4. 峠の雪
山梨市から見て秩父市は、峠を一つ越えた向こう側であった。峠の本当のピークの下には雁坂という峠の名が付いたトンネルが通っており、これを使えば比較的簡単に秩父に着けそうであった。
しかし、山道を登り始めると、さっきまでの晴天が嘘のように空が掻き曇り、雨が降り出した。
祖母はさすがにもう泣いてはいないが、さっきから黙ってずっと下を向いている。
今日会ってからずっとしゃべりっぱなしだった祖母が黙ると、遮音性の高い高級車の中は妙な静寂に支配された。タイヤが水を掻き上げる音と、ワイパーが水を掻くの音だけがどこか遠くから聞こえていた。
人家が途切れ途切れとなり、道路の脇が深い谷となる頃には3月だというのに雨が雪に変わり、あっというまに道が雪に覆われてしまった。
ブレーキをかけてもなかなか車が止まらなくなり、カーブでは車が外に流された。途中立ち往生している乗用車や軽トラ、大型トラックも何台か見かけた。それでも、お父さんの車は運転していて安心感があった。車の電気仕掛けがブレーキやエンジンを勝手に操作して、力任せにあたしがハンドルを切った通りの方向へ車体を押し込む感じだ。
「なんなの、この機械……」
祖母が不思議な独り言をつぶやいていた。
途中、排水溝にタイヤを落として身動きが取れなくなってしまっている車があったので、あたしはその車を抜いた所で車を止めた。その車の乗員は男性二人であったようで、一人が運転席でアクセルを踏み、一人が車を後ろから押して排水溝を脱出しようとしていた。
「ちょっと手伝って来る」
と、祖母に告げると、祖母は黙ってうなずいた。
あたしはバッグからヘアゴムを取り出すとクラウンを降り、スカートをたくし上げてゴムで留めながら立ち往生している車に駆け寄った。
「お手伝いしま~す」
あたしが声をかけると、二人の男性の表情がほぐれるのが判った。
「ありがとう」
「助かるよ」
私が車の後ろにまわって男性と一緒に車を押そうとすると、車に乗っていたもう一人男性が、車を降りながら、
「君、マニュアル運転できる?」
と聞いてきた。できれば男性二人で車を押したい、とのことだった。
あたしの免許はオートマ限定でマニュアル車の運転経験は皆無だが、確かに非力なあたしが車を押すより男性二人が押す方が、溝から抜け出せそうである。
「得意じゃないけど、やってみます」
つい、勢いで言ってしまった。
「じゃあ、2速発進で、半クラの時間を長くして、なるべく駆動輪を空転させないようにゆっくり発進してもらえる?」
「へ? 2速発進? 半クラ?」
わたしのオートマ限定はすぐにバレてしまった。
***
運転していた男性がマニュアル車の発進方法を丁寧に教えてくれたのだが、あたしがやるとタイヤが派手に空転し、後ろから押す男性二人を汚れた雪まみれにするだけだった。元の男性が運転すると、タイヤはあまり空転しなかったが、押し手が男性一人プラスあたしでは、車は溝から抜け出せなかった。
いろいろ試した末、最後にあたしの車とその車を荷物紐で結んで引っ張ると、その車はあっさり排水溝から脱出した。
「助かったよ。ありがとう」
「いえ、むしろご迷惑をおかけしちゃってすみません」
男性二人がこの言葉に笑ってくれたので、あたしも笑って微妙な気まずさをごまかした。
「君の車は冬タイヤを履いてるの?」
「はい、父の趣味で」
「そうか、今日はラッキーだったね」
「はは……」
「でも変だよな。今日の関東地方は全面的に高気圧に覆われていて、雨や、ましては雪なんか絶対に降る気圧配置じゃなかったんだけど」
……え?
男性に言われて、あたしはある可能性に気が付いた。でも、ねえ……。
お礼と称してなぜがほうとうセットをくれた二人組の車が立ち去ると、あたしはクラウンに戻り、運転席のドアを閉めてから祖母に尋ねてた。
「悦ちゃん、まさかとは思うけど、この雪、悦ちゃんが降らしてる?」
すると、祖母はうつむいたまま小さくうなずいた。あきれた……。
「もう、悦ちゃんいくつなの? 行きたくないのは判ってるけど、こんな幼稚な抵抗やめようよ」
あたしがそう言うと、祖母は焦点の定まらない目で私を見つめ、独り言だかあたしへの質問だか判らない中途半端なトーンでぼそっと言った。
「ねえ、人間は何で機械の力で神の力を上回ろうとするんだろ?」
我慢ができなくなり、あたしは助手席の祖母をギュッと抱きしめてしまった。
「悦ちゃんはずうっとこんなのと一人で戦ってきたんだもんね。頑張ったよね」
すると、祖母があたしを抱きしめ返してくれた。
「もう千年以上生きてるのに、未だに未熟でごめんね。孫にまで世話焼かせちゃって。私、なにやってんだろ」
祖母のその言葉をきっかけに降雪の勢いは収まっていった。
雁坂トンネルを抜ける頃には、道の、少なくとも轍付近の雪は、すっかり解けてしまっていた。