夕立のあと
人の波にのまれて息が詰まりそうだった。平静を装いながら、必死に呼吸をして、手にしたグラスを一気に飲み干していた。隣の通は楽しそうにリズムに身を委ね、普段の通からは想像できず、不釣り合いな姿に見えた。窓のない空間が苦手だということを、地下のライブハウスで音楽が始まるまで気が付かなかった自分を呪ったが、それ以上に気分が高揚していることは認めたくなかった。
ライブ終わりの彼女をライブハウスの外で待ちたいと食い下がる通に根負けし、夕立が上がった暗い空を眺めて、月を探した。他人とだらだらと過ごす時間は嫌いだったが、今は理由が欲しい、黒髪が揺れる風を見る理由。根負けしたのは嘘だ、ただ理由が欲しかっただけ、本当はただ、もう一度見たかったんだ、長い髪が揺れる姿が。
大きなベースを背中に背負った彼女を見つけて手を挙げる通の視線の隣に、底の厚い黒のブーツ、赤いコート、黒く長い髪の女が立っていた。4人で駅まで並んで歩く道のりは、夕立のあとの湿った空気に包まれて、通と彼女の笑い声が響いていた。
「雪の彼氏さんの友達なんだよね?」マイクから聞こえた声より少し低い声が鼓膜をくすぐり、駿は麗奈と初めて言葉を交わした。たわいもないどこにでもある会話。相手の関係性と自分の関係性の立ち位置を確認し、駿は居心地の悪さを感じていた。今から真世に会いに行こうかと、取り残された少しの罪悪感と高揚感を失くした心音との狭間で揺れていた時、麗奈と家が近いことに気が付いた。通は意気揚々とベースを持ち駿に礼を言い、雪の人懐っこい笑顔で両腕を振る姿を麗奈と見送った。
「ねえ、お腹すいた。一杯付き合ってよ。」麗奈は二人きりになった途端に堅い雰囲気が和らぎ、近くの立ち飲み屋へと二人で足を運んだ。ビールを2杯注文し、お通しのポテトサラダに箸をつけながら、麗奈は慣れた手つきで煙草をひとくち吸った。麗奈の細い指は今にも折れそうなほどで、太い指輪がより一層その細さを強調するように美しく見えて、煙草を吸う女は嫌いだったが、麗奈の一服する姿は似合っているとさえ思った。麗奈は趣味でバンド活動をしながら、製薬会社で経理をしているという。
「昔から数学が好きだったから、数字に囲まれるのは割と嫌いじゃないの。本当は音符のほうが好きだけどね。」煙草を1本だけ吸い終わると、ジョッキのビールを細い指で軽々しく持ち上げひとくち飲んだ。食べ方も飲み方も、予想していたどれとも違い、吸い込まれるようにきれいな所作だった。
「僕はただのIT勤務。毎日パソコンと向き合ってるだけ。」退屈さを前面に出しすぎたと後悔したが、ITって何をするの?と眉尻を下げて怪訝そうに尋ねるから、ついつい仕事について話してしまった。麗奈は時折微笑みながら駿の話を聞いていた。互いに共通の話題を探すように、気遣いながら話すことは久しぶりだった。新鮮さを感じたからか、あっという間に過ぎていく時間に驚いたのは自分だけではなかったはずだと駿は頭の中で言い聞かせた。夜道を一人で歩かせるには気が引けたので、麗奈を家の近くまで見送った。店を出て、二人で肩を並べ再び歩き始めた時には、妙な他人行儀の距離から少し近づき、湿った空気も乾いていた。夜風が麗奈の長い黒髪を揺らす度に、この髪に触れたいと思う衝動にかられたが、酒のせいだと言い聞かせた。予想していたよりも穏やかな表情で話しかける麗奈は、ステージの上とも、4人で歩いた時とも違っていた。
「次、来月も歌えることになってるんだ、よかったら雪の彼氏とおいでよ。今日はありがとう。」ふわりと笑って片手を振る麗奈が背を向けるまで見送り、駿は帰路についた。麗奈の笑顔が儚げに見えたのは真世の笑顔が明るく咲く花のように見えるからだと思ったが、気のせいだったのだろうか。麗奈の話声は歌う時よりも少し低くて、あの吐息交じりの歌声とは少し違っていたせいか、高鳴ることをやめた胸は静かに脈を打っていたはずなのに、二人きりで話したささいな会話が駿の胸に突き刺さり、その日はなかなか寝付けなかった。真世からのメッセージには明日返事をしようとスマートフォンを伏せた。