漂う退屈
毎日ってなんて退屈なんだろう。決まった時間に起きて、食べて、寝て、また新しい1日が始まる。トーストの焼け具合だけは懲りずに毎日変化するな、なんて思いながら苦みをこらえた。ブラックコーヒーを一気に流し込み、満員電車に揺られ会社に着く。普通に生きているだけでお金がかかるのだから仕方がない。今日もPCに向かい1日を終えた、そんな毎日がずっと続いていくのだと信じて疑わない。
「駿くん、家行ってもいい?」
伏し目がちにぼそぼそと話す真世の短い髪を夜風が通り抜け、細い指先がパーカーの裾をつかんでいた。始めは数回食事に誘われただけだった、そうして二人で飲むことが増えた、仕事の愚痴を笑いあうだけの同僚が女になっていく。きっとこういう子と付き合うことが幸せなのかもしれないと思いながら、真世の短い髪に指を通して丸い瞳を覗き込んだ。
ミルクと砂糖を入れたコーヒーを受け取りながら、真世は僕のシャツに袖を通しベッドから降りた。仕事の合間に飴やチョコレートをポケットに忍ばせ、時々僕の手のひらに乗せては微笑む仕草はかわいいとさえ思う。真世を見送る帰り道、二人でまだ咲かぬ桜を見に行った。つぼみを蓄えた桜の木々は春が待ち遠しく、いまかいまかと懸命につぼみの先へと神経をとがらせているように見えた。
「桜が咲いたら、お花見しようね」
そう言って小さな小指を差し出された僕は、何のためらいもなく自分の小指を絡めて真世に微笑んだ。真世の短い襟足を風がさらっていた。
いつものようにトーストをかじる、ブラックコーヒーを流し込み、駅に向かう朝、長い黒髪が風になびく赤いコートを着た女を見かけた。まだ肌寒さが残る道にヒールの音が響く。真世はヒールよりもスニーカーが似合う女だと思った。スマートフォンが震え、飲み会の誘いが届いた。了承の返事を送り、いつものようにPCを立ち上げ、ブラックコーヒーを淹れた。
数か月ぶりに会う通は、スーツを着崩し、洒落た居酒屋を指定し待っていた。昔話に花を咲かせつつ、最近彼女ができたことを自慢したいらしい、酒が進むにつれ数か月ぶりにできた女の話ばかりで上機嫌だ。通の彼女は趣味でバンドを組んでいるらしい、下北沢のライブハウスに行こうと誘われ、週末の予定が埋まった。真世からの連絡を返しつつ、週末の予定が埋まったカレンダーと通の赤い顔を見て悪い気分ではなかった。同じことばかり繰り返す毎日に、変化を起こそうとは思わないが、退屈しないと言えば嘘になる。バンドには興味はないが、音楽は嫌いじゃない、第一、通の彼女には興味はないが、友人として通の彼女は見ておこう。真世はかわいいが、世界一じゃないことはわかっているし、流れに身を任せているだけだと言われればそれまでだ。通がここまで自慢する彼女にどんな魅力があるのか、人はなぜ恋をするのか、純粋に興味が湧く。つまらなければ帰ればいい。
テレビで桜の開花宣言が告げられ、満開になった頃、約束をしていた花見をした。真世は張り切ってお弁当を作り、海苔のついたおにぎりと、定番のから揚げ、卵焼きが入っていた。卵焼きが甘かった。ビールを片手に上機嫌に笑う花見客を横目に、真世の小さな手を握って歩いた。この手を無くさないようにと、願いを込めて歩いたんだ、きっと普通の恋人ならそうするだろうと思ったから。真世は翌朝、僕のパーマをあてた髪をなでながら「ふわふわだね」と嬉しそうに笑った。まるで、ぬいぐるみをなでる少女のような顔みたいだと思った。
週末、通と共にライブハウスへ向かった。夕立に見舞われ、パーマをかけた髪から雫が落ちる、ライブハウスは湿っぽいのだと知った。ドリンクを片手に通の彼女のバンドの登場を待った。ライブハウスは距離が近く、生の音が響き渡り、客の熱気が伝わってくる。長い黒髪の女がマイクの前に立ち、両端にはギターとベースの女が笑顔を振りまき、笑わない女のドラムが軽快な音を響かせ、会場の熱気が上がった。通が高揚した表情でステージを見つめ、軽快な音楽が身体を突き抜けていく、通の彼女はベーシストだった。リズムに乗った歌声がマイクを通り鼓膜を刺激する、長い髪が揺れるたび、胸が痛くなった、なぜだろう。