜き取り、一斬二殺。
「おいらは鳶……。獲物を狩る者だ」
その後、与謝彦は敵の武器――主に脇差を奪い取り敵を切り伏せていった。何人も何人も、何人も何人も……。
目に入った者は考えるより先に斬り付けた。小さい体と高い身体能力で数いる大人たちを凌駕し、打ち取った。
そうして、殺した数を足さなくなったころ。与謝彦は目的の部屋であろう場所に辿り着いた。
軋む廊下を踏みしめ、障子越しに少女の影を見る。
「どちら様ですか?」
「おいらは鳶だ」
「そうですか。では鳶さんは、何をしにこちらへ?」
「君を助けに」
「もしかしてあなたはお昼の……――。いいえ、もう何も聞きません。どうかお帰りください。ここにいると危険です」
彼女の言った通り、ドタドタと複数の足音が聞こえる。
「なら、君も一緒に――」
「いいえ、構いません。私はもう……」
彼女は固くなに逃げようとしない。このまま障子越しに話していてもらちがあかない。そう思った与謝彦は、意を決して障子を開けた。
すると、そこには昼とは似ても似つかない少女の姿があった。
かつて、与謝彦を見つめてくれた瞳は輝きを失い、縛られていただけの翼が今は折られている。
「その足……」
包帯を巻かれ、鎖で繋がられた少女の足を見て言う。
「夜の道具に、歩くための……足はいらないだろう…………って。ふふ、ここまでしなくてもいいのにね。でもまあ……私は買われた存在だから」
――違う。おいらが見たいのはそんな笑顔じゃない。
少女の震えた声に、与謝彦は静かに問いで返す。
「ほんとうに、そのままでいいのか? 君は自由になりたいと思わないのか」
「この足じゃあもう……逃げたところで自由なんてないよ。でも確かに、このままも嫌だし。……私のお願い、一つだけ聞いてもらってもいいかな?」
与謝彦は何も言わず小さく頷いた。
「ありがと。じゃあ私を殺して」
ほんの僅かの沈黙の後、盗んでいた脇差を振り上げる。
少女は目を閉じ、囁いた。
「これで私も自由に……」
――これは、おいらが彼女に見せたかった自由な世界なのだろうか……。本当に、殺してしまうことが彼女にとっていいことなのか。
いいや違う。考えるべきはそこじゃない。
おいらはどうしたい? これは最初から、おいらの身勝手に始まったことだ。おいらは鳶……なら、この子は殺しちゃいけない。
そう思った瞬間、甲高い金属の衝突音が鳴った。
「え? いったいなにを……?」
「いま、鎖を切った。これで君を縛るものはない」
「でも私の足は……」
「だからおいらがいる。おいらは鳶――盗人だ」
与謝彦はこの時初めて、言い訳をせず盗みを行った。本心から、盗みたいと思ったのだ。
力のない与謝彦でも、少女くらいなら易々と持ち上げて走ることができた。
後ろから大人たちが追ってくるが、気にしない。
「ふふっ。アハハ! 鳶さん早いです! 飛んでるみたい!」
夜の屋根上から響く彼女の声は、跳ねるように響いていた。
「おいら――いや、僕の本当の名前は与謝彦。君は?」
「あれ? なんかさっきと雰囲気違うね。でも私そっちのが好き。ふふっ。
私の名前はね――」
こうして、心からの自由を手に入れた二人は夜のうちに町を抜け遠い山奥へ逃げた。その後逃げた先は村から町になり、やがて忍びの隠れ里と呼ばれる場所になった。




