【6】狂え その1
準決勝が終わり自宅に帰った後、私はとある予感を胸に家を出て、近所に流れる大きな川の河川敷へ走りました。夏の遅い日の入りを迎え、もう空はオレンジから黒へと移り変わろうとしています。土手の上まで登ると、生暖かい風が汗に濡れた前髪を揺らします。川の向こう岸のビル群の明かりが、暗い都会の空から落ちてきた星々のように輝いています。
そんな温かい闇に覆われようとしている河川敷に一定のリズムで響く、何かを打ち付けるような音。川に掛かった鉄橋を通る電車のけたたましい騒音に掻き消されても、何事も無かったかのように響き続けるコンクリートにボールがぶつかる音。
鉄橋の下で、みなもちゃんが投げ込みをしている音です。
ここは昔からみなもちゃんのお気に入りの場所。コンクリート製の橋脚に向かってひたすら投球を続けるのです。もう何年も、この間蓬ちゃんに投げ込み禁止令を出されるまで毎日毎日何百球も硬球をぶつけられた橋脚は、その部分だけ削れて凹んでいます。
『しほり、もしあのバカがまたアホな投げ込みやってたらちゃんと止めなさいよ』
蓬ちゃんからは口を酸っぱくして言われています。
今日の試合で、みなもちゃんは一五六球を投げました。明日の先発もまず間違いないでしょう。こんな状況です。私が見下ろす先で行われているものがアホな投げ込みでなければ何だというのでしょうか。
しかし私は彼女を止めることなく、そのまま回れ右して河川敷を後にしました。蓬ちゃんの言う通りにするのが正しいのは分かっています。でも出来ませんでした。私が言ったところでみなもちゃんが聞くかどうかとかそういう話ではありません。心配して見に来たくせに、どうしても止めようと思えなくなってしまったのです。
私は家に帰らず、その足で道場へ向かいました。
もう時間も遅く、無人の道場の扉を開くと、トレーニング器具と一緒に置いておいた試合用よりも重い素振り用バットを手に取り、白いリングへと裸足で上がります。
プロレスのリングは命を懸けて闘う覚悟を持った者しか上がれない神聖な場所です。
心がピンと張り、肌がプツプツと粟立つのを感じます。プロレスをやめたとはいえ、やっぱりこの場所は私にとって特別なのだと実感します。
目を閉じ、大きく息を吸い、吐いて、目を開き、バットを構えます。
明日の決戦に向けて身体を休めコンディションを整えることが大事なのは分かっていますが、こうしていないと気が狂いそうになるのです。胸の奥から噴き出すマグマのように煮えたぎった熱い何かが私の中を這いまわり、体の内から私を焼き殺そうとしてくるのです。勝ちたい。でも止まっていられない。矛盾した渇望が脳を掻き回して何も考えられなくなるのです。
歯を食いしばり、虚空を睨みつけてバットを振ります。
回数など気にせず、ただ己を浮かす熱に従ってバットを振ります。
一振り一振り、正しいフォームでボールをブッ飛ばすイメージでバットを振ります。
練習で積み上げてきた全て、言われたこと全部を思い返しながらバットを振ります。
みんなのことを想いながらバットを振ります。
エリス先輩のことを想いながらバットを振ります。
部長のことを想いながらバットを振ります。
雁野さんのことを想いながらバットを振ります。
みなもちゃんのことを想いながらバットを振ります。
みんなと一緒に優勝することを想いながらバットを振ります。
バットを振ります。
バットを振ります。
バットを振ります。
■□ □■
「しほり」
道場にやってきたお父さんに声を掛けられなかったら、私は永遠に素振りをしていました。
「――おと……さ……」
気が付くと、私はまともに喋れないほど息が荒れています。足元には汗で水たまりができ、手のひらは皮膚がズルズルになって痛みます。
「ご、ごめ……リング、汚しちゃって……今掃除、する、から……」
「馬鹿野郎。今日お前試合だろうが。さっさとウチ戻って風呂入って飯食って準備しろ。もう時間ねえぞ」
「あ、うん……」
バットを引きずりながら、よろよろとリングを降ります。
「あっ――」
足の裏の皮膚が剥けていた痛みに呻いた拍子に、私は階段を踏み外してしまいました。しかしそんな私の体を、丸太のように逞しい腕が抱き留めてくれました。
「若手の頃は俺もガムシャラに無茶やったが……血は争えねえか」
「お父さん……」
軽々と私を抱き上げて運び出すお父さん。その分厚い胸板に抱かれ、私はまどろみます。
「良いスイングだった。力が抜けて、臍下丹田を中心に体が動いてる」
「臍下丹田……?」
――ああ、そういえば昔、ちょうどプロレスから逃げ出す直前くらいにお父さんから聞いたような……。臍下丹田――へその下あたり。東洋医学における身体の中心。そこに意識と精気を集中させることで心身が整い力が湧いてくるとか。特に合気道ではそこを中心とした体捌きが大切で、お父さんは修業時代にその理論に出会ったおかげでここまでのレスラーになれたとかなんとか――
『バットはね、子宮で振るの』
――そっか。雁野さんに言われるまでもなかったんだ。最初から、大切なことはお父さんがちゃんと教えてくれてたんだ。
「……あの時、逃げちゃってごめんなさい」
「いいさ。お前は自分からちゃんとケリを付けに戻ってきた。難しいことだ。よく頑張ったよ」
「……私、強くなれてるかな」
「――本当に強い奴とは、常に周りの期待に応え続ける奴のことだ」
疲労で夢うつつの中、お父さんの野太い声が優しく響きます。
「どんなに打ちのめされても、応援してくれる人達の声で立ち上がり、ファンの見たがっている大技を決めて、ここ一番で必ず勝利する。そんな奴のことを、本当に強いレスラーと呼ぶんだと俺は思う。でもな、たまにいるんだ。それ以上のことをやらかしちまう奴が――」
お父さんは何かに思いを馳せるように続けます。
「周りの期待を軽々と超えて、想像以上のことを成し遂げて、時代ごと変えちまう『本物』が現れることがある。俺はお前が、そんなレスラーになれる素質があると思った。リングの上でそれが見られないのは残念だが、競技が変わったってきっとお前ならやれる。まだまだ強くなれるさ。誰よりも。俺よりもな――」
……重い。正直大きすぎる期待です。でもそれに応えたいと、私は心から思ったのです。
■□ □■
「プリ〇ュア映画観てる時の蓬のモノマネ」
ノノちゃんはバッグから取り出したミラクルなデザインのライトを光らせ、声を枯らして泣き叫んでる風に大声を上げながら振り回し始めました。
「ぇぐっ……ぷぃ〇ゅあー!! ぷぃ〇ゅあにちがらッ……ちがらをぉー!! ぷぃ〇ゅあー!! ひぐっ……がんっ、がんばぇー!! 〇ゅあはぁとぉー!!」
「うわあああああああああああああ!!」
顔を真っ赤にした蓬ちゃんが防具を付けたまま爆速タックル。ノノちゃんを押し倒して物理的に黙らせました。
「おまっ……お前ェ! お前なァ! おま、お前ェ……!」
「うぐ……何すんのよー……。試合前に怪我するじゃない」
「そうよ試合前よ! なんでよりによって今なの!? いやいつでもダメだけど!」
はい。ここは開会式をやったあの大きな球場の一塁側ロッカールーム。もう試合前練習も終わり、琥珀ヶ丘の練習が終わればすぐに決勝戦が始まります。そんなピリピリムードも最高潮なこのタイミングでの前振り無しなネタ披露です。
「いやでもホントにこんな感じだったのよ。動画見る?」
ノノちゃんは飄々とスマホを取り出し音量MAXで再生。
『ぇぐっ……ぷぃ〇ゅあー!! ぷぃ〇ゅあにちがらッ……ちがらをぉー!! ぷぃ〇ゅあー!! ひぐっ……がんっ、がんばぇー!! 〇ゅあはぁとぉー!!』
うわっ……か、完璧……。
「……んふっ」「むふふっ……」「そんなに泣きマス……? ふふっ……くひふぃっ」「ぷぃ、んふふ、ぷぃきゅあ……ぶほっ」「〇ュアハート推しなんだ……意外……」
「紋白テメエエエエ! いつの間に撮ってやがったァ!」
蓬ちゃんがバットを振り上げてノノちゃんを撲殺しようとしたのでさすがに止めました。
「止めないでしほり! そのアホ殺してあたしも死ぬ!」
「だっ、ンゴホヒッ、だめだよ蓬ちゃ……ンホホホッ!」
「うわあああああ笑うなああああああああ!!」
半狂乱になる蓬ちゃん。一方ノノちゃんは爆笑です。
「うひゃひゃひゃひゃっ……いやね、この前の遊園地でのはしゃぎっぷり見て、こうなったら完全に染めてやろうと思ってノノんちで歴代劇場版の鑑賞会やったのね。そしたらこれよ。最高過ぎてこの動画毎日見てるわ~。さてみんな――」
ノノちゃんは腰に両手を当て、にこやかに私達を見渡します。
「ちょっとは緊張がほぐれた?」
「へ?」
蓬ちゃんが間の抜けた声を出しました。ノノちゃんは人差し指を立ててチッチッ。
「みんな顔怖いんだもん。色々あってピリピリすんのは分かるけど、これからみんなで野球するのよ? しかもこんな綺麗なスタジアムで! あんなたくさんの人達の前で! こんなの楽しまなくちゃ損じゃない! ほら笑って笑って!」
「――そうだな」
部長が大きく息を吐いて立ち上がりました。
「この最高の舞台……いつか回想する時、苦悩に塗れた思い出ではあまりに淋しいというものだ。不安に苛まれている暇は無い」
部長はノノちゃんの頭をくしゃくしゃと撫でまわしました。
「潰されるくらいならプレッシャーなど投げ捨てて狂ったように笑おう。馬鹿みたいに暴れまわり、酔ったように踊り狂い、骨の髄まで楽しみ尽くして……そして、勝とう」
ちょうどそう呟いたタイミングでリンゴ先生がベンチからやってきました。
「琥珀ヶ丘の練習終わったよ! 準備して!」
「よし! 往くぞ貴様ら!」
みんなは大きく返事をし、部長に続いてベンチへ向かいます。ノノちゃんのおかげでみんな随分雰囲気が良くなりました。蓬ちゃんだけはブツクサ言ってますけど。
私もなんだか意気軒昂としてきて、隣を歩くみなもちゃんに声を掛けました。
「頑張ろうね、みなもちゃん!」
「――うん」
「……みなもちゃん?」
チームで唯一、彼女だけは重いオーラを纏ったままでした。
■□ □■
【先攻・琥珀ヶ丘高校スターティングメンバー】
一番(左)吉野 真由(二年・左投左打・#(背番号)7)
二番(右)霧ヶ峰 薫(三年・右投右打・#9)
三番(中)梶 菜桜子(二年・右投右打・#8)
四番(一)雁野 沙良々(三年・右投右打・#3)
五番(三)高牧 菜花(二年・左投左打・#5)
六番(投)棗田 楓恋(二年・左投左打・#1)
七番(捕)小波 あかり(三年・右投右打・#2)
八番(遊)新條 純(一年・右投右打・#6)
九番(二)興津 貴峰(二年・右投右打・#4)
【後攻・金剛女子学院高校スターティングメンバー】
一番(中)紋白 ノノ(一年・右投右打・#8)
二番(捕)鹿菅井 蓬(一年・右投右打・#2)
三番(遊)エリス ランスフォード(二年・右投左打・#6)
四番(右)伊藤我 美鶴(一年・右投右打・#5)
五番(三)藤原 茶々(三年・右投右打・#1)
六番(左)倉 しほり(一年・右投右打・#9)
七番(二)鳴楽園 彰子(一年・右投右打・#4)
八番(投)玉響 みなも(一年・右投右打・#10)
九番(一)鵜飼 みま(二年・右投右打・#3)
■□ □■
「おはようございますランスフォードさん」
「あら、おはよう、部長さんのお兄さん。今日は大学はいいの?」
「はい、もう単位は大体取り終えてるので。そこ席空いてます?」
「大丈夫よ。妹さん、昨日から先発外れてるけど大丈夫なのかしら……エリスに訊いてもはぐらかされちゃって」
「――ああ、ちょっと……その、調子が悪いみたいで。一年生のピッチャーが絶好調みたいですし、その辺を考慮してのことみたいですよ」
「……そう」
「ゴホンっ……エリスちゃん、相変わらず大活躍じゃないですか。ネットニュースで話題になってましたよ。『雁野VSランスフォード 最強打者を決める直接対決』って」
「そうね。それがあの子のやりたいことなら私はいいんだけど……」
「……?」
「『金色夜叉』なんて書かれるほど怖い顔で野球して……もしかしたらあの子はずっと、父親の影に縛られて、自分で自分に呪いをかけてるだけなんじゃないかって……」
「……大丈夫ですよ。結局みんな、野球が好き過ぎるだけなんです。エリスちゃんはお父さんのことも同じくらい大好きなんですよ、きっと」
「――そうね。部長さんはお兄さんが大大大好き過ぎるみたいだけど」
「あはは……ところでランスフォードさん、さっきから気になってたんですけど」
「奇遇ね。私もよ」
「ななめ後ろに座ってる男の人……何者なんですかね。ずっと腕組んで動きませんが……」
「ここに座ってるってことは誰かの父兄なんでしょうけど……」
「全身物凄い筋肉で、頭はあれ……プロレスのマスク? プロレスラー……?」
■□ □■
午前十時――試合開始時刻。整列して礼をして、後攻の金剛女子ナインが守備位置へ散っていく。茶々と沙良々は視線は合わせたものの、言葉を交わすことはなかった。
「さて、昨日の疲れも残ってるでしょうけど、気の抜ける打線じゃないわ」
マウンド上のみなもに声を掛けに行った蓬は、努めて明るく振る舞った。
「あんたスロースターターなんだから立ち上がりはとにかく――」
「いいよ、分かってるからさ」
みなもはマウンドを足でほじくりながら、目も合わせず言い放った。
「さっさと投球練習始めよ」
「……あんた、大丈夫?」
蓬の心配そうな声にも返事しないみなも。蓬は諦めて定位置へ向かった。球審の合図と共に投球練習を開始する。蓬はミットをど真ん中に構え、みなもはワインドアップからいつもの大胆なオーバースローで力いっぱい速球を投げ込んだ。
「――ッ!」
ボールは蓬の予想を越えて浮き上がり、ミットの上を掠めてバックネットまで飛んでいった。
(なんで最初からフルスロットルなのよ……!)
蓬はボールを拾いに行きながら顔を歪めた。
(あのバカ……来る前に投げ込みしてきやがったな……? 自分しか投げられるのいないって分かってんのか……ったく――)
蓬の想像は大方当たっていたが、正確には「来る前に」ではなく「来る前までずっと」だ。
その後はなんとか全て捕球し、最後は二塁へ送球。これが試合開始の合図である。
『一回の表、琥珀ヶ丘高校の攻撃は、一番・レフト・吉野さん』
ウグイス嬢のアナウンスで、吉野真由が左打席に入る。
(みなもの弱点の立ち上がりをどう凌ぐか色々考えてたけど――)
蓬はサインを送り、ミットをど真ん中に構える。
(この調子なら初見で打たれることはまず無い!)
第一球、みなも渾身のストレートが唸りを上げて高めに決まる。
「うおっ……」
打席の吉野から思わず声が漏れた。球を見ていくつもりだったのかバットは動かず、見逃しストライク。
ストレートは実際に真っ直ぐな軌道を描くわけではない。重力や空気抵抗などを受けてボールは減速し、落ちる。しかし球にバックスピンをかけることにより、ボールの上下の気流の速度に差が生まれ、上向きの揚力を生み出す。重力に打ち勝てるほど大きな力ではないので実際に浮き上がることはないが、通常よりも落差は小さくなる。
みなものストレートは時速一一〇キロメートル弱。女子野球でも大した速さではない。しかし天賦の物か、狂気とも思える努力の成果か、みなものストレートのスピン量は常人の遥か上をいく。しかも揚力は、球速が遅いほど顕著に働く。通常のストレートを見慣れた打者ほど、落差の小さい彼女のボールは浮き上がるように見えるのだ。
二球目も蓬はど真ん中に構える。コントロールに難があるみなもにコースを指定しても無駄というのもあるが、荒れ球というのは打者にとっては的が絞り辛く、利点でもある。
吉野はバントの構えを見せるがすぐに引っ込める。速球が高く浮きボール。三球目もボールとなり、四球目はカットしてファール。全てストレートで2ボール2ストライクとなった五球目。みなもが投じたのはやはりストレート。吉野は足で出塁を狙うような当てにいくスイングでバットを出したが、みなものストレートのノビは彼女の想像の上をいった。
ッパーン! と気持ちよく球場に響くミットの弾ける音。
先頭の吉野を空振り三振に打ち取ったみなもに、今日も奪三振ショーを期待する応援席から声援が飛ぶ。小さな身体の背番号10はそれに応えるかのように、続く二番・霧ヶ峰、三番・梶もオール速球で三振に打ち取ってみせた。
「っしゃぁ!」
マウンド上で吼え、みなもは悠々とベンチへ戻る。
金剛女子メンバーのうち、しほりを含む何人かは既に彼女の違和感に気づいていた。
笑っていないのだ。
あれほど打者との真剣勝負を楽しみ、マウンド上では喜びを抑えきれずいつも太陽のように笑顔を輝かせていたみなもが、全く笑みを見せなくなっていた。
■□ □■
(こんなに野球にハマりよるなんて、正直思っとらんかったなぁ)
棗田楓恋はロージンバッグを投げ捨て、マウンド上からの景色を堪能していた。
彼女は小さい頃からアイドルに憧れた。「将来の夢について考えよう」という小学校の課題でアイドルの仕事について調べている時に、アイドルが始球式を行う動画を見た。
彼女の理想のアイドルとは、いつも元気満々で何でも本気で取り組み、その姿でファンを虜にする――そんな美しく輝いている太陽のような女の子。
今から練習しとかなきゃ――そう考えた楓恋は翌日、少年野球チームに入団していた。
アイドルにも野球にも、手を抜いたことはない。
(全力でここまで駆け抜けてきたとはいえ、我ながら二足のわらじでようここまで来たなぁ。やっぱりウチって才能に溢れとるね)
捕手の小波あかりが腰を下ろす。投球練習の開始だ。楓恋はセットポジションに構え、ゆったりと始動。右脚を上げ軸足一本になり、さらに踵を上げ爪先だけでピンと一直線に立つ。そこから一気に前へ沈み込むように体重移動し、流れるようなスリークォーターから左腕がしなると、糸を引くような美しいストレートが放たれる。
(よーし絶好調じゃ♪)
楓恋は満足げに頷きながら続けてボールを投げ込む。いつもライブに来てくれるファン達が球場にも駆け付け、一球ごとに歓声を上げる。
(ファンのみんなには感謝せんといけんねぇ。見よってな、野球もアイドルも一気にトップまでかけ上がっちゃるけぇね)
『一回の裏、金剛女子学院高校の攻撃は、一番・センター・紋白さん』
「よっしゃぁ! かかってきなさい楓恋たそ!」
ノノが元気よく右打席に入った。楓恋はアイドルスマイルで返す。
(ほういえば一昨日、サインしちゃるの忘れとったなぁ)
捕手のサインに首肯し、第一球を投げ込む。
(ウチを打てたら、サインボールでも何でもあげようねぇ!)
初球は内角へのストレート。楓恋の最高球速は時速一二〇キロメートル代。みなもよりも速い速球にノノは手が出ずストライク。
二球目は高めのボール。そして三球目は初球と同じく内角へ投じたが、少し中へ入った。
ノノは思い切って振っていったが、完全な振り遅れで空振り。
(さて、向こうの先発みたくストレート勝負でバシバシ三振取れたらさぞ気持ちええんじゃろうけど――)
第四球、楓恋の投じたボールは時速一〇〇キロメートル前後のチェンジアップ。
(ほーれ、踊りんさい)
ノノは完全にタイミングを狂わされ、身体を泳がされながら空振り三振。スタンドがドッと湧き、楓恋はホッと一息。
(よしよし。この一番塁に出すと面倒じゃけぇね。それにウチの標的は――)
二番の蓬が打席に向かうが、楓恋の視線はネクストバッターズサークルへ向く。
(お前じゃけぇね。ランスフォード)
試合前に琥珀ヶ丘の監督から、得点圏にランナーを置いてエリスに打順が回った場合は敬遠で歩かせろと指示が出ていた。厄介なノノを打ち取り、さっそく勝負ができそうで楓恋の胸は自然と高鳴る。
(『正直さっぱり』か……こん試合で刻み付けちゃるわ。ウチという存在を。本物のアイドルっちゅうもんの心意気をねぇ)
逸る心を抑えボールを投げていく。蓬に対し最初の二球でテンポよく追い込んだが、決め球のチェンジアップで崩しきれずカットされて三球粘られる。アイドルとして表情を崩すわけにはいかないが、内心では舌打ちしたい気分だった。
(しつっこい……君なんかに構いよる暇無いんじゃ!)
イライラをぶつけるように投げ込んだのは、内角に食い込むストレート。
蓬は右肩を下げて身体にバットが巻き付くように振り抜き、ボールの横っ面を弾き飛ばす。鋭い金属音と共に放たれた速い打球は一二塁間をぶち抜くライト前ヒット。
「なんじゃと……!?」
「エリス先輩ばっかり見すぎ」
蓬は一塁上でニヤリと笑った。
「私のこと忘れんじゃないわよ、アイドルさん?」
(くっそ――ん、いけんいけん、ウチはアイドルウチはアイドル……)
悪態を噛み殺しホームに向き直る。ゆっくりと、大地踏みしめ、鬼が来る。
『三番・ショート・ランスフォードさん』
左打席に君臨する圧倒的存在感。沸き上がるスタンド。高らかに専用応援曲が鳴り響く。
(打席に立つだけでその場ん雰囲気を染め上げる……そして――)
左打席で黙々とルーティーンをこなすエリスの眼光――『夜叉』たる証ともいうべき鋭い殺気がマウンド上の楓恋を穿つ。楓恋は思わず唾液を呑み込んだ。
(なんてプレッシャー……これに呑まれたらそん時点でよう勝てん)
初球、慎重にチェンジアップから入る。低めに決まりストライク。二球目はインハイのストレート。エリスはスイング。ボールの下を叩き、白球はバックネットへ飛ぶファール。三球目はストレートが高めに外れてボール。そして四球目――
(ウチんチェンジアップは一つじゃない。準備してきたわ、鬼の首を取るボールをな)
普通のチェンジアップ――サークルチェンジはややシュート気味に曲がって落ちる。しかし楓恋の新球はそれよりもやや球速が速く、フォーク気味に鋭く沈む。
(スプリットチェンジ――普通のに合わせとったら対応できんよ!)
高校女子野球界の広告塔たるエリスを打ち取り、立場を逆転させる。名実ともに自分こそが女子野球界のアイドルとして君臨する。その為の武器――決め球を自信をもって投げ込んだ。
「――……っ!」
その瞬間、楓恋の背筋を身も凍るような冷気が襲った。呼吸は止まり、視界は全てスローモーションのよう。
楓恋の必殺球を『金色夜叉』の眼光が捉え、銀色の刃が振るわれるのがまざまざと見えた。
遅れて聞こえるキィンという冷酷な金属音。振り返ると白球はセカンドの頭を越えて右中間を破っている。蓬は一塁から三塁へ。エリスも二塁へと滑り込んだ。軽く一息つき、腿についた土をはらいながら彼女はにっこり微笑んで言った。
「うん、Nice ballデシタネ」
(……はぁ? ウチん決め球を簡単に打ち返しといて……ナイスボールでしたね……?)
楓恋は急に足元がぐらついたような気がした。
「何が……何が女子野球界のアイドルじゃ……こんバケモンが……ッ!」
楓恋のスプリットチェンジを初見で打てた者など琥珀ヶ丘にもいなかった。
唯一、もう一人のバケモンを除いては――
「落ち着け楓恋」
タイムを取った捕手の小波がマウンドにやってきた。
「小波先輩……」
「ランスフォードが強敵なのは分かってたことだろ。気持ちは分かるが一回打たれたくらいで落ち込むな。まだ無失点なんだ。さっさと初回終わらすぞ」
「……ほうですね」
「ここからのバッターで一番厄介なのは五番の藤原だ。何が何でもランナーを還してくる。でも六番の倉は扇風機だから安牌だ。だから次のバッターを確実に抑えていくぞ」
「了解です。もうランスフォード以外でも気ぃ抜きませんわ」
■□ □■
うちのチームでは、私はただ四番目の打者であるというだけだ。打線の軸はエリス先輩であって、私――伊藤我美鶴が四番打者であることに特別な意味は無い。それは承知の上だから、過剰にプレッシャーを抱くことは無かった。
でも試合をしていく中で分かってきた。重要なのは四番目ということではなく、エリス先輩の次の打者であるということだ。うちはとにかく上位打線で点を取らなきゃ話にならない。でも勝負がかかった場面だとエリス先輩はよく敬遠される。つまり、私は舐められているということだ。事実これまで、各校の控えレベルの投手からは運よくヒットを打ってこれたが、エース級相手だと全く対応できていない。
『美鶴、楓恋たんは球速いけど、それ以上にあの球の見えにくいフォームが厄介よ。リリースの直前まで頭に隠れて全然球が出てこない。球速以上にタイミング早く待ってなきゃダメ』
ノノはさっき、私が打席に向かう前にそう言っていた。なんで君はそんなに器用なんだ。私と同じで野球は初心者だったはずだろう? 私なんかボールを目で追っかけるのが精いっぱいで打席でそんなに色々考えられない。
「ストライッツー!」
ダメだ……本当に球が見にくい。見てから打とうとすると完全にタイミングが遅れてしまう。手が全く出せない。次の球が来る……今度はもっと早くから振り出さないと――って、ボールが止まって……全然来ない……っ!
「ストライッスリー!」
今のがチェンジアップ……完全にタイミングを狂わされて無様な空振り三振……。
「クソッ……!」
客席から私を応援に来てくれた子達の溜息が響く。歯噛みしながらベンチへ戻ると彰子が心配そうに見てくる。私は黙って離れたところに座って顔を覆った。
その後部長は敬遠で歩かされ、しほりちゃんが三振。結局この回は無得点で終わった。
「……美鶴様、さあ守備に参りましょう?」
「ああ――」
部長……私をずっと四番で起用してくれますが、一体何を期待されてのことなんですか?
この打順は私には……重すぎます……。
■□ □■
「この調子で最後まで投げ切れるの?」
二回表、マウンドに登ったみなもに蓬が尋ねる。
「ピッチャーはあんたしかいないの分かってるんでしょ? こんなに最初からとばして――」
「言ったでしょ。腕が千切れようが投げるよ」
「そんなことしてたら体がもたないでしょ……!」
「体はボールを投げる為にあるんだよ。投げて壊れるんならそれでいいじゃん」
「あんたねぇ……」
「この試合に勝つ。だから次の打者を打ち取る。だから次の球を全力で投げる。だから私はここにいる。それ以上考えることなんてないよ」
蓬は眉根を寄せて顔を伏せた。数か月みなもとバッテリーを組んで、もう彼女の苛烈で頑固な性格は大体分かっていた。猛獣を鎖に繋いだところで飼いならすのは不可能だと。
『二回の表、琥珀ヶ丘高校の攻撃は、四番・ファースト・雁野さん』
アナウンスが耳に届く。どちらにせよ、次の相手は全力で当たらねばならない強敵。
「……分かったわ。今日はもう何も言わない。好きなだけ暴れなさい。どんなに荒れても私が必ず受け止めるから」
「――ありがと、もぎちゃん」
「まずは勝つわよ、あの怪物に」
マウンドを後にしホームへ向かう。雁野沙良々は既に右打席に入っていた。今日は眼帯を外している。その色の異なる双眸と目が合い、蓬は思わず唾を呑み込む。
白く美しき立ち姿。災害の如き絶対的な恐ろしさを齎す強大な悪魔。天を覆うかのような威厳に人はただ畏怖するばかりの荒ぶる神の象徴――『白鯨』の異名を冠する女王の帰還。
エリスの時とは真逆で、彼女が現れるとスタンドは息を飲み、球場は静寂に包まれる。
「茶々ちゃんは?」
「……はい?」
突然沙良々に話しかけられ、蓬は狼狽した。沙良々は構わず続ける。
「茶々ちゃんは投げないの?」
「……ええ、まあ」
「そう。じゃあ早く終わらせよう」
悪意なくそう言い放つと、沙良々は再び人形のように口を噤んで極端なオープンスタンスに構える。
(部長以外は眼中にないってか……まあ、それならそれで都合がいい)
蓬はマスクを被って腰を下ろした。
(球数はかけられないし、みなもを舐めてくれてるうちにさっさと打ち取る)
初球のサインはストレート。やや内角に構える。
(侮ったままでこの球が打てると思わないで……!)
堂々たるワインドアップから、オーバースローでみなもの速球が放たれる。先のことなど考えず、ただただ一二〇%で投げ込まれた渾身のストレート。蓬のミットよりもさらにやや内角、ちょうどゾーンギリギリを攻めるコースへ迫る。
捕球するためミットを動かす蓬は視界内の沙良々が動かないのを確認。
(よし! まず見逃しで1ストラ――)
その瞬間、バットは回っていた。
「ッ……!?」
常人では捉えられない速度のスイングスピード。それ故に可能な、ギリギリまで引き付けてボールを見極めてから繰り出す神速のバッティング。絶句する蓬の視線の先、完璧に芯で打ち返された打球は左中間を深々と破り外野を転がる。ノノが拾って中継のエリスに送球するが、沙良々は余裕をもってセカンドベース上に立っていた。
(――怖い。ゾっとした。みなものストレートを初見でいとも容易く……)
蓬はメガネを外して汗を拭った。
(これが怪物を相手にするってこと……エリス先輩も相手からはこう見えてるのか――)
マウンド上を見やる。みなもはロージンバッグを強く握りしめ、無表情で立っていた。
(――大丈夫、みなもの心はまだ死んでない)
しかし琥珀ヶ丘打線は容赦なくみなもに牙を剥く。荒れ球の彼女に対し、徹底した待球作戦に出たのだ。ゾーン内の球はカットし、球数を投げさせ崩れるのを待つ。沙良々には及ばないとはいえ、当然どの打者も全国レベルの好打者揃い。みなもも手を抜くわけにはいかない。
五番高牧菜花には九球を投げさせられた挙句、四球をもぎ取られ無死一二塁。
六番の楓恋は十二球粘ってセンターフライを打ち上げ、沙良々がタッチアップして一死一三塁とピンチは広がる。
それでもみなもの眼光は失われない。
「……ッらァ!!」
やはり粘ってくる七番小波あかりに対しカーブで追い込むと、気合いの籠った八球目のストレートで三振を奪った。
「っし……! はッ……はッ……」
「――タイムお願いします」
息を乱しているみなもを見て、蓬は時間を取るためマウンドへ。
「オッケオッケ。よく踏ん張ってるわ。もうひと頑張りよ。ただ次のバッター、データだと一番しつっこい奴だから、気合い入れ直して」
「はッ……はぁッ……うん……分かってる……ここで切ろう」
「ど真ん中投げ込んで、あとはバックを信じましょ」
「うん……うん……」
あえてこの先のイニングのことには触れず、みなもの背をポンポンと叩いて定位置に戻った。
八番新條純もやはり待球に出た。四球目まで全くバットを出さず2ボール2ストライク。その後三球カットして八球目。ど真ん中に入ったみなものストレートに、最早序盤のキレは無かった。新條は短く持ったバットをおっつける。
速いゴロになった打球は一二塁間へと転がった。
(とどいて、ください……っ!)
彰子が髪を揺らして駆け込み、白球に向かって身体を投げ出して左手を伸ばした。しかし無情にもボールはグラブの横をすり抜けていく。
(そん……な――)
惨めに地を這う彰子は悲嘆の表情でボールの行く末を目で追い――両目を大きく見開いた。
「――ああ……ああっ……!」
美鶴がいた。ライトの美鶴が猛ダッシュで詰めていた。彰子の脇を抜けたゴロを引っ掴むと、姿勢を崩しながら右腕を振り抜く。レーザーのような送球が一直線にファーストみまのミットを抉った。
「んぁあアッはぁんぅッ!」
みまが大きく喘いだのと新條が慌てて塁に飛び込んだのはほぼ同時。
やがて塁審の右手が拳となって掲げられた。
「アウトッ!」
琥珀ヶ丘先制のチャンスは、美鶴決死のライトゴロによって潰えた。
「よかった……彰子、大丈夫かい?」
「美鶴様……!」
ホッと胸を撫で下ろし、彰子に手を差し出す美鶴。
「やっと一つチームに貢献できた……ここからだ、頑張ろう」
■□ □■
どうも、描写される価値のあるプレーが全く無い倉しほりですよ。
二回裏、先頭の彰子さんがピッチャーゴロで倒れ、次の打者だったみなもちゃんは打席には立ったものの、一切バットを振ることなく三振。ふらふらと戻ってきて、ベンチに崩れ落ちるように腰掛けました。
「みなもちゃん大丈夫……?」
私の声に応えるのもキツいといった様子で頭をカクンと縦に振ります。蓬ちゃんがみなもちゃんの頭に氷嚢を乗っけながら、次に打席に向かう鵜飼先輩に声をかけました。
「鵜飼先輩、お願いしますね」
「うん、任せて。なるべく球数稼いでくるよ」
少しでもみなもちゃんの体力回復を図るため、鵜飼先輩はとにかく粘りまくって時間を稼ぐ作戦です。
「玉響さん、はいこれ、スポーツドリンク」
いつものスーツ姿のリンゴ先生は汗でズレたメガネを直しながらペットボトルを差し出します。野球の監督の服装は別にルールで決まってなくてユニフォームじゃなくてもいいんです。
「みなもちゃん大丈夫? 開けられる?」
みなもちゃんは手に力が入らないようで、受け取ったペットボトルのフタを開けることが出来ませんでした。代わりに私が開けてあげると、小声で「ありがと……」と呟いて一口ずつくぴくぴ飲み始めました。
その時、蓬ちゃんに「しほり、ちょっと」とみなもちゃんに声が聞こえないベンチの隅まで引っ張っていかれました。
「昨日あいつ投げ込みしてたんでしょ?」
「……ごめん。止めなきゃいけないのは分かってたんだけど……」
「今更仕方ないわよ。気持ちは分かるし。それに……初っ端から全開出してるからこそ、雁野沙良々に打たれてもまだ無失点で済んでるんだし」
「でもみなもちゃんがこんなに消耗してるの初めて見た……。昔は試合があろうが何だろうが毎日投げまくってたのに……」
「――まあ、多分今までの野球人生で一番の強力打線とぶつかり合ってるわけだし、私もそうだけど、普段の何倍も神経張りっぱなしで疲労も段違いよ」
「……大丈夫かな、この先」
「無失点とはいかないでしょうね。いかに少ない失点で凌げるか……早い段階でこっちも点取って少しでも楽にしてあげたいけど、次の回で雁野沙良々まで回るようなら正直――」
その時、鵜飼先輩の喘ぎ声が断続的に響いていたグラウンドが静かになり、コーチャーに出ていたエリス先輩が戻ってきました。
「Changeデス。守備にいきマショウ」
鵜飼先輩は頑張って粘りましたが最後は三振に倒れていました。
蓬ちゃんがみなもちゃんに声を掛け立ち上がらせ、一緒にマウンドへ向かうのを見送り、私もグラブを持ってベンチを出ます。
「シホリ」
「――なんですか、エリス先輩」
私を呼び止めた先輩は、私の肩を抱いて念を押すように小声で言いました。
「分かっているとは思いマスが、もしChanceで打順が回ってきても――」
「分かってますよ。しっかり自分のスイングをするだけです」
理想を言えば小技や軽打でなんとしても点を取りに行く打撃が出来ればいいのですが、練習でもやってないことがぶっつけ本番でうまくいくわけがありません。
どんなに無様でも、惨めでも、悔しくても、舐められても、無力感に苛まれても……自分に出来る範囲のことを全力でやる。それが私の役割で、チームへの貢献なのです。
■□ □■
ずっと私は最強だった。
小さい頃からいくら投げてもへっちゃらだった。中学の頃は、チームのどの男子よりも良い球が放れたし、大会でも私より多く三振を奪えるピッチャーはいなかった。
楽しかった。私は最強なんだと思ってた。でもそうじゃなかった。
肩が重い。肘から先の感覚がない。景色が揺れる。肺が潰れそう。
まだ三イニング目なのに、こんなにバテたことなんてない。
投げ込みしたせい? 違う。そんなこと中学までならいつもやってたことだ。
『エースだっていうなら、チームの柱だっていうならさ、友達殺してでもチームを勝たせてよ』
自分の口から出た言葉が重く背にのしかかっている。
今までは目の前の打者との勝負に勝てればそれでよかった。それで二十一個アウトを取ればチームが勝つ。それがピッチングだと思ってたし、事実それで勝ててた。
でも高校女子野球の世界は甘くなかった。
雁野沙良々、エリス・ランスフォード……こんな化け物が何人も跋扈している世界で、たかが中学レベルで天狗になっていた私は、チームを背負って試合を預かる器ではなかった。
『不安に襲われたらマウンド上の我を見ろ。我がそこに立つ限り、この軍団は常に堅牢堅固堅強よ』
自分が一番不安なのに、私ならそんな自信満々にみんなの柱になれたか。
『我の役目は、チームを勝たせることだ。だから、勝つために決めた。もう、我は投げない。我が投げていては、チームは、勝てない』
生意気な後輩の反発に、私ならそんな決断を下せたのか。
『我こそがこの金剛女子学院高校硬式野球部主将兼エースピッチャー、藤原茶々であるッ!』
なんて強い人なんだろう。なんて優しい人なんだろう。
果たして二年後、私はあんな選手に――背番号1が似合う背中になれるだろうか。
『我を救うものがあるとすればそれは一つ――勝利だけだ』
『絶対に、ボクたちを勝たせて』
――笑えない。笑ってなんかいられない。私は背負ってしまったんだ。私が勝てばいいんじゃない。勝たせなきゃいけないんだ。もっと、もっと、もっと強くならなきゃ。今ここで。無理やりに殻を破って。部長のようなチームの柱としてマウンドに君臨しなきゃいけないんだ。
――そう思えば思うほど、私の体は重くなっていった。
「ボールフォア!」
三回表、先頭の興津って人には粘られてフォアボール。打順二巡目に入って一番の吉野って人にはど真ん中の棒球を完璧に打ち返されてセンター前ヒット。二番のなんかエアコンみたいな名前の人には、カーブが完全にすっぽ抜けて背中に当ててしまった。感覚がないから分かんないけどカーブは多分もうリリースが上手くいってない。
ノーアウト満塁で、三番の梶とかいう人を迎える。初回はキレキレだったから三振に打ち取ったけど、キレの鈍った直球しかまともに投げられない私が、関東覇者琥珀ヶ丘の三番バッターを抑えられるなんて上手い話があるわけなくって――
ガキィン! という耳をつんざくような金属音。
ボールはレフトへ飛んでいく。しほりんが一生懸命追ってるけど、その遥か頭上を越えていく長打。三人のランナーは全員ホームへ生還するツーベース。
3-0。更新されるスコアボードの数字を見て、膝から崩れ落ちなかったことだけは私を褒めたいと思う。
ダメだった。私にはやっぱり無理だった。ピッチャー失格だ。部長にあんな啖呵切っておいて、結局自滅して大量失点。最低だ。球場中の人間の視線が私を責め立てているように感じる。こんなクソピッチャー。マウンドに立つ価値も無い。情けない。もうここに居たくない。今すぐ殺してくれ。何も言わずに私を死なせてくれ――
「よく頑張った」
気が付くと、私は誰かに抱き留められてそんな温かい言葉を掛けられていた。触れた体の感触……この平らな胸板は――
「――ぶ……ぶちょ、ぅ」
「琥珀ヶ丘打線にここまでやれる一年生はそうはおらん。誇りを持て」
「で……でも、私……勝たせるって言ったのに……」
「打たれることが出来るのは、マウンドへ上がる勇気と覚悟を持った者だけだ」
そう言って頭を撫でてくれる部長の周りには、他の内野陣も集まっていた。
「――でも部長、実際問題どうします」
もぎちゃんが後ろで急かす球審をチラ見しながら言う。
「みなもは限界です。しかも次は雁野沙良々だし……これ以上点差を付けられるのは――」
「ワタシが投げマス」
エリス先輩が思いつめた顔で名乗り出た。でも部長は首を横に振る。
「駄目だ」
「何故デス!? みなもが無理ならもうワタシしか――」
「その何年も投げていない壊れた左肩でか? それにショートは誰が守る。穴の開いた盾では何も守護れぬぞ」
「……じゃあ、つまりアナタは――」
「ああ、我が投げる」
部長は決然と言って、私を体から離した。
「あとはエースに任せろ、玉響」
なんであなたはそんなに、一番怖いのはきっと自分なのに、そんなに心強く笑えるの。
「お願いします……ッ」
私が絞り出すように言うと、部長は頷いて球審に交代を告げに行った。
「大丈夫? 一人で戻れる?」
「……鵜飼先輩」
足元が覚束ない私を、鵜飼先輩が支えてくれた。
「ごめんなさい……私――」
「謝らなくていいよ。ボクこそ、後輩に背負わせ過ぎた。それに、ボクらはまだ負けてない」
そう言ってくれた先輩の笑顔に泣きそうになりながら、私は「ありがとうございました。大丈夫です」と助けを断り、とぼとぼとベンチへ向かった。金剛女子応援席から拍手が聞こえてくる。もう死にたいとは思わなかった。
「みなもちゃん!」
後ろから大声で呼ばれて振り返ると、わざわざ外野から走ってきたしほりんがいた。
「さっきはフライ捕れなくてごめん! でも絶対! みなもちゃんを負け投手にはしないから! だから……見てて!」
必死に叫ぶしほりんの姿に、思わず噴き出した。
ヒットの一本すら打ったことない奴が何を言ってるんだか。
でも――
「――ありがと!」
ああ、そうだ。私、いつもマウンドではこうやって笑ってたっけ。
そのまま私はふわふわとベンチへ戻り、出迎えてくれたリンゴちゃんの胸に飛び込むように倒れると、ぷっつりと意識を手放した。