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【5】Fissured Diamond その1

 一体何が起こったの?

『大丈夫かっ!? ああ……これは――』

『駄目だ……担架! 早く! あと救急車も! 急げ!』

『うわぁ……目が――』

『聞こえる!? 返事してよ! ねぇ!』

『こら! 動かさないの! 頭固定して!』

 わたしは最高のライバルと、最高の勝負の真っ最中だったのに。とっても、とっても楽しかったのに。嬉しかったのに。

 この光景は一体何?

 どうしてあなたは血を流して倒れたまま、起き上がろうともしないの?

 わたしは……何をしてしまったの……?

『救急車来ました!』

『グラウンドに直接入ってくるように言ってくれ!』

 モノクロに染まっていく世界で、慎重にストレッチャーに載せられ、救急隊員にベルトで体を固定されているあなた。

 いつものように無表情で、わたしのことをじっと見つめる右の瞳。

 白黒の景色の中、唯一光輝を失わない黄金色の瞳。

 やめて……そんな眼で見ないでよ……わたしは、わたしは――

「やめろッ!」

「ッ……!」

 おにぃちゃんの叫び声で気が付いた時、布団で寝ていたはずのわたしは文机の前に立ち、両手で握ったカッターを自分の左目に向けて今まさに突き立てようとしていた。

「ヒッ……!」

 恐怖に駆られてカッターを投げ捨てる。全身からドッと汗が噴き出しその場にへたり込むわたしを、おにぃちゃんが抱き留めてくれた。

「大丈夫かよ……震えてるぞ。顔も真っ青だし……」

「だ……大丈夫、だよ……ちょっと、こ、怖い夢を、見ただけ、だから……あ、朝ごはん作らなきゃ……」

「無理すんな。もうちょっとゆっくりしてても――」

「ううん……おにぃちゃんの朝ごはん作るのがわたしの毎朝のルーティーンなんだから。特に今日は大会初日だし、とびっきり美味しいごはんを食べてもらわないと。とりあえずシャワー浴びてくるね!」

 おにぃちゃんの静止を振り切り、わたしは部屋を飛び出して洗面所へ駆け込む。汗でぐしょぐしょの服を全て脱ぎ捨てて風呂場でシャワーに当たった。しばらく無心で滝行のようにお湯に打たれて風呂場を出ると、全身を拭いて髪を乾かし、全裸のまま鏡の前に立つ。硬い髪質の長い黒髪をツインテールに結びながら、鏡の中のわたしに語りかける。

「前だけを見続けろ。何があっても立ち続けろ。胸を張って進み続けろ。貴様はエース。貴様はキャプテン。貴様こそが柱。貴様は強い。誰よりも強い。勝て、勝て、勝て、勝て、勝て――我こそは藤原茶々。我は強い。誰よりも強い」

 ひび割れた外壁を幾重にも幾重にも塗り固め、いつの間にか震えは止まっていた。

「――我らこそが、勝者だ」

 鏡の中に、強くて頼れるエースでキャプテンの藤原茶々が現れた。


■□   □■


「ふぁ~……第一試合なのにすごいお客さん……」

 ノノちゃんがベンチから外を覗いて呆れたように言いました。

「今日って平日よね? 吹奏楽部とチアリーディング部は分かるけど、一般の観客もこんなに――そんなにみんなこのノノのデビュー戦が見たかったのね。いや~悪いわね~」

「んなわけあるか」

 不敵に笑うノノちゃんに、蓬ちゃんがプロテクターを付けながらピシャリと言います。

「ほとんどはエリス先輩の応援団よ。見なさいあの横断幕。みんな先輩のファンクラブの人達」

 彼女の指さす方向、エリス先輩へのエールや愛を謳った横断幕が何枚も広げられています。彼女たちはほぼ皆エリス先輩公認公式ファンクラブ会員です。校内は勿論、他の学校にも会員の輪は広がり、今や一大勢力を形作っています。吹奏楽部にも会員はいるので、エリス先輩専用応援テーマまで存在します。定期的に先輩を囲んだお茶会が開かれたり、こうして授業をサボって平日の試合の応援団を務めるローテーションを決めたりしているのです。

 ――というようなことをノノちゃんに解説すると、彼女は引き気味に頷きました。

「へ、へー……まあエリス先輩なら納得ね。で、しほりはなんでそんなに詳しいの?」

「え? ああうん……私も入ってたんだけど、除名処分になっちゃって……」

「除名処分!? なんでまた?」

「エリス先輩との距離が近すぎるってやっかまれて……女の子の嫉妬って怖いよ……」

「だ、大丈夫なの……? いじめられたりとかしてない?」

「あ、うん大丈夫。一度夜道で襲撃喰らったけど全員返り討ちにしたら何も無くなったから」

「そう……さすがね……」

「ふっ、甘いですねしほりさん」

 何やら怪し気に微笑む彰子さんが現れました。

「エリス先輩の校内人気一強の時代はもう終わっているのですよ」

「彰子さん? いったい何を……?」

 彰子さんは私の言葉に答えず、手に持ったスマホに「ではお願いします」と告げます。その瞬間、観客席の一角がにわかに騒がしくなりました。

「あ……あれは……!」

 なんということでしょう。金剛女子応援席の大部分を占めていたエリス先輩応援団の一部が横断幕を下ろし、別な文言の横断幕を掲げ始めています。それは全て、美鶴ちゃんを応援する内容でした。

「うふふっ♪ 今こそ革命の時、ですね」

「彰子さん、これはどういうこと!?」

「見ての通りですよ、しほりさん。彼女たちは崇拝する女神を替えた――伊藤我美鶴ファンクラブ会員となったのですよ!」

「なん……ですって……!?」

 確かに最近、校内で美鶴ちゃんの人気が高まっている空気は感じていました。そりゃあんなイケメン女子ですから当然です。しかしいつの間にこれ程の――大正義エリスファンクラブを脅かすほどの勢力になっていたとは……! この寝耳に水のクーデター劇に、観客席のエリスファンクラブ会員達も騒ぎ始め、ところどころから怒声も聞こえ始めています。

「眉目秀麗質実剛健……美鶴様の魅力は日々増していく一方の天井知らず。下駄箱は毎朝ラヴレターの洪水と化し、休み時間に押し寄せる愛の告白希望生徒の数は待機列整理スタッフをお雇いするレベル。食べきれない差し入れの手作りお菓子を難民キャンプにお送りしたら飢餓に苦しむ子供たちが数千人も救われたとか……。このような美鶴様のお気持ちが休まらない無秩序状態にルールを定める為に結成されたのが伊藤我美鶴ファンクラブなのです!」

「そ、そうなんだ……」

「一般会員は美鶴様への接近・会話・贈り物などは原則禁止。希望する場合は運営が発行するチケットを購入していただき、さらに必ずマネージャーが同席して検閲を行います。ルールを破る会員、及び会員以外で美鶴様に邪な目的で近づく者は、会長直属の隠密部隊『ゆりかご』によって終了されます」

「へー……」

 芸能マフィアですか?

「で……でもちゃんと美鶴ちゃんを守るための組織なんだね。てっきり彰子さんは美鶴ちゃんを自分だけで独占したいんだと……」

「ちなみに会長・人事・経理・企画・運営・マネージャーは発起人であるわたくし、鳴楽園彰子が務めさせていただいております」

「超絶剛腕独裁政権!」

 どっかの国もびっくりです。

「そ、そこまですることはないんじゃない……?」

「うふふっ、本当に甘いですねしほりさん。全ては美鶴様へのわたくしの愛故に……」

 彰子さんは頬を染め、恍惚と蕩けた瞳でファンクラブ会員達を眺めます。

「あんなにも大勢の方が想いを寄せる罪なお方……そんな美鶴様を独り占めできるこの快感。ああっ……! 彰子はなんてイケナイ女なのでしょう……っ!」

「なんて……なんてことをあなたは――」

 自分の恋路の邪魔になりかねない芽をファンクラブの会則で縛り直接支配。さらにそれを自らの欲望の糧とする上にお金まで儲けられる一石三鳥。これがトップに立つ才能だというのでしょうか。恐ろしい……恐ろしい女ですよこいつぁ……。

「……いや彰子、私の知らないところで勝手に何をやってるんだい」

「全員野球部を応援してくれるFanの皆さんなんデスから無用な諍いを生まないでくだサイ」

 一方美鶴ちゃんとエリス先輩は遠巻きにノータッチ。宗教戦争を始めるのは、いつの時代も神ではなく思い上がった人間なのですね。


■□   □■


 閑話休題、そろそろメインストリームの試合の方に戻ります。

 大事な大事な初戦の相手は聖フローライト女学院。歴史ある学校ですが野球部は比較的最近の創立で、強豪というわけではないそうです。

 試合前のミーティングで部長は厳かに言いました。

「余力のある強豪ならば初戦は温存に走るところだが、我らにそんな余地はない。スタメンは事前に決めたそのままでいく」

 一番センター、紋白ノノ。二番キャッチャー、鹿菅井蓬。三番ショート、エリス・ランスフォード。四番サード、伊藤我美鶴。五番ピッチャー、藤原茶々。六番ライト、倉しほり。七番セカンド、鳴楽園彰子。八番レフト、夕霧中。九番ファースト、鵜飼みま。

 以上が今日のラインナップ。とにかく上位打線に打てる人を固めて点を取る算段です。みなもちゃんはベンチで待機。ランナーコーチはその時に手が空いてて出来る人がやる感じです。

「各々自らの役割は分かっているな。出来ないことはやらんでいい。これまでの練習で叩き込んできたことが全て出せれば頂点が奪取()れると我は確信している。不安に襲われたらマウンド上の我を見ろ。我がそこに立つ限り、この軍団(チーム)は常に堅牢堅固堅強よ」

 そして全員の表情を睥睨してニヤリと笑いました。

「さあ出征()くぞ貴様ら……我らの実力、この初戦からぶちかませ……! 狂い暴れようぞッ!」


■□   □■


 キィン! ボゴッ!

「んああうっ!」

 キィン! ドゴッ!

「はぁっふぅ!」

 キィン! ゴスッ!

「おほぉおっ!」

 ここは球場のはずなのに、特殊なお店みたいな声が響いています。

「……く、倉さん。野球って……もしかしてエッチなスポーツだったりするの?」

 ベンチであわあわしているリンゴ先生に、私は苦笑いで返します。

「大丈夫ですよ先生。あの人がそういう人なだけなので……」

 というかむしろエッチなスポーツって何ですか? ツイスターゲームとかですか?

 現在二回表、1-0でリードしている金剛女子の攻撃。この回先頭の夕霧先輩が凡退し、一死走者なしで九番の鵜飼先輩が右打席に立っています。

「あれはストライクかボールか微妙なクサい球をとにかくファールで粘ってフォアボールをもぎ取ろうとしてるんです。鵜飼先輩の得意技なんですよ」

「で、でもファールって……」

 キィン! バキッ!

「ひぎゅぅうっ!」

「あれ全部体に当たってるけど大丈夫なの……?」

「大丈夫です。自打球も立派なファールなので」

 うーん、私達には見慣れた光景でも、初めて見た人は驚きますよね。

 鵜飼先輩がドのつくマゾで、それが守備に役立っているのは以前言った通りなのですが、打席ではなんとカットした打球が全部自打球になるという驚きの……というか呪いみたいな能力となって現れるのです。変態も突き詰めればここまでの技術を生むということでしょう。技術大国のこの国が同時にHENTAI大国でもある所以ですね。

 一〇球ほど粘り、鵜飼先輩は見事に四球をもぎ取りました。

「あひ……あひ……」

 彼女が小刻みに痙攣しながら一塁へ歩くと、ウグイス嬢のアナウンスが響きます。

『一番、センター、紋白さん』

「っしゃあ! いくわよ!」

 球場の変な空気を振り払うように気合いを入れて素振りをしてから右打席に入ります。初回の第一打席、いきなりレフト後方にスリーベースヒットを放っているノノちゃん。続く蓬ちゃんのセカンドゴロであっさり取った先制点の立役者の登場に金剛女子応援団も沸き上がります。

 相手投手は一塁ランナーをチラリと見て、フーフー深呼吸して必死に快感を噛み殺している鵜飼先輩の姿に盗塁は無いと判断したようで(大正解です)、余裕を持って投げ込んできます。

 右投げで速球を主体に、カーブを交えてくるみなもちゃんに近いピッチングスタイル。しかし身長以外でみなもちゃんを上回っている点は見受けられません。

 つまり、金剛女子打線の恰好のカモです。

「ぅりゃっ!」

 ストレートにしっかり合わせて振り抜いたバットは完璧にボールを捉え、打球はピッチャーの脇を抜けてセンター前に転がります。ノノちゃんは悠々と一塁へ。鵜飼先輩も未だ息は荒いですがなんとか二塁へ到達。この回も得点圏のチャンスです。

『二番、キャッチャー、鹿菅井さん』

 先ほどはきっちり内野ゴロでランナーを還した蓬ちゃんが右打席へ入り、すぐにバントの構えを取ります。二番に入った彼女は本当に状況に応じて何でもできる選手で、男子よりもパワーとスピードに欠ける女子野球では尚更重要な小技を得意とするキープレーヤーです。

 ここで犠牲バントが決まればランナー二・三塁でエリス先輩へ回ります。まあその場合は十中八九満塁策で歩かされるでしょうが……。

 バントシフトでじりじりと前に詰めてくる聖フローライトの内野陣。蓬ちゃんは三球目まで見送り、2ボール1ストライクとなってからの四球目。ピッチャーがボールを投げた瞬間にバットを引いてヒッティングの構え――バスターです。高めの速球を叩きつけるように打つと、ボールは前に出ていたファーストの脇を抜けライト前へ。女子野球では右翼手は積極的にライトゴロを狙う為にかなり前進して守る場合が多いですが、蓬ちゃんは全力疾走で一塁セーフ。一死満塁となりました。

 にわかに球場の雰囲気が色めき立ちます。その視線はゆっくりと打席に向かう背番号6に注がれています。金色に輝く『鬼』が、これ以上ない好機に推参です。

『三番、ショート、ランスフォードさん』

「キャアアアアアアアアアっ!」

 大音量で響く観客席からの黄色い声援。専用個人応援曲を奏でる吹奏楽部。しかしエリス先輩は一切表情を変えず、猛禽のような双眸で左打席に立ちます。初回は走者無しにもかかわらず、半ば勝負を避けられたかのような四球でした。しかし今は満塁。相手バッテリーは否が応でも金剛女子最強打者と勝負せねばならない場面。

 エースと話していたキャッチャーがマウンドから戻り、エリス先輩をチラリと見上げてからサイン交換。ピッチャーは頷き、ボールを投げ込んでいきます。初球カーブを見送りボール。二球目高めストレートも見送りストライク。三球目も高めストレートですがカットしてファール。四球目のストレートは高く外れてボール。そして五球目、バッテリーが鬼を殺す決め球に選んだのはゾーンから落ちるカーブ。

 しかし『金色夜叉』は、これを一刀のもとに斬り伏せます。

 緩い球を腰を落としてしっかり待ち、落ちていくボールを万全のスイングで華麗に流し打ち。打球が左中間を破って転々としている間にランナーが全員生還し三点追加。走者一掃タイムリーツーベースとなりました。

 塁上に立ち、やっと破顔してベンチにガッツポーズを見せる先輩に、私含めた部員と応援団が大歓声。これで4-0とリードが広がりましたが、それ以上に効果的な打席内容でした。相手エースがエリス先輩を打ち取る為に渾身の力を込めたであろう決め球をあえて完璧に打ち返すことで、聖フローライトの選手達の心を折りにいくバッティング。その効果は抜群で、試合は一気に金剛女子の流れになっていきます。

 次の四番・美鶴ちゃんはサードゴロに倒れますが、三塁手の一塁への送球の間にエリス先輩はサードへ進塁。さらにまだ落ち着かない聖フローライト守備陣の隙をついて五番の部長がスクイズ。相手投手がボールを拾って捕手へトスしますがエリス先輩がホームに突っ込む方が早く一点追加で5-0。

 二死一塁。このイケイケムードの中、次の打者の名がコールされます。

『六番、ライト、倉さん』

 そうです、私の出番ですよ。

 五月の練習試合ラッシュの時から鍛え直した身体は一回り大きくなりました。昨日、バッセンでエリス先輩との緊急特訓の末に理想のスイングも体に染み込ませました。第一打席は三振でしたが、毎日みなもちゃんの球を見てきた私には相手投手の球はしっかり見えていました。さらにこの大量リード。リラックスして自分の失敗を恐れずにバットを振れます。

 つまり、ここで打てずにいつ打つのかという絶好の場面なのです!

 見ていてくださいエリス先輩、私は今ここで殻を破ります!

 ブンッ! ブンッ! ブンッ!

「ストライクスリー!」

 ………………さ、気合い入れて守備頑張りましょう。


■□   □■


 両チームの力量差は歴然だった。金剛女子は最終回まで手を抜かず七回表に一点を追加し、スコアを9-0として最終イニングへ入った。投げてはエースの茶々が圧倒。正確無比なコントロールの変化球で内野ゴロの山を築き、聖フローライト打線に三塁を踏ませていない。この七回裏も、出番をよこせとグズるみなもをベンチに温存したままマウンドへ上がった。当然このまま完封勝ちで目指す優勝へ弾みをつけたい。覇気も体力も十分。一矢報いんとガムシャラに向かってくる聖フローライト打線は一番から始まる好打順だが――

(まあ問題ないでしょ。今まで通りのことをしてれば大丈夫)

 マスクを被る蓬は冷静にそう判断。相手の一番打者が左打席に入ると茶々にサインを送る。茶々は基本的に蓬のサインに首を振らない。今回も一発で頷き、モーションに入る。グラブを胸に置いたセットポジションからスッと左足を上げ、体重を前に移動させながら背筋を伸ばしたまま腰を曲げ、マウンドの上で低く沈み込む。背後から腕が地面と平行に体の真横から現れるサイドスロー。流麗なフォームから放たれた白球は浮き上がるように蓬のミットに収まり、硬球とミットが衝突する「パーンッ!」という小気味良い破裂音がグラウンドに響いた。初球は左打者のインハイに食い込むクロスファイアのストレート。ゾーンをギリギリ掠めるストライク。打者は全く動けない。

 第二球。膝元へ食い込むスライダー。打者はなんとかバットに当てるもののファール。あっという間に2ストライクと追い込んだ。

 そして第三球。蓬はミットを外角低めに構える。茶々の投じたボールは打者から見て外側からゾーンの低めへ浮き上がりながら入ってくる。敗戦濃厚と言えども最後の逆転に望みを託すため、先頭として絶対に出塁が欲しい。三振は論外。なんとしてもこのボールを打ち返さなければ話にならない。打者はスイングを開始する。

(――っ!?)

 その瞬間、ボールはバットから逃げるように外角へスッと沈んでいく。

 藤原茶々の宝刀――シンカー。

「ぬううっ……!」

 それでも最後の意地でバットを伸ばす。姿勢を崩し、右手一本になりながらも辛うじてボールに当てた。しかし打球に勢いはなく、サードの正面へ転がっていく。

「クソッ!」

 そう吐き捨てながら一塁へ全力疾走する打者。

 一方サードの美鶴はかなり余裕をもって打球へ走り込んだ。聖フローライトの一番はそこそこ俊足だが、自らの肩ならば十分刺せるとの判断だった。

「よっ」

 転がってくる白球をグラブで掬い上げた――が、勢い余ってボールが零れ落ちた。

「うぁっ、っとっと……!」

 慌てて拾ったが、既に打者が一塁を駆け抜けていた。記録はサードのエラー。

 さらに次の二番打者でも――

「あ、あー……あああ――」

 完全に打ち取った当たり。普通であれば平凡なライトフライ。だが右翼手のしほりは目測を誤り、正面を向いたままよたよたと後ずさった挙句、打球はその頭を越えてポトリと落ちた。センターのノノがカバーに走り込んでいてすぐにボールを拾い内野に返したがランナーは進み、無死ランナー二・三塁の大ピンチとなってしまった。

 スコア上は圧倒しているが、何があるのか分からないのが野球。このまま完全に相手のペースになってしまっては万が一がありうる。その空気を感じ取り、内野陣がマウンドに集まった。

「本当にすみません……私のミスから――」

「肩を落とすな。次しっかりやってくれればよい」

 頭を下げる美鶴に茶々はさらりと言った。さらに蓬が続ける。

「そうよ、まだ九点差もあるんだし。一点二点は仕方ないから、確実にアウト三つ取っていきましょ」

「いや待て。それは違うぞ鹿菅井」

 茶々は彼女の言葉を即座に否定した。

「まだ初戦だ。これだけの力量差のあるチーム相手にそんな心持でどうする。逆なのだ。九点差もあるのだぞ。こんな重圧のかからないピンチでむざむざ点をやるような覚悟で、この先さらにプレッシャーのかかる場面を乗り切れるのか? この程度、掠り傷一つ負わず悠々と制圧前進してこそ覇者となるに相応しいというもの」

 蓬はぐうの音も出なかった。茶々は彼女の頭にポンと手を置くと内野陣に告げた。

「我は皆を信用している。次の打者は歩かせるぞ。ホームゲッツーを狙っていこう」

 その言葉の通り次の三番打者は敬遠で歩かせ、無死満塁となった。

 聖フローライトの四番打者が右打席に入る。金剛女子内野陣の前進守備に、この点差ながら一点も許さない気概を感じスタンドがざわめく。

 球審のプレイがかかり、第一球。茶々はサードランナーを一睨みしてからクイックで投じる。蓬が選択したのはカーブ。サイドスローから放たれる横に滑るような変化でゾーンから外角へ逃げていく。打者は動かず見逃してボール。

 第二球、同じく外角へ大きく逃げていくスライダー。打者は再び見逃しボール。

 第三球、アウトローギリギリのストレート。打者は振っていくがファール。

 2ボール1ストライクのバッティングカウントになっての第四球――

(きたっ……!)

 速いボールを狙っていた四番にとってちょうど打ちごろの球が真ん中に入ってきた。満を持して強振する。

「っ!」

 しかしその手元でボールが内側へ鋭く食い込んだ。

(シュートか……ッ)

 カインッと響くバットの芯を外れた打撃音。その瞬間全ランナーがスタート。猛然と次の塁を目指し、サードランナーは本塁へ突っ込む。何かの巡り会わせか、打球はこのピンチのきっかけとなるエラーを犯したサードの美鶴の前へと弾んだ。

「ううううおぉッ!」

 美鶴は必死の形相でダッシュ。今度はボールをしっかりとグラブに収め、右手に持ち替えるとホームで待ち構える蓬のミット目がけ全力投球。やや球は浮いたが蓬はしっかりベースを踏んだまま捕球しすぐさまファーストへ送球。

「あふんっ!」

 みまが艶めかしい吐息と共に捕球。球審、一塁塁審ともに握った右手を高く掲げた。注文通りのホームゲッツー完遂。二死ランナー二・三塁と状況は変わった。

「良いぞ伊藤我! 良くやった!」

 茶々にそう声を掛けられ、美鶴ははにかみつつもにっこりと微笑んだ。こうなれば最早ペースは金剛女子。続く五番打者もショートゴロに打ち取り、みまの一際大きな喘ぎ声と共に3アウトで試合終了。

 夏の関東大会、金剛女子は初戦9-0の完封勝ちという最高の結果で幕を開けた。


■□   □■


 はいどうも、初戦散々だった倉しほりですよ。私は大丈夫です。ダメダメなのは慣れっこなので。プロレスラーはへこたれない。……本当ですよ? プロレスラー嘘つかない。

 そんなことよりその後の話。

 第二戦、初戦で出番の無かったみなもちゃんが鬱憤を晴らすかのような熱投を披露。四球を八個も出しながら十五奪三振で一失点完投。打線も初戦に続いて好調で七得点で勝利。

 第三戦からは部長が先発、相手打順が三巡目になるとみなもちゃんがリリーフで登板という流れを確立。打線の方も、ノノちゃんが足と意外なパンチ力で掻き回し、蓬ちゃんがあの手この手でチャンスを広げ、エリス先輩がランナーを還す。仮にエリス先輩が歩かされても、美鶴ちゃんと部長がしぶとく一点はもぎ取ってくる。そして私が三振……という流れで安定して得点を重ね、三戦四戦と順調に勝利しました。

 今日一日空いて、明日が準決勝。勝てば明後日が決勝です。

 そういうわけで今日は調整を兼ねた軽めの練習と作戦の最終確認のミーティング、及び決起集会の為に部室に集合しています。まだ一年生しかいませんけど。

「やっぱり向こうのブロックも順当に強豪が勝ち上がってるわね」

 蓬ちゃんがスルメを齧りながらタブレットで大会情報を見ています……ってスルメて。往年のドカ〇ンキャラみたいな風格です。

「ノノも見たい! 貸して!」

「ん」

「ふふふ、ソシャゲのガチャ回してやろ」

「やめろこのバカ!」

 取っ組み合いを始めた二人からタブレットがポイっと投げ出されてきたのでキャッチ。

「しほりんナイスキャッチ。ボールもそのくらい上手く捕ってくれると嬉しいね」

「ははははは」

 嫌味を言ってくるみなもちゃんを乾いた笑いでいなし、画面を見てみます。金剛女子と反対のブロックには、第一シードから各試合圧倒的な点差で勝ち上がってきている琥珀ヶ丘の文字が光っています。

「やっぱり決勝の相手は琥珀ヶ丘かなぁ」

「おお、しほりんはもう明日勝った気でいるんだね」

「べ、別にいいじゃん……」

「何一つ仕事出来てないくせにいい気なもんだね」

「な、なに突然そんな辛辣に……もしかして先発任せてもらえないのまだ拗ねてる……?」

「別に~。部長の方がエースに相応しいのは事実だし~。まあ二桁背番号は背中ゴワゴワして違和感あるけどね~。もっと画数少ない数字がいいな~。例えばゼロ取っちゃうとかさ~」

 背番号10のゼロのところをボリボリ引っ掻くみなもちゃん。これはかなり鬱憤溜まってますね。まあみなもちゃんが野球のことになると超自己中心的になるのはいつものことですけど。

 あ、ちなみに背番号は基本的に部長登板時の守備位置で決めてます。エースの部長が1、キャッチャーの蓬ちゃんが2ときて、鵜飼先輩が3、彰子さんが4、美鶴ちゃんが5、エリス先輩が6、夕霧先輩が7、ノノちゃんが8、そして私が9を背負っています。私にとっては何番だろうがとんでもなく重たい番号なのですが、やっぱりピッチャーにとってのエースナンバーというものは他と比べようもない特別なものなのでしょう。

 さて、敵についてもっといろいろ情報を見てみようと思って琥珀ヶ丘の文字をタップ。

「……あれっ?」

「どしたのしほりん」

「ここ……」

 みなもちゃんにタブレットの画面を向けて一点を指し示します。表示されているのは琥珀ヶ丘の今大会ベンチ入りメンバー一覧。そこに気になる名前がありました。

 三年生、内野手、背番号3――

「ここに……『雁野(かりの)沙良々(さらら)』って――」

「はあ」

「雁野沙良々!? 復帰してたの!?」

 ピンと来てない様子のみなもちゃんに代わって大声を上げたのは蓬ちゃんです。隣のノノちゃんは首を傾げました。

「誰よそれ?」

「一言で言うと最強打者よ」

「最強? エリス先輩もそう言われてなかった?」

「先輩は守備とか走塁とか含めた総合力でそう言われてるの。あとは、この雁野沙良々が去年の夏からずっといなかったから……」

 蓬ちゃんのお話中、私はさらにタブレットを操作して雁野沙良々の成績をチェック。

 高校通算打率、五割六分一厘。

 さらに特筆すべきは通算得点圏打率――驚異の七割八分。

 野球で見たことないような数字が並んでいます。しかし、今大会はまだ出場が無いようです。

「一年も休んでたの? 怪我か何か?」

「ええ、まあ、そうなんだけど……」

 ノノちゃんの問いに蓬ちゃんは歯切れ悪い様子。ですので私が代わりに答えます。

「去年の関東大会で、頭にデッドボールが当たったんだよ」

「うわっ……ってしほり知ってるの?」

「うん、私たまたまその試合観戦してたから……大騒ぎだったんだよ。ボールが顔面に直撃して起き上がれなくて……グラウンドに救急車も入ってきたり――」

「痛そー……それでどうなったの?」

「その時同点だったんだけど、デッドボール当てちゃった方のピッチャーがコントロール全然定まんなくなっちゃって、連続フォアボールからの暴投で負けちゃった」

 ちなみにプロでは危険球は退場処分になる場合がありますが、高校野球ではほぼありません。

「うわぁ……お互いに悲惨な試合ね……ちなみに相手どこ?」

「ウチだよ」

「へ?」

「金剛女子学院だよ」

「うっそ……」

 私はエリス先輩目当てで野球観戦をしていたのです。当然その試合も彼女を応援に行ったので他の選手のことはあまり覚えてないのですが、その場面は衝撃的だったので強く記憶に残っています。

「ああそういえば去年は琥珀ヶ丘に負けたってのは聞いたような……」

「うん……だからそういう意味では因縁の相手だったりするんだよね」

「ねえしほりん」

 唐突にみなもちゃんが会話に入ってきました。

「その当てちゃったピッチャーって誰か覚えてる?」

「あ、そういえばその時みなもちゃん居なかったんだっけ。えっとね……途中で交代したからエースの人じゃなかったのは覚えてるんだけど――」

「……しほり、あなたホントにエリス先輩以外興味なかったのね」

 蓬ちゃんが呆れたようにそう言って、言い難そうに続けました。

「部長よ」

「……え?」

「雁野沙良々に頭部死球与えて、乱調で試合を壊してしまったの――当時二年生で二番手ピッチャーだった、藤原茶々なのよ」

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