【5】Fissured Diamond その2
「休むな! 次ッ!」
グラウンドに響く部長の怒号と打球音。飛球はレフトへ飛び、夕霧先輩がゾンビのような動きで追いかけますが当然捕れず、ボールはコロコロ転がっていきます。
「途中で諦めるな! 最後までしっかり追え! 次ッ!」
ゲスの極みのような理由で発奮した日から、夕霧先輩は毎日こうして部長のノックを受けています。バテバテでナメクジみたくなっていますが、それでもなんとか喰い付いていこうとしているのを見るに、その覚悟は本物のようです。動機は本当にクズ極まりないですが。
「部長、一年生全員揃いました」
蓬ちゃんが代表して声を掛けると、部長は「ああ」と頷き、号令を下します。
「特守は終了! 夕霧は急いでボールを拾え! 一年生も手伝ってやってくれるか」
「はい!」
部長の傍らでボール出しを担当していた鵜飼先輩、ショートの位置で中継役をしていたエリス先輩も合流してみんなで外野に散らばった白球を拾い、ついでに夕霧先輩の死体も回収したところで練習開始です。
「よし、ではいつも通りランニングからだ」
普段と変わらない威風堂々といった様子で先頭に立ち、率先して声を出して皆を引っ張っていく部長。
全く覚えていませんでした。彼女があの時の投手だったなんて。
そう、ちょうど昨年の今頃でした。
琥珀ヶ丘高校――全国大会優勝経験もある関東の絶対王者。まだ二年生ながらその四番に座っていたのが雁野沙良々さんでした。スタンドから観ていた(おまけに視線はエリス先輩に釘付け)ので外見はあまり印象にありませんが、めちゃくちゃ打ってた気がします。
同点で迎えた試合終盤、先発だった当時の金剛女子三年生エースがランナーを許したところでマウンドを降り、サードを守っていた人が二番手で登板したはず……ああっ! そういえば部長今でもみなもちゃん登板時はサード守ってるじゃん! 確かサイドスローだった気もするし……なんで分かんなかったんだろう。
登板した部長(もちろん当時は部長ではなかったのでしょうが)はその後、雁野さん相手に堂々渡り合いました。雁野さんは何球もファールで粘り、一〇分近くかかる大熱戦だったのを覚えています。しかし最後はストレートが抜けて……後は先ほどお話した通りです。
精密機械のようなコントロールが持ち味の部長が頭部死球を与えてしまったのも衝撃ですが、いつも自信に満ち溢れている彼女が一球で調子を崩し、試合を壊してしまうなんて、頭部死球はやっぱり当ててしまった方にとってもショックは大きいものなのでしょう。ましてや一年も試合に出られない程の大怪我をさせてしまったとなれば尚更です。
果たして雁野さんはこの先、試合に出てくるのでしょうか。もし決勝で出てくるとしたら、一体何が起こるのか、予想の出来ない試合になりそうです。
やや張り詰めた空気の中でいつものアップメニューを終え、一同は部長の許に再集合。部長は無言でみんなの顔をゆっくり見回し、青空に浮かぶグラウンドへ目をやりました。
「さて、我は当然関東大会を優勝した後の全国大会のことまで見据えている。いつかは我にも、この慣れ親しんだ金剛女子のグラウンドに別離れを告げる日が来るだろう。だがそれは今日ではない。我はまだまだこのグラウンドで泥に塗れるつもりだ」
そっか……もし次負けてしまったら、部長はそこで引退。もしかしたら今日が最後の練習になるかもしれないんですね。もちろん今まで誰もそのことを口に出したりはしませんでしたが、いざ意識してしまうと……ってダメです。悪い方に考えちゃダメです。部長の言う通り、勝てばまだこのチームは続くのです。
「まずは明日。相手は馴染みの瑠璃沢高校だ。ここに関しては今更言うことはない。グレードアップしたこのメンバーなら王者の戦いが出来るだろう。むしろその程度の実力が無ければ明後日の決勝は戦えぬ」
部長は目を閉じ、鼻から大きく呼吸。
「十中八九、相手は琥珀ヶ丘高校だろう。言わずもがな、これまでで最強の敵だ。今までのように余裕を持った展開にはなるまい」
私達はここまで理想的な圧勝で勝ち上がってきました。それはつまり、まだ大きな重圧というものを経験していないということ。ここで打たれたら、ランナーを還されたら負ける。ここで打たねば負ける。そんな計り知れないプレッシャーを――崖っぷちに立たされる恐怖を味わったことがないということです。いざそんな場面を迎えてしまったら、果たしていつも通りのプレーが出来るのか。これはその時になってみなければ分かりませんが、大きな課題です。
……ま、私はいつも通りでも三振やらエラーやらなんですけどね。
「後ほどランスフォードファンクラブの者に撮影を頼んでおいた動画を見てもらうが、今から守備陣形等々の確認をするにあたって琥珀ヶ丘の要注意選手を確認しておく……といっても、どの選手も関東中から集まった有望株だ。全員が要注意と言ってしまえばそうなるのだが、まずは投手。今大会では三人が登板しているが、決勝での先発はおそらく――」
「棗田楓恋」
聞き慣れない声がグラウンド外から部長の話を唐突に遮りました。
「琥珀ヶ丘の二年生エース。左投左打。背番号1」
その人は言葉を続けながら悠々とグラウンドへ入ってきました。金剛女子とは別の制服姿の女子高生。ブリーチが効いてて綺麗に波打った長髪をツインテールにして、ブランド物のサングラスで目元を隠し、艶やかなリップにネイルもバッチリキメた、一目でオシャレと分かる私とは別人種。
「予告先発じゃ。内緒じゃけぇね♪」
「誰だ貴様は」
部長がその人を睨みつけました。
「その制服……琥珀ヶ丘だな」
「んもう、今自己紹介しちゃったじゃろう?」
彼女はサングラスを外し、可愛らしい笑顔でウィンクを決めました。
「金剛女子の皆さん初めまして。ウチが棗田楓恋じゃ。よろしゅう頼みますね♪」
「な、棗田楓恋って……」
ノノちゃんが震えながら声を上げました。
「アイドルの楓恋たそじゃない! うわー近くで見ると実物可愛いっ……」
「ふふっ♪ 知っとってくれて嬉しいわぁ。後でサイン書いちゃるね」
棗田さんは気にせず微笑んでいます。そうです、大親睦大会の時に遊園地でライブを見た、あの大人気女子高生野球アイドルです! この人、琥珀ヶ丘のエースだったんですか!?
「ふん、そのアイドルがわざわざ何用か」
「用ってほどのもんは無いんじゃけど……一つだけ言いたいことがある――ランスフォード!」
「ワ、ワタシデスカ?」
ビシッと指を刺され、エリス先輩はビクッとオドロキ。
「なんデショウ? アナタとは初対面だと思うのデスガ――」
「あんた、ウチのこと知っとった?」
「えーっと……正直さっぱり――」
「やっぱしな! 世間的にはウチはアイドル! 有名人じゃ! じゃけど女子野球アイドルで売りよるくせに女子野球界じゃみーんなウチのことよう知らん! それはあんたのせいじゃ! あんたが女子野球界のアイドルじゃけぇ!」
「ええ……」
エリス先輩は困惑してますが、先輩が女子野球界のアイドルというのはまったくその通りですよね。しかし棗田さんは職業アイドルとしての矜持がそれを許さないようです。
「勝負じゃランスフォード! 決勝であんたに勝って、名実ともにウチの方がアイドルじゃと証明しちゃるけぇね! 覚悟しんさい!」
「はあ……Idol云々はよく分かりマセンが――」
エリス先輩は口では微笑み、しかし目の奥に『夜叉』の炎を浮かべて言いました。
「勝負は受けて立ちマショウ。勝つのはワタシ達デス」
「……で、わざわざ他校に忍び込んでおいて用事はそれで終わりか?」
「忍び込むとは人聞き悪いねぇ。ちゃーんと許可は受けとるよ」
部長の棘のある言に対し、棗田さんは胸に付けた来校者バッジを指でつっつきました。受付で正式に手続きをした上で堂々とやって来たということでしょう。
「ウチはただの付き添いじゃ。大事な用事があるんは、ウチの先輩――」
そう言って背後を振り向く棗田さん。その視線の先、グラウンドの入り口に、もう一つの人影がありました。あれは――
「――バッセンのお姉さん……?」
可憐なクラシカルロリィタのドレス。遠くからでも目立つ白銀の髪。精巧なドールのように白い肌とピンと伸びた背筋。左目の眼帯。閉じた右目。紛れもなく、あの日バッティングセンターにいたお姉さんです。
棗田さん、あの人を「先輩」と呼びました? つまり、お姉さんも琥珀ヶ丘の……?
私が頭を捻っている間に、お姉さんは目を閉じたままトテトテと淀みなく歩みを進めてきます。真っ直ぐ向かうのは、部長の許。
部長は彼女のことを目を見開いて見つめたまま、愕然とした表情で微動だにしません。
お姉さんの放つ異質な雰囲気に呑まれて誰も何も言えぬまま、彼女は部長の眼前で立ち止まりました。
「サラ、なんで……あなたが、ここに……」
部長はいつもより上ずった声で、彼女を「サラ」と呼びました。対する彼女は――
「茶々ちゃん、ずっと会いたかった」
そう呟いて、動けない部長の胸にそっと両手を添え、身体を預け、顔を寄せ――唇にそっと口づけをしました。
「っ……!?」
当事者の二人以外は棗田さん含め、目の前で起こっていることに驚愕し固まります。
こ、これ……なんていうか……見ちゃっていいもんなんでしょうか……ひゃ~っ!
「――ちょ……ちょっと待ってよ!」
鵜飼先輩が二人の間に割って入り、お姉さんを部長から押しのけます。
「琥珀ヶ丘か何か知らないけど、茶々様の忠実な犬はボクだけだ! キミは一体……茶々様の何なのさ!」
「いぬ?」
鵜飼先輩の啖呵に、お姉さんはそう呟いて小首を傾げました。
にらみ合う飼い犬と謎の女。そこに御主人様が待ったをかけます。
「鵜飼、下がれ」
「でも茶々様――」
「下がれ」
「は……はい……」
鵜飼先輩は文字通り叱られた飼い犬のようにシュンとしてお姉さんの前から退きました。
部長は青白い顔で、淡々と話し始めます。
「サラとは家が近所でな、生まれた時からずっと一緒だった。幼稚園、小学校、中学校まで同じクラス。一緒に野球を始め、同じチームで共に戦った。互いのことは何でも知っているし、何を考えているかも分かっている。無二の親友で、得難い戦友で、一番のパートナー……」
頬が引き攣って、声が震えて……こんな部長、見たことありませんでした。
「そして高校でチームが別れてからは、越えるべき最も高い壁であり最強の好敵手。それが我とサラ――この雁野沙良々との関係だ」
「雁野沙良々……お姉さんが……!」
ただ者ではないと思ってましたが、まさかこの人が女子高校野球界最強打者で、しかも部長の幼馴染――っていうか当然のようにキスなんかしちゃう関係で……え、ちょっと待ってください。ということはつまり、部長は……そんな大切な人に――
「そんな……ボク知らなかった……」
脇に退かされた鵜飼先輩が愕然として呟きました。部長は、今度は自分から雁野さんに一歩近づき、右手を伸ばします。左頬にそっと触れると、雁野さんは嬉しそうに両手を添えます。
「大好きな茶々ちゃんの手。ピッチャーの手だ」
投げかけられる温かい言葉に対し、部長の顔は生気を失い、色濃い恐怖が浮かんでいます。やがて意を決したように、部長は空いた左手を伸ばします――雁野さんの眼帯へと。
「チャチャ! それを確認してしまったらアナタは……ッ」
今までになく焦ったエリス先輩の声も、部長の耳にはもう届いていませんでした。
枯れ枝のように覚束なく震える彼女の左手は中指の先で恐る恐る眼帯に触れ、雁野さんが拒絶しないのを確認すると、彼女の顔から眼帯をそっと外しました。
両目を閉じたままの雁野さん。まるで傷一つない美術品のような優美さ。時が止まったかのようなその瞬間は、その両目がゆっくりと開かれることで急速に動き出しました。
右目は黄金の光輝を放つ琥珀色の瞳。
そして眼帯に覆われていた左の瞳は――薄雲がかかったかのように鈍く輝く銀灰色。
「――っ……! サ……ラ……」
「ごめんね、茶々ちゃん。こっちの眼、もう茶々ちゃんの顔が見えないの」
「~~~ッ……!」
部長は声にならない叫びをあげ、力なく一歩後ずさりました。額は冷や汗で光り、ダッシュを繰り返した後のように息を不規則に荒げています。
「――もういい加減にしてよ!!」
鵜飼先輩が涙を流しながら怒鳴り声を上げました。
「もう帰ってよ! そんなに茶々様を痛めつけて楽しいの!? こんな、傷をほじくり返すようなこと……茶々様はあの日からずっと苦しんでたんだ! まだ足りないっていうの!? それとも、そこまでして茶々様を潰して……試合に勝ちたい!?」
雁野さんに詰め寄ろうとする鵜飼先輩を、エリス先輩が後ろから必死に止めます。
「ミマ! 落ち着いて! ……しかし、ワタシも同感デス。こんなやり方……チャチャがアナタと顔を合わせればこうなることは予測できたはずデス。それなのに大会中のこのTimingで……改めて謝罪が欲しいならそう言ってくだサイ」
二人からの糾弾に、しかし雁野さんは表情を変えることなく首を傾げただけ。
「謝罪? なんで? 茶々ちゃんは悪くない。あれは運が悪かっただけ」
「じゃあなんで……!」
「やめろ鵜飼。そいつに常識的な感性を求めるな」
「茶々様……」
部長は絞り出すように話します。
「そいつには悪意など皆無だし、本音しか口にしない。『ただ会いたくなったから会いに来た』……そういうことなんだろう、サラ」
「うん」
雁野さんはコクリと頷きました。
「決勝で当たる前に、茶々ちゃんと直接会って、野球したかったから」
「――ははっ、そうか。構わん。野球をしよう……一年振りに」
■□ □■
部長はグラブを嵌めてマウンドへ登りました。蓬ちゃんだけが守備につき、他のメンバーはベンチから見守っています。棗田さんは少し離れたところでスマホを弄っています。
「久しぶり」
「へっ? はひっ!」
いきなり声をかけられ、振り返ると目の前に眼を開いた雁野さんがいました。
「バッティングセンター以来ね」
「お、覚えててくれたんですか……? あのあのっ、私、雁野さんのおかげで――」
「バット、貸してくれる?」
「えっ……あ、はい」
慌てて金属バットを手渡そうとしましたが、その手を雁野さんに捕まれました。
「な、なんですか……?」
「いい手。ちゃんとバッターの手」
雁野さんはマメがたくさんできて硬くなった私の手のひらをすりすりと撫でてきます。
「あ……あれからいっぱいバット振ったので……」
「決勝でも、いっぱいいい音聴かせてね」
会話を一方的に打ち切った雁野さんは、バットを受け取り踵を返して打席へ向かいました。
「バッターの手って……雁野さん」
雁野さんに褒められた手のひら――でもそれに触れた雁野さんの手のひらは鱗のように硬く、最早マメが出来るとかそういう領域ではないのでしょう。
ベンチの面々は無言でグラウンドを見つめています。不安を募らせてはいるのでしょうが、雁野沙良々の打席を生で観られる貴重な機会です。決勝での対決に向けてみんな複雑な思いで事の行く末を見守っています。そんな中で、未だ感情を露わにしているのは鵜飼先輩でした。
「エリス! 本当に茶々様をあいつと対戦させていいの!?」
「ああなったチャチャは誰の聞く耳も持たないって知ってるデショウ? それにきっと――」
エリス先輩は唇を噛み、悔しそうに顔を歪めました。
「――きっと、もう手遅れデス」
雁野さんはルーティーンも何もなく、ドレス姿のままで右打席に入りました。力感無く脚を肩幅に開き、ピッチャーと正対する程に極端なオープンスタンス。バットは刀を構えるみたいに体の正面でゆったり持つだけ。服装も相まって、まるで野球を知らない人がバットだけ渡されて突っ立ているみたいな……。
「あんなんでホントに打てるの?」
ノノちゃんが呟くと、エリス先輩が少し考えて言いました。
「……一年前と構えが変わってマス。神主打法なのは昔からデスけど、あんなに開いたOpen Stanceでは無かったはず……そっか、目が――」
「え、なになに、どういうこと?」
「彼女は左目を失明していマスから、普通に構えていてはBallが――特に背中側から曲がってくる変化球は死角になって見えづらくなりマス。ならばいっそ身体ごと正面を向いて右目でしっかり見てやろう、という目的なのではないかと」
「ふーん……なるほど」
多分理解してないけど頷くノノちゃん。続いて口を開いたのは美鶴ちゃんと彰子さん。
「理論は分かりましたけど、そもそも片目しか見えないのに打撃なんて可能なんですか? 遠近感がまったく掴めなくなるのに……」
「守備だって同じです。捕球するのも送球するのも片目では……」
確かに、片目でプレーするのは技術的に難しいでしょう。でも、それ以前に――
「――怖くないんでしょうか……デッドボールで失明したのに、また打席に立つなんて……」
私達の疑問を黙って聞いていたエリス先輩は、視線をグラウンドに向けたまま答えます。
「普通なら無理デショウ。しかし彼女ほどの選手が、一年ものBlankを経ながらもこうして復帰して、琥珀ヶ丘高校のベンチメンバーにまで返り咲いた……それはつまり、そういうことなんでショウ。残念なのは、その打撃が今日は見られないということデス」
「……どういうことですか?」
私の問いに、先輩は答えてくれませんでした。
グラウンドではついに部長と雁野さんの対決の火蓋が切られようとしていました。相変わらず不思議な構えで待つ雁野さんに、部長が第一球を投げ込みます。ボールは大きく外角へ逸れ、蓬ちゃんには捕球できず球はバックネットへ転々。
「やっぱり……」
「茶々様ぁ……!」
その一球だけ見て、エリス先輩は肩を落として手で顔を覆い、鵜飼先輩は悲痛な声を漏らしその場にへたり込みました。
「な、何がやっぱりなんですか……? 確かに部長がコントロールミスするのは珍しいですけど、あんなことがあったんですから初球はこんなことだって――」
「いえ、もうチャチャはまともなBallを投げられマセン」
「え……?」
そんなエリス先輩の言葉通り二球目も外角へ逸れ、しかもベースの遥か前でバウンド。
「一年前、あの死球の後、チャチャはまともな投球が出来なくなりマシタ。彼女の乱調で負けてしまったことは知っているんデスヨネ?」
「はい……連続四球からの暴投で……」
三球目、大きく高く外れてボール。
「あの試合だけじゃ済まなかったんデスヨ。武器である正確無比のControlは鳴りを潜め、Strikeすら投げられない……何か月もその状態が続き、苦しんで苦しんで苦しんで、やっと今年になってから改善してきて、元の茶々が戻ってきたところだったのに――」
四球目、雁野さんの背中側を通過。フォアボール。
「――また、チャチャは壊れてしまいマシタ」
マウンド上に立ち尽くす部長。エースナンバーを背負ったその背は今までになく小さく、影が差してその表情は窺い知れず、頼りなく震える右手を見下ろしているだけ。チームの支柱としてマウンドに君臨し試合を支配していたエースの姿は、もうそこにはありませんでした。
雁野さんは大きく開いた両目で彼女を見つめた後、バットを下ろして打席を出ます。
「棗田、帰るよ」
「もうええんですか?」
「うん」
雁野さんはさっさと私にバットを返して、もう一度マウンドへ向き直ります。
「茶々ちゃん、また明後日。今度はもっといっぱい野球しようね」
変わらないトーンで一方的に言い放ち、回れ右してスタスタとグラウンドを後にしました。
「金剛女子の皆さん、今日は本当にお邪魔したねぇ」
棗田さんがペコリと頭を下げました。
「ほいじゃ、お互い決勝で会おうねぇ♪」
アイドルらしい愛嬌たっぷりの笑顔で手を振り、彼女も雁野さんの後を追っていきました。
「……茶々様っ!」
鵜飼先輩がベンチを飛び出していったのを皮切りに、他のみんなもマウンドへ駆けつけます。
「チャチャ……」
部長はマウンド上で立ち尽くしたまま、うわ言みたいに何かを呟き続けていました。
「わたしは……わたしは……」
「茶々様!」
「っ……鵜飼……皆……」
部長は私達を見回し、何か言葉を探しているようでした。いつものように尊大で、堂々とした言葉を。しかし彼女の視線は力なく地を彷徨い、口は噤まれました。私達だって同じです。部長が猛々しい仮面の下でどんな想いを抱え、どんな覚悟でチームを背負ってきたのか――それを知ってしまった今、目の前で震えているか弱い少女にかける言葉が何も見つかりません。
「――明日のことを、考えマショウ」
副部長としての責任感か、エリス先輩が言葉を絞り出しました。
「琥珀ヶ丘との決勝も、明日の瑠璃沢戦を乗り越えた先デス。まずは目の前に迫った戦いに集中しマショウ。チャチャ、アナタの心中は察するに余りありマスが、きっと……きっと大丈夫デス! これは一時的なもので、きっと明日は――」
「本当にそう思ってるんですか?」
冷たい、冷たい声でした。
「み、みなもちゃん……?」
「明日部長に投げさせる? 本気で? 勝つ気あるんですか?」
ずーっと黙って、ただ事の成り行きを見ていたみなもちゃんが、私達を押しのけて部長の前に立ちました。
「見てわかるでしょ。この人――部長はもうピッチャーとして死んでますよ」
マズいです。これは良くない時のみなもちゃんです。完全に理性がブチ切れてます。野球に対する冷徹なまでの理想とエゴイズムが暴走しています。こうなったみなもちゃんはもう止められません。
「ミナモ……何を――」
「すごいピッチャーだと思った。まだ勝てないと思った。さすが三年生。今は部長がエースで我慢してもいいと思ってた。それが……なんですかこれ。無様にも程があるんじゃないですか?」
「やめてよ」
呆れ果てたという態度を隠そうともしないみなもちゃんに、鵜飼先輩が詰め寄ります。
「ただでさえ今のボクは最低の気分なんだ。それ以上言ったらチームメイトでも許さない」
「最低の気分なのはお互い様ですよ」
みなもちゃんは止まりません。
「友達にデッドボール当てたのがトラウマになった? ピッチング舐めてんですか?」
「玉響さんに何が分かるのさ! 茶々様はずっと辛い想いを――」
「それで負けたら意味ないでしょ。エースだっていうなら、チームの柱だっていうならさ、友達殺してでもチームを勝たせてよ。それが出来ないなら、その背番号今すぐちょーだい」
「なんっ……てことをキミはぁ……ッ!」
鵜飼先輩はボロボロと泣きながらみなもちゃんに掴みかかりました。慌ててエリス先輩と私で止めに入ります。揉み合う私達を、みなもちゃんは冷たい瞳で見ていました。
「このチームのエースは茶々様だ! キミなんかが……そんな……軽々しく……ッ!」
「やめろ、鵜飼」
「茶々様……?」
鵜飼先輩は身を震わせながらも暴れるのをやめ、困惑して彼女を止めた部長へ振り返ります。部長は項垂れ、覇気のまったくない声でポツポツと続けます。
「目が、覚めた。そうだ、我の役目は、チームを勝たせることだ。だから、勝つために決めた。もう、我は投げない。我が投げていては、チームは、勝てない」
「そんな……茶々様……」
「玉響」
「……はい」
部長の呼びかけに、みなもちゃんは真っ直ぐ彼女の視線を受け止めます。
「ありがとう」
「……っ! なんで、お礼なんか――」
「貴様の発言は、チームを想っての言葉だ。他の者が我に遠慮して言わなかった勝つための本音だ。我も……貴様の諫言に賛同する。大会中に登録した背番号は変えられないから、そこだけは呑んでもらうが……明日から先発は貴様だ」
「納得いきません茶々様! こんなの、あまりにも茶々様が救われない……!」
「我を救うものがあるとすればそれは一つ――勝利だけだ」
「ご主人様が自分を傷つけてるのを黙って見てられる犬なんていない!」
言葉とは裏腹に、部長は明らかに無理をしています。鵜飼先輩もそれを分かっているので引けません。音を立ててチームのまとまりが崩れていきます。それを一番見過ごせなかったのは、チームの親睦を最も重んじる彼女でした。
「みなも、あなたが一歩引きなさい」
ノノちゃんがみなもちゃんの肩を引き寄せ、小声で諭し始めました。
「部長がああして折れてくれたのよ? あとはみなもが折れればこの場は収まるわ」
「……でも私は間違ったこと言ってないもん」
「別にみなもが間違ってるとは言ってない。でも言い方ってもんがあるでしょ。今のは最悪。そこは謝るべきよ。それに部長は意見を認めてくれた。もうこれ以上突っ張る意味は無いんじゃないの? 分かってるんでしょ、自分でもそのくらい」
「…………」
「お願い。私とTHE☆親睦リストバンドに免じて、ここは折れて。ノノはもう、これ以上チームがぎくしゃくするのはイヤなの」
「……うん」
コクリと頷いたみなもちゃんは、部長の方へ一歩踏み出しました。
「部長、それと鵜飼先輩……その、ごめんなさい。さすがに言い過ぎました」
この謝罪に対し、部長はそっとみなもちゃんの頭を撫でることで応えました。
「うむ。この話はこれで終わりだ。今日は色々なことがありすぎた。これで解散にしよう。すぐ帰宅して明日に向けてコンディションをしっかり整えるように。部室の戸締りは我がやっておく。今から軽く自主練していくからな」
そう言って部長はさっさとグラウンドの向こうへ走っていってしまいました。きっとまたあの狂ったダッシュメニューで身体を苛めにいったのでしょう。
一方鵜飼先輩はその場に残ってみなもちゃんを睨んでいましたが、怒りを鎮めるように大きく息を吸って言いました。
「……あそこまで言ったんだから、分かってるよね、玉響さん」
「はい」
「絶対に、ボクたちを勝たせて」
「勝たせますよ。たとえ右腕が千切れても」
その言葉に一先ず頷き、鵜飼先輩は部長の後を追っていきました。
しばし痛い沈黙が流れましたが、エリス先輩が大きく息を吸って皆を促しました。
「……では、チャチャに言われた通り、皆さん今日は帰りマショウ」
「――あのっ! い、いいですか?」
躊躇いがちに声を上げたのは美鶴ちゃんでした。
「明日の為の調整が必要なのは分かっているんですが……その、きっとみんな同じ気持ちだと思うんですけど、えっと……このまま大人しくしていられない」
「ミツル……」
「練習……しませんか」
彼女の提案に、他のみんなも同調して声を上げました。もちろん私も。少しでも身体を動かさないと、もう居ても立っても居られないのです。
「……分かりマシタ。やりマショウ。思う存分。何も考えたくなくなるまで」
きっと心中は同じだったのでしょう、エリス先輩がニヒルにも見える笑みを浮かべます。
「絶対に勝ちマショウ。明日も、明後日も」
私達はグラウンドへ駆けだしていきました。
吐いた唾は呑めません。もう私達には勝利しか許されません。
■□ □■
下校時刻も迫る頃、部室にはエリスとみまだけが残っていた。
「――ゴメンナサイ」
二人は既に着替えを終えた制服姿。エリスは椅子に腰かけて項垂れている。
「本来は副Captainであるワタシがあの場を収めるべきだったのに……」
「いいよ。エリスだって、もう茶々様は投げられないって思ってるんでしょ?」
「そんなこと――」
「一年生のみんなもそう思ってる。そして、それが間違ってないってボクも分かってる」
「……事実、チャチャは立ち直るのに半年かかりマシタ。明日投げられるようになっているという奇跡に賭けるのは危険すぎマスし、万が一うまくいっても明後日にはまた彼女と――」
「うん。正しい采配だよ。ボクが監督だったら同じ選択をする。でもボクは監督じゃなくて茶々様の犬なんだ。だから間違っていたって、どこに向かっていたって、誰を見ていたって、ボクだけは大好きなご主人様の味方でいなくちゃいけないんだ。そうしたいんだ」
みまは部室の奥、シャワー室へと繋がる扉の前に立っていた。扉の向こうからはシャワーの水音が響き、扉の前のロッカーには背番号1のユニフォームが綺麗に畳んで置かれている。
「なんで茶々様ばっかりこんな辛い目に遭うんだろう。茶々様の苦痛も重荷も、ボクが代わってあげられたらどんなにいいか……」
「……それでもきっと、チャチャは自分で全部背負い込もうとするデショウ」
「分かってるよ。茶々様はとっても優しいから……でも、大切な人が悲しんでるって苦痛は、ボクでも全然気持ちよくないんだよ」
みまは背番号1をそっと撫で、踵を返して自分の鞄を持った。
「さ、帰ろう。明日の為に早く寝ないと」
「チャチャはいいんデスカ?」
「うん……きっと今の自分を誰にも見せたくないだろうから」
二人は連れ立って部室を出ていった。
静かになった部室には、シャワーの水音に混じってかすかに泣き声が響く。部員たちの前では必死に仮面で覆い隠した感情。爆発してしまえば、もう止まらない。今にも押しつぶされてしまいそうな傷だらけの少女の嗚咽は、夜の帳が下りても続いた。
■□ □■
『――さあ金剛女子学院対瑠璃沢高校、最終回、七回裏。12-0で金剛女子の大量リード。金剛女子先発の一年生玉響はここまでなんと十一個の四死球を出しながらも粘りの投球で瑠璃沢打線を無失点に抑えています。いや無失点どころか、なんとなんとこの七回裏ツーアウトまで、一本のヒットも許していないという素晴らしい快投。まさに鬼気迫るといった雰囲気。恐ろしい投手が現れましたこの関東大会準決勝第二試合。さあフルカウントと追い込んで第六球を……投げました! インハイストレート空振りー! 瑠璃沢五番安藤空振り三振! 金剛女子の一年生玉響がノーヒットノーラン達成! マウンド上で吼えた玉響! 二十一個のアウトのうち、実に十七個を三振で奪う圧巻のピッチング! まさに小さな怪物! 負けたら終わりのトーナメント戦でとんでもないことをやってのけました! 打線も三番ランスフォードを中心に打ちに打ったり十二打点! 何か執念のようなものを感じる怒涛の攻撃でした。これで明日の決勝、絶対王者・琥珀ヶ丘に挑戦するのは金剛女子学院に決定です――』