二三話 これはステップアップではない。むしろ、ステップダウンだ
「いただきまーす」
公園の水道でナイフとフォークを洗い、妙中さんが普段から持ち歩いているアルコール除菌ティッシュで念入りに拭き、ケーキは八つに切り分けられた。
その時点で、僕たちはフォークを一つしか買っていないことに気付いた。だったら僕は手で食べれば良いかと思ったのだけれど、妙中さんは僕と横並びに座って一本のフォークで交互に食べようと提案した。妙中さんさえ厭でないのなら僕に反対する理由は無い。
このケーキは僕が妙中さんに差し上げたものであるから、ケーキをいかに食すかの主導権が彼女の側にあるというのは納得出来る。しかし何故か彼女は、まるで母親が乳幼児期の我が子にするように、僕に食べさせたがった。
「美味しいねえ」
「それは良かったです」
妙中さんはフォークに一かけ載せたケーキを僕の口許に近付け「あーん」と言う。仕方なくそれを口で受け取って、ふと気付く。
以前、手を繋いだ時の、そうだ――夜景の見えるレストランは忘れて良いと言われた――あのステップアップの下りだ。これは、それなのか?
だが、いわばあの話は、大人らしく付き合い方を変えるという意味ではなかったのだろうか。現在のこの行為はむしろその逆――僕は確かに、ホワイトデイも知らず厚顔にも今日になってその埋め合わせをした始末。更には、今日の予定を変更せざるを得ない食品を買ってきた。
もしやこのことを罰せられているのでは?
これはステップアップではない。むしろ、ステップダウンだ。僕を、子ども扱いしなければならない、至らない恋人として扱っているのだ。
僕がそれを甘んじて受けなければいけない立場にあるのは明白だ。先程、誇らしい、などと思ってしまったが、僕は恥じなければならなかったのだ。
しかし、妙中さんも決して、進んで僕を辱めようとしているのではないだろう。顔つきも
言葉遣いもいつものように優しいしにこやかだ。だが、躾けるところは躾ける、という心根が
この行為に現れているのだろう。厳しさと優しさを兼ね備えた、立派な人物である。
「ねえ、ロクちゃん」
「はい、なんでしょうか」
「……ありがとうね」
――?
「――大好きだよ」
僕は混乱した。
大いに混乱した。
「ロクちゃんは――わたしのこと、好き?」
「……少し考える時間を下さい」
「――」
僕が考えをまとめた頃には、妙中さんはフォークを握って少しぼうっとしているようだった。
「分かりました」
「はへ」
空気の抜けるような答えが返ってきた。
「何が」
「やはり躾の一環ではないかと思います。それと、僕が妙中さんを好きか、という問いですが」
「あ、そんな、そんなこと、いいよ、いい、いい」
妙中さんはフォークを持ったままの手をぶんぶんと振る。
「? いいのですか?」
「いい! いい! それよりこれ、食べよう!」
ケーキに豪快にフォークを差し込み、大きな欠片を口に入れた彼女は「うっ」と呻いて一瞬
止まり、ペットボトルの紅茶を流し込み、小さく「乳臭い……」だとかそういった感じのことを口にしたように見えた。
「そろそろお腹いっぱいになってきちゃった」と言って、残った四分の一を僕にくれた。僕はついに自分でフォークを握って食べることが出来た。自立した一個の人間に戻れた気分だった。




