2. 温泉屋のてんぷら
食事を終えるとあたしたちは、あたしが自宅から転がしてきた川越ナンバーの車に移動した。
トヨタクラウン、ハイブリット。典型的なおっさん車である。
女子が運転するには可愛くないのだが、買ったのがおっさん(父)なので仕方がない。しかもフルタイム4駆にスタッドレスタイヤ。川越は豪雪地帯かいな。
免許は夏休み中に取得した。受験生がそんなことしてるから落ちるんだ、と言われれば返す言葉もない。
「じゃ、その信号を右折して」
助手席で祖母がナビをしてくれた。そもそも、車があるならあたしと行きたい所がある、という祖母の提案がきっかけで、祖母の自宅からはちょっと離れた駅で待ち合わせをすることになったのだ。
橋を渡った後、フルーツ公園入口という交差点で右折すると道は山道になった。コンクリート舗装の直線状の坂を登り、初心者にはちょっと厳しい細い山道を登りきると目的の日帰り温泉に着いた。
「ひい」
サイドブレーキをかけると、あたしはずっと緊張で出せなかった悲鳴をあげた。
免許は取っても、運転なんてほとんどしていない。山道では車を道路わきの電柱にぶつけないよう、排水溝にタイヤを落とさないよう必死だった。お父さんもよくこんな超初心者に車を貸してくれたもんだ。
「お疲れさまでした。麻友ちゃん運転上手」
と、祖母が言った。どこがじゃ。
「悦ちゃんは免許持ってないの?」
できれば下りは運転を代わってほしい。
「この見た目で免許を取りに行ったらマズいでしょ。下手したら年金も取り上げられちゃう」
「悦ちゃん、年金生活者なんだ」
あたしはまじまじと祖母の全身を観察した。暦の上では春とはいえ、3月の山梨はまだ寒い。なのにミニスカートに生足である。
「何?」
「別に…」
そう言いつつ、あたしは祖母の腿に手を当ててみた。
「冷たい。寒くないの?」
そう訊くと、
「全然」
そう答えて祖母は突然あたしのワンピースの裾をめくった。
「きゃあ」
あたしは慌てて裾を抑えた。書き忘れたが、今日のあたしはAラインのマキシワンピースにスプリングコートを羽織っている。
「ひどい、悦ちゃん」
「ふうん。なるほどね」
祖母はあたしの黒タイツを見ながらつぶやいた。
何がなるぼど、なんだか。あたしはこれからこの人と温泉に入るのか。不安だ……。
***
脱衣所で並んで服を脱いでいると、どうしても祖母の体に目が行ってしまう。
無駄なたるみは一切なく、それでいて柔らかな肌は、どう見ても若者の体だ。胸も十分に大きいのに、下着なしで高い位置に保たれており、まるで昨日今日膨らんだみたい。
髪を結いあげると、襟足の産毛は若者を通り超し、まるで幼い女の子のそれであった。
「ん?」
「あ、ごめん」
祖母と目が合ってしまい、あたしは慌てて目を逸らした。
「麻友ちゃん、ちょっと来て」
服を脱ぎ終わると祖母はあたしの手を取り、並んで大きな鏡の前に立った。うわぁ、つくずく大人と子供だ。
あたしは身長145cmのチビで、くびれのない幼児体形、胸なんかも実は最近膨らみ始めたばかりである。
それに対して祖母は……身長160cmぐらいかな? まるで彫刻のようなカンペキな女体であった。
「悦ちゃん、きれい」
思わずつぶやくと、祖母は噴き出した。
「麻友ちゃんも綺麗じゃない。よく見てごらん。思ったより大人の体になってるでしょ。たぶん来年の今頃は自分の姿を見て『あたし、きれい』ってつぶやいてるんじゃないかな」
「そうかなぁ。悦ちゃんも成長遅かった?」
「昔のこと過ぎて忘れちゃった。でも忍はいろいろと遅かったよ。忍とはそんな話、しないの?」
「お母さんは全然自分の話をしてくれない。そうか、お母さんも遅かったんだ」
「初潮なんかもよその子よりずっと遅くて、あのときは気が気じゃなかったな」
「そうそう、あたしも高一でやっと初潮が来たときは、嬉しくて友達にLINEしまくっちゃった」
あたしがそう言うと、祖母は笑い出した。
「あきれた」
「へ? 何が?」
「麻友ちゃんって面白いね」
化け物を自称する人に言われると、微妙……。
***
山の上の露天風呂は見晴らしが良く、山梨の街が一望できた。
「ほら、向かいに扇状地が見えるでしょ。あの辺が葡萄で有名な勝沼町。真ん中へんに赤いちょっと背の高い建物があるの、判る? あそこの1階に、この辺では珍しい雑貨屋さんがあって……」
祖母が街の案内をしてくれていると、
「そのお店、止めちゃったわよ」
高齢の地元の人達らしいグループの一人が話しに入ってきた。
「おばちゃんの友達が趣味でやってたんだけど、最近体調を崩しちゃって、お店を閉めることにしたんだって」
「そうなんですか。残念。私、かなり気に入っていたんですけど」
「お姉さん綺麗ね。モデルさん?」
“おばちゃん”は、話がワープするタイプの人らしい。
「いえ、そんな。一般庶民です」
「妹さんは中学生? いいわね、美人姉妹で。今日は観光?」
妹さんって……あたし?
「あ、ありがとうございます……」
とりあえず、この場は無難に応答しておこう。……と、思ったが、そうは問屋が卸さなかった。
「私は甲府の方で一人暮らしをしているんですけど、今日はこの子が遊びに来てくれたんで、ここに連れてきたんです」
「あら、お姉さん学生さん?」
この辺りの会話をきっかけに祖母と“おばちゃん”は地元ネタで盛り上がってしまい、あたしは会話に入れなくなってしまった。ま、いいや。
お風呂は広く、平日だというのに結構沢山のお客さんが来ていたが、それでも座り心地の良い場所を選んでゆったりと足を延ばせる程度には空いていた。
ぼんやりと足の先に広がる模型のような可愛い街を見ていると、昨日までの荒んだ気持ちがゆっくりとほぐれていくのが判った。
今晩は祖母の家に泊まる予定だ。今日、明日は受験のことはすっかり忘れて心を休めよう。
しかしさすが、長く生きているといい場所を知っている。……って、そういえば祖母は本当は何歳なんだろう?
ふと右を見ると、街を取り囲む山々の向こう側に富士山を見つけた。
あたしは慌てて祖母が“おばさん”と会話しているのを構わす、祖母の肩をぴしゃぴしゃ叩いた。
「ね、ね、悦ちゃん。富士山、富士山!」
「え? あ? ああ」
考えてみれば祖母は何度もこの温泉に来ているのだ。祖母にとって富士山は当たり前の風景の筈であった。だからあたしが感動していることも一瞬判らなかったらしい。
「可愛い妹さんね」
祖母の反応も相まって、“おばさん”に大笑いされてしまった。
***
お風呂からあがると、祖母はここの名物だというゆで卵のてんぷらを買ってくれた。
「さっきはごめんね。麻友ちゃんをほったらかしにして」
「悦ちゃんと一緒にいると、太る」
「あ、ごめん。麻友ちゃんもそういう年頃だもんね。何か別の……」
あたしはてんぷらにかじりついた。中の黄身が半熟で、衣に振った塩と相まって、卵の甘味が口いっぱいに広がった。
「美味しい!」
驚いた。たががゆで卵がてんぷらにするだけでこんなに美味しいとは。
ふと目が合うと、祖母はなぜか苦笑していた。
……ん? あたしこの温泉、アニメで見たことあるぞ。