表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

森の主に彼女を託して

作者: 奥久慈 しゃも

 夜明け前のとある森の中、男が一人の女性の亡骸を両手に抱き歩いている。

 かつて、男と将来を誓い合った女性が流行り病でこの世を去る直前、彼女は細い声で彼に言った。

「また、あの思い出の泉に連れて行ってほしい」

 こうして、遺言となってしまった彼女との約束を果たすべく、男は息を引き取って間もない彼女を抱いて家から抜け出したのだった。

 ここまでの道中、男は沈黙に徹した。腕の中で眠る彼女へ安らかな眠りを願うことも、自分を残して先立つことを悔やむことも、何時かの思い出を語ることも無い。

 ただ、男は前を向いて歩き続けた。

 やがて、明朝の鋭い光は枝葉の隙間を抜けて細かな陽だまりを作り始める頃。男は目的地へと辿り着き、泉のほとりに生えた一本の木の幹に彼女をそっと寄りかけた。

 朝を告げる小鳥のさえずり、そよ風に揺れる枝葉のさざめき。そして、気まぐれに差し込む木漏れ日は彼女の眠りが永遠ではないのではと錯覚させる。

 期待か切望か。男の僅かに震える指先がそっと彼女の頬に触れると指先の震えは自然に止まり、彼が触れた指先の代わりに彼女の輪郭を数滴の涙が流れていった。

 それから、男は自らの指先を彼女の頬から離せないまま、太陽が木々の頂を超えたようとした時だった。

 男は周囲が不自然に静かであることに気が付いた。風は枝葉を揺らし続けているにも関わらず、新雪の静寂に包まれたのだ。

 突然の違和感に戸惑う男の指先が不意に彼女から離れ、そこで彼は水面に佇む一頭の鹿を見た。それは純白の毛並みと輓馬並みの体躯も持ち、牡鹿の象徴たる凛々しい相角からは若葉が茂る不思議な獣。

 男は一目で、あの鹿がこの世のものではないことを理解した。

 鹿は警戒する様子も見せず男へと歩み寄ると、鹿は彼に頭を静かに垂らす。そして、身動ぎ出来ない男の脇を抜け、自らの額を眠る彼女の額に触れ合わせた。

 その時だった、男は自分の頬に何かが触れたのか、彼は自分の左手を右頬に当てると微笑みながら最後の涙を零していた。

「そうか、君はやはり逝ってしまうんだな……」

 流れ落ちていく涙。その一滴一滴を誰かが拭うかのように、流れ落ちる途中で不自然に宙を舞う。

 それを見届けたとばかりに、淡々と男へ背を向けて歩き始めた鹿に彼は口調は穏やかだった。

「彼女を頼む」

 去り際の鹿は男を一瞥し、それは風景と同化していくように消えていった。

「さあ、帰ろうか」

 男の言葉に応えるように、森は喧噪を取り戻したのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 厳かで静かなお別れですね。 面白かったです。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ