【4】百合と薔薇と月見草
青々と空が澄み渡る七月。プロ野球の試合も行われる大きな球場のグラウンドに整列した選手たちを見渡して、私はしみじみと漏らしました。
「野球やってる女の子って、こんなにいるんだねぇ……」
五十八チーム――それが現在関東地方で女子野球部のある高校の数です。一昔前に比べればかなり増えたとはいえ都県単位に分けてしまうと数が足りないので、いきなり一堂に会し関東大会から始まります。負ければ終わりのトーナメント形式で行われ、金剛女子はノーシードなので優勝するには六回勝たなければいけません。優勝した一チームのみが全国大会へと駒を進めることになります。
ちなみに去年関東ベスト4なのになぜノーシードなのかエリス先輩に尋ねたところ、
「前年の秋季大会の成績で決まるからデス。ウチは昨年の三年生が引退して四人しかいなくて、残りを助っ人で賄ったので惨敗したんデスヨ」
――とのことでした。確かに部長とエリス先輩はいいとしても、鵜飼先輩はまだ野球始めたばっかりだっただろうし、夕霧先輩はアレだから、実質二人ですからね。仕方ありません。
というわけで今日は関東大会の開会式。もう初日から一回戦を始めるカードもありますが、ウチは明日からなので今日は式が終わったら帰ります。
「みなさ~ん! お疲れ様でした~!」
式が終わってぞろぞろ駐車場へ向かっていると、マイクロバス(彰子さん家の会社の持ち物です)の横で元気にブンブン手を振る野暮ったいメガネに真新しいスーツの女性。
我ら金剛女子学院高校硬式野球部の顧問・青梅林檎先生です。
……そう! ウチにも顧問はいたのです! 知らなかったでしょう? 私も知りませんでしたからね。というか誰も知りませんでした。
それというのも先生(みんなからは気さくにリンゴ先生とか、リンゴちゃんと呼ばれています)は大学出たての新任で、定年退職した前の顧問に代わって今年から就任したそうなのですが、その辺の引継ぎが上手くいっておらず、本人も顧問になっていたことに気づいていなかっったそうで。
大会に参加するにあたり引率の教員の話になって、部長が、
「――ん? そういえば顧問は誰だ?」
と気が付かなければ誰も知らぬままだったみたいです。今までも顧問は名前だけで、指導や監督役は生徒がやっていたらしく、存在を忘れられていたようです。
「青梅先生、これから引率など大変かと思われますが、どうぞよろしくお願いします」
部長がとても常識的に頭を下げると、先生はグッと拳を握りました。
「うんっ! 私野球のことはよく分からないけど、その分出来ることは頑張るねっ!」
ピッカピカの新任教師らしく、やる気に満ち溢れています。
「それじゃあバスに乗って……あれっ? ランスフォードさんと夕霧さんは?」
先生に言われて見回すと、確かに二人は居ません。夕霧先輩はいつの間にか消えて式自体をサボっていましたが、エリス先輩はさっきまで居たはずで……。
「……あ、いました」
美鶴ちゃんが指さした方向を見ると、何やら凄い人だかりが。その真ん中に見覚えのあるブロンドが見え隠れしています。
「何やってるのかしら」
「行ってみましょう」
みんなでゾロゾロ向かってみると、エリス先輩を囲んでいるのはみんな他校の女の子。ユニフォームを着た選手やら制服姿やら、いろんな子たちが大騒ぎです。
「ランスフォードさーん! ファンです! 握手してくださーい!」
「好きです! 真剣なんです! これ食べてください!」
「むしろ私を食べてください!」
「ずっと憧れてました! サインください!」
「晩御飯にするんで髪の毛ください」
「一緒に写真撮って!」
「ラインしましょーよー!」
「シャンプー何使ってるんですか!?」
「ちょ……ちょっと落ち着いてくだサイ皆さん! 押さないで! 周りにご迷惑デスから……い、痛っ! 誰デスカ髪の毛引っ張ってるの!」
エリス先輩は大量のファンに囲まれもみくちゃにされています。さすがメディア露出もある人気と実力を兼ね備えた選手ですね。
「これは止めに入った方が良さそうだ……。よし、出陣けッ! 一年生!」
部長の号令に従い、私達はエリス先輩ファンの群れに飛び込みました。体格に優れる私と美鶴ちゃんを先頭に、厄介ファンを掻き分けて先輩の許へ急ぎます。
「や、やめてくだサイ本当に!」
「ぐへへ……今晩は金髪のふりかけに――なっ、なにすんだよ!」
「あのっ、エリス先輩に手を触れるのはやめてくださいっ!」
「うるさい! あたしゃエリスの髪の毛を……ちょ、こいつ力強っ……ごっ、ごべっ! ごばはっ! う……し、死ぬっ……死……カハッ――」
最前列で迷惑行為をはたらいていたファンを後ろから抱きしめて持ち上げ、そのまま腹を両腕で思い切り締め上げました。前後逆ですがベアハッグです。動かなくなった厄介さんをぽいっと投げ捨て、シーンとなった皆さんに声をかけます。
「こ、こうなりたくなかったらちゃんと一列に並んでください……っ!」
ファンの皆さんは驚くほど迅速に並んでくれました。即席握手会の始まりです。
「しほりんお手柄だったね!」
「よっ、女子野球界最強の男!」
「やめてよみなもちゃんノノちゃん……」
えへへ。
「倉さん、ホントに最近変わってきたよね。なんか、堂々としてきた……みたいな?」
「う、鵜飼先輩までやめてくださいよ」
でへへへ。
「あ、そういえばわたくしこの間、しほりさんのお父様の試合をテレビで拝見いたしましたよ!」
「ええっ!? ホントに!?」
彰子さんは楽しそうに両手を顔の前で合わせています。
「タイトルマッチでしたね。お父様本当にお強くて、わたくしついつい興奮してしまいました。プロレスにハマってしまいそうです。これがプ女子というものなのですね!」
「ああ、それなら私も観たわよ」
「蓬ちゃんも!?」
野球部にプロレス旋風到来の予感です。
「試合も凄かったけど、一番の見どころは最後のマイクパフォーマンスよね。『テメエなんかよりなァ! うちの娘の方が百倍強ぇぞコノヤロー!』って。どんだけ親バカなのよ」
「はうう……そこまで見られてた……」
お父さん、試合が絶好調なのはいいんだけど、最近やたら私を引き合いに出すのやめてほしいんだよね……。ヒールレスラーのイメージが崩れるのもあるけど、プロレスファンの間で無駄に私のイメージが独り歩きしてて恥ずかしいんだよホントに……。
ちなみにその試合はちゃんと会場で生観戦してました。うちのお父さん最強です。
■□ □■
「――ん? 何じゃ、あの列」
野球のユニフォームとは不釣り合いな、ブランド物の大きなサングラスの奥の瞳を細めて彼女は呟いた。
「金剛女子……ほいであの金髪――ああ、あれが噂のランスフォード。えらい人気じゃねぇ」
どこか嘲笑うように言って、彼女はウェーブのかかったボリュームのあるツインテールを撫でつけた。
「ま、せいぜい浮かれときんさい。今のうちじゃけぇね」
「おーい! うちこの後すぐ試合なんだから急いでー! バス出るよー!」
「今行くわぁー!」
彼女は自分を呼ぶ声に手を振ると、ファン対応に追われるエリスを一瞥した。
「決勝まで上がってきんさい、ランスフォード」
そのユニフォームの胸には『琥珀ヶ丘』の刺繍。
「ウチらがケチョンケチョンにのしちゃるけぇね♪」
■□ □■
その後、ヘロヘロになって戻ってきたエリス先輩を回収し、バスのところへ戻りました。
「ハァー……散々な目に遭いマシタ……」
「ファンからの収益で食べてるプロならまだしも、私達は学生なんだからあんなの相手にしなければいいんじゃないですか?」
蓬ちゃんの真っ当な発言に、しかしエリス先輩は首を横に振ります。
「いえいえ、やっぱり応援してくれるFanは大切にしないと」
「先輩はホントにお人よしですね」
蓬ちゃんは納得していますが、エリス先輩の執念を知っている私からすれば感想も違ってきます。もちろんファンを大事に思ってはいるのでしょうが、周囲に自らの人柄の良さを印象付ける狙いもあるのでしょう。その方がスカウトの受けもいいでしょうし、プロになってからの人気も増すはず。
全てが彼女の目的到達のための計算の結果。究極的に言えば、野球すら彼女にとってはメジャーリーガーになる為の手段でしかないのです。
ある意味、エリス先輩にお近づきになる手段として野球部に入った私と通ずるところがあるかもしれない……などと言えば畏れ多いでしょうか。
「おかえりなさ~い。ランスフォードさんってすっごい人気なんだねぇ」
待っていたリンゴ先生が能天気に言いました。
「もしかしてウチってけっこう強いの?」
「はい、強いですよ」
部長はいつものように腕を組んで、自信満々に即答しました。
「もちろん毎年優勝は狙っていますが、今年は間違いなくいけると自負しております」
「すごーい! 目指せ関東ナンバーワンだねっ」
「先生はご冗談がお上手のようで」
部長は真っ黒い瞳に覚悟を滲ませ高々と吼えます。
「目指す高嶺はただ一つ。狙うはこの野球大国・日本の頂点のみ。掴む優勝とは即ちこれ全国優勝の座。必ずや優勝旗を持ち帰り、金剛女子学院の名を球史に刻印んでみせる」
「うんうん、やっぱり目標は高く持たなきゃね!」
毅然と言い放った部長に対し、リンゴ先生はどこかズレてます。
「そっかー全国優勝か。すごいなー。もしそうなったら入学希望もいっぱい増えて、共学化も無くなるかもねー」
「……ん?」
先生が何気なく発した言葉に、その場の全員が首を傾げました。
「せ、先生……共学化って……?」
お互い顔色を探り合い、代表してエリス先輩が尋ねました。先生はぽかんとしています。
「ん? ほら、最近学校の経営があんまりだから、数年以内に共学化に踏み切って再建を図るって話だけ、ど…………あっ、これまだ話しちゃいけないやつだった……」
リンゴ先生はたちまち真っ青になりました。青りんごです。
「あの……このことは内緒に……私が話したってバレたらクビになっちゃう……」
「あー……はぁ……」
「まぁ……ねぇ……」
私達は再び顔を見合わせます。
「――別に……よくない?」
「廃校になるとか、廃部になるとかでもないですし……」
「すぐってわけじゃないならノノ達別に関係ないしね」
みんなそんな反応でした。私も大体そんな感じです。廃校を回避するために頑張るぞーとか、試合に勝たなきゃ廃部だーとか、そういうあるあるな展開は別に望んでないです。
しかしその風潮にNOを唱えた者が一人いたのです。
「ふっっっっざけんじゃねぇぇぇぇッッ!」
マイクロバスの窓が勢いよく開き、絶叫して顔を出したのは夕霧先輩でした。
「夕霧、そんなところにいたのか……」
「寝てたらとんでもねぇ話が聞こえたけど正気か!? 共学化だと!? 馬鹿言うんじゃねぇぞテメエ! お前らもなんでそんな平気でいられんだよ!?」
私達が呆気にとられる中、夕霧先輩は早口で捲し立てます。
「いいか!? 共学になったらどうなると思う!? まずいきなり完全共学は大変だから試験的に少人数の男子生徒を受け入れるところから始まるな! そんで流れ的に男子が一人野球部にマネージャー的な名目で入ってくんだよ! 見ろ! もうハーレム構図の出来上がりだ! それまで女子高だったから危機意識が薄くて鍵掛けずに着替えてた部室にうっかり入って裸見られるとか、ボール踏んずけてすっ転んで巻き込まれて下敷きになっておっぱい揉まれてるとか、そういうあからさまなラッキースケベを挟みつつ一緒に頑張ってるうちにいつのまにかみんなその男子に心惹かれてて恋のデッドヒートが始まったりするんだぞ!? そんなのただのラブコメじゃねーか! そんなのこっちは求めてねぇんだよ!」
「い、いやアタル……?」
エリス先輩がドン引きしつつ口を開きます。
「仮にそんなラブコメになったとしても、それはワタシ達が卒業した後のことデスから――」
「馬鹿野郎テメエコラ馬鹿エリス太もも舐めさせろコラ! 卒業した後でもなぁ、そんなことになっちまったらなぁ……!」
夕霧先輩は歯を食いしばり、涙を浮かべてぶちまけます。
「OGの権威を利用して後輩のピチピチJKを喰いまくる計画がブチ壊しじゃねぇかよォ!!」
「Screw you, slut!(ふざけんな淫乱女!)」
嫌悪感からか、女神の如きエリス先輩から口汚い言葉が飛び出しました。
なんて恐ろしい夕霧先輩の計略……後輩たちを魔の手から守る為にも、むしろ共学化した方が良いのでは……?
「なにやってんだお前ら! そんなとこで突っ立てないでさっさとバスに乗れよ!」
夕霧先輩は車体をバンバン叩きながらがなり立てます。
「さっさと学校戻って練習すっぞ! 絶対に優勝して百合の花咲く学院を守るんだよォ!」
ものは言い様ですね。
一同ドン引きでしたが、やがて部長の溜息で沈黙が破られました。
「まったく……まあいい。動機がどうあれ、奴がやる気になったのは良い傾向だ。この機会に徹底的に鍛えてやろう。全員バスに乗れ。帰還るぞ」
■□ □■
とはいえ、明日から負けたら終わりの大会本番。学校に戻ってからの練習は、部長直々の地獄の千本ノックを受ける夕霧先輩以外は、調整と確認程度でお開きとなりました。
「しほりん帰ろ~」
「うん、みなもちゃん」
「ちょっと待て玉響コラァ……」
みなもちゃんと帰ろうとした矢先、怖い顔で眼鏡を光らせた蓬ちゃんに止められました。
「なにかなもぎちゃん。今日はさっさと帰って休まなきゃいけないんだよ」
「そうね、休息は大事。それなのにあんた……昨日また勝手に投げ込みやりまくったろ」
「やってないよ。なにさ、女房役のくせにピッチャーを疑うの? イヤだね~まったくー」
「あんたのお母さんにラインで聞いたのよ」
「なんでうちのお母さんとラインやってんの!?」
「しほりに仲介してもらって本人からアカウント教えてもらったの」
「裏切ったなしほりん! 友達だと思ってたのに!」
「あはは……ごめん」
これも友を想えばこそなのです。
「ったくあんたねぇ……何度も言ったでしょ肘と肩は消耗品だって。別に禁止って言ってるわけじゃないんだから。ちゃんと日数と回数を決めて計画的に――」
「腹減ったら食う! 眠かったら寝る! 投げたくなったら投げる! それが玉響みなもの生き様だよ!」
「人並の自制心を持て。山賊かあんた」
「ごめんね、みなもちゃん昔からこんなんで……」
欲望のままに生きる女なのです。
「もう我慢ならん。来なさい。今から私の家でみっちり投手の怪我予防に関する勉強会よ。最新学説まで頭に無理やり叩き込んでやるから覚悟しなさい」
「やああああだああああ! しほりん助けてぇ! しほりーん! この裏切り者ー! 暴力装置ー! メスコングー! 覚えてろよー!」
みなもちゃんは蓬ちゃんに首根っこを掴まれ、散歩から帰りたがらない犬のように引きずられていきました。お利口になって戻ってくるんですよ。
さて、一人になってしまいました。まあ特にやることもないし、さっさと帰りましょう。
「あの、シホリ……」
その時、やはり帰り支度を整えたエリス先輩に呼び止められました。
「どうしました先輩」
「あの……今からお暇デスカ?」
先輩は視線をうろうろさせ、もじもじと落ち着きません。
「お暇なら、その……一緒にお買い物にでも行きマセン? ほ、本屋とかに……」
――はは~ん。
「分かりました。行きましょうか、お買い物。オススメの本屋があるんですよ」
「ホ、本当デスカ……!?」
あらあら、そんなに目を輝かせちゃって。どうやら洗脳は順調のようですね。うふふふふ。
■□ □■
「――Wow...What an awesome book it is...」
「先輩、本にヨダレ垂れますよ」
「おっと危ない危ない――じゅるっ……Uh...Wait...It's... It's empyreal...」
エリス先輩が蛇に唆され、禁断の果実を口にして腐海へと堕天してから二か月。今ではすっかりドハマリして、目を爛々と輝かせて薄い本を漁る淑女へと成長しています。
金髪をお下げにして、キャップを被って、制服の上からパーカーを着こみ、伊達眼鏡をかけて……とバッチリ変装まで用意して大はしゃぎです。
「ふひゅひゅっ! こっ、この先生のスパタク本最高過ぎやしマセンカ……!」
「先輩、その本がお好きなら多分この先生のもイケるのでは?」
「オホッ、Ah~イイ……これも買いデスネ」
「こっちの棚には少ないですけどハドタク本がいくつか」
「Umm、興味深いデスネ。おや、あっちの棚もロマダイでは――」
「ストップ! です、先輩。そっちはタク攻め本エリア。決して相容れぬ我らの敵……」
「That's bullshit! タクは総受けデショウ!? Nonsense! Fuckin' asshole!」
私の思惑通りに狂信的なタクマ(ロマダイの主人公)総受け推しとなったエリス先輩は、悪書の並んだ棚に罵詈雑言を投げかけます。
「まあまあ落ち着いてください。美の分からない輩は放っておけばいいんです。正義はこちらにあり。正統な思想を持つ私達だけで、真実の愛を描いたタク受け本を楽しめばいいのですよ」
「Yes, Master.仰せのままに……」
野球とは逆で、この世界では私が先輩の師匠です。まあこの世界そのものが暗黒面みたいなものですけどね。その後も書店をハシゴしたり、グッズやドラマCDを物色したり、ゲーセンで散財したりしてはしゃぎまわりました。
「イヤ~つくづく日本って素晴らしい国デスネ」
エリス先輩は観光客みたいなことを言いながら、両手にいろんな袋を下げてホクホク顔。
「アリガトウゴザイマス、シホリ。おかげで本当に楽しい日になりマシタ!」
「いえ、こちらこそ……こういうところに一緒に来る友達いなかったので嬉しかったです」
「それでは、練習がお休みの日にまたこうやってDateしマショウ♪」
「でっ……ででで、でーと!?」
「ン~? いいじゃないデスカー」
エリス先輩は悪戯っぽく笑うと、横から私を捕獲するように抱きしめてきました。
「はわっ!」
「ワタシをこんな風にしたのはシホリなんデスから、ちゃーんと責任とってくだサイネ♪」
「はわわわ……は、恥ずかしいですこんなところでそんなぁ……!」
パーカー越しに大きな柔らかいものがぐいぐい押し付けられてはわわわわ……っ!
「ででっ、でもいいんでしょうか……明日から大会なのにこんなのんびり遊んでて……」
「随分今更なことを言いマスネ……」
そう言って私のほっぺたをぷにぷに突っつく先輩。
「いいんデスヨ。練習も敵の研究も、ワタシ達は出来ること全部やりマシタ。あとは明日の試合に万全の態勢で挑めるように心と体を整えるだけデス。こうして好きなことしてRelaxするのも大事なことなんデスヨ」
「はい……分かってはいるんですけど、なんか不安で……」
「フーム、OK! では今日の締めくくりに、イイトコロに連れて行ってあげマショウ!」
「イイトコロ……?」
■□ □■
大通りから一本入ると、途端に人通りが減ってなんだか風景が寂れたようです。そのさらに奥へ奥へと、私はエリス先輩に手を引かれて進んできました。
ま、まさか変なところに連れ込まれたりしませんよね? でもエリス先輩が今日はデートだって……そしてデートの締めくくりっていったらもう……そういうことじゃないですか!
『明日Hitが打てるように、今夜はシホリの守備の穴を突いちゃいマショウ』
『あっ……せ、先輩っ! そんなところダメですぅ……っ!』
『フフフ……シホリのSweet spotはどこカナ~♪ Left? Right? そ・れ・と・も――』
『セ、センターは……らめぇぇぇ……! Hのランプ灯っちゃう~っ!』
――いやいやいやいや。エリス先輩がそんな言動するわけないじゃないですか。こんなの別人です。エロス先輩です。というかエロスはそんなこと考える私です。エロス後輩です。何考えてるんですか馬鹿ですか私。
「ハーイ、着きマシタ!」
「ふぇっ」
先輩が足を止めたのは、当然エッチな場所ではなく――
「バッティングセンター……ですか? こんなところに?」
随分古ぼけた建物ですが、一応営業中のようです。
「そうなんデス。ワタシも昨日この辺の地図を見てて初めて気が付いたんデスヨ」
「先輩……そんなに今日が楽しみだったんですね」
「エヘヘ。じゃあ入りマショウ」
はにかみながらドアを開けた先輩に続いて、私も建物の中に入りました。
そこは二〇年前くらいからこのままなんだろうなーという、時の流れから取り残されたような懐かしい香り漂うお店でした。二階がビリヤードと卓球場で受付もそっちにあるらしく、古い筐体の並ぶゲームコーナーとバッティングセンターがある一階にはスタッフがいません。ぼーっとメダルゲームに興じているおじさんが一人いるだけです。
「貸し切りで打ち放題デスネ。爽快に振りまくって良い気分で明日に臨みマショウ」
そう言ってエリス先輩はさっさと左打ブースに入っていってしまいました。バッティングセンターデートというと二人でキャッキャ言いながら交互に打席に立って楽しんでるイメージですが、さすがに野球に関しては本気モードということなのでしょう。別に不満はありません。それでこそエリス先輩なのですから。もうちょっと女子高生っぽくいちゃいちゃしたかったなぁなんて決して思っていませんとも。
さてさて、そういうわけで私もホームランをかっ飛ばしにいきましょう。そうですね、目を慣らす意味でも、ちょっと速めの球を打ちましょうか。
私は一二〇キロのブースを選んで、ネットの向こうの打席に立ちました。うーん、とはいえバッティングセンターって初めてなんですよね。制服のままですが、とりあえずヘルメットを被ってバットを持ちます。
それで……あ、お金入れなきゃ始まりませんよね。
横にお金を入れる穴と、ボールの高低を調整するボタンがついた小さな機械が立ってます。一回二〇〇円で一〇球ですか……これは安いんでしょうか? 相場が分かりません。ゲーセンで軽くなった財布に辛うじて残っていた小銭を投入して、打席に立って構えます。もっとピカピカなバッセンではプロの投手が投げる映像がついてるみたいですが、こんな場末にはそんなものありません。なんか剥き出しの機械がガッチャガッチャ動いてま――ギャァン!
「うわっ!」
突然ボールが飛び出してきました。スイングする間もなく見逃しです。
「タイミング掴み辛……」
もう二〇円無駄にしてしまいました。残り九球、何かやらないと来た意味がありません。落ち着きましょう。もうボールが来るだけで緊張して縮こまっていた二か月前の私ではないのです。大事なのは迷わず自分のスイングをすること。そうすればきっと、何かが起こるのだから。
また機械が喧しく動き始めます。さっきのタイミングを思い出して――今!
「ふんっ!」
バットが勢いよく空を切り、ワンテンポ遅れてボールは後ろのマットにぶつかりました。
もうちょい遅く始動すべきですね。今度こそ――
「ふんっ!」
■□ □■
稼働中のランプが消えました。一〇球終わったようです。
「ふ~。いい汗かいた」
最初の一球を除いた九回、いきなりやったにしてはなかなか満足いくスイングが出来たと思います。あとはこれがボールに当たれば文句ないんですけどね。
――のび太君でさえ打率イチブはあるのに、私はゼロですよ。無です。ジャイアンに何度ケツバットされればいいのでしょう。トレーニングの甲斐あってスイングの鋭さは増してると思うんですが、当たらなきゃ何の意味も無いんですよね……明日から負けたら終わりの本番だっていうのに。これでは自分の練習時間を削ってまで特訓に付き合ってくれたエリス先輩に顔向けできません。先輩は「アナタはそれでいいんデス」って言ってくれますけど……せめてバントの練習くらいはした方が良かったのでは……?
エリス先輩のブースからは、気持ちよく強い打球をかっ飛ばす打球音が響いてきます。私が肩を落としてブースを出ようとした、その時でした。
「やめちゃうの?」
「へ?」
抑揚の無い、平坦な調子の声でした。驚いて顔を上げると、ブースの出入口の正面、順番待ち用の椅子に一人の女性が座っていました。
リアルな少女を模した等身大のドール――それが第一印象でした。最初に声を聞かなければ、それが生きた人間だとは思わなかったでしょう。
白金の糸で紡いだような美しい銀髪。白磁のように無機質で滑らかな素肌。こんな埃っぽいバッセンには到底似合わない、シックな色合いで高貴さ漂うクラシカルロリィタファッションに全身を包んでいます。左目には医療用の眼帯。露わになっている右目も固く閉じています。
「やめちゃうの?」
口元だけを動かして、彼女はもう一度言いました。
「あの……私に、言ってます?」
おずおずと尋ねますが、彼女は無反応。なんなんですか怖いですよもう……。
「えっと……その……私もうお金が――」
そう言いかけた途端、彼女は目を閉じたまま機械仕掛けの人形のように迷いない動きでポーチから財布を取り出し、中から千円札を一枚抜いて私に差し出しました。
「――えっと……?」
このお金でもっと続けろということでしょうか。
「う、受け取れません! そんな、見ず知らずの方からお金なんて――」
「あなたの音、もっと聴かせて」
「――は、はいぃ……?」
マイペースにも程があります。会話のキャッチボールする気あるんでしょうか。
「あの……さっぱり意味が……音って……?」
無反応。千円札を差し出した形で静止しています。
意味が分かりません。お金払って音を聴かせろって、流しのギタリストじゃないんですから。
作り物のように均整の取れた恐ろしい程に寒々しく美しい女性が、無言でお札を押し付けてくるというこの非日常感。異様な圧力に逃げるに逃げられず、結局根負けしました。
「――はぅ……えっと、も、もっとバッティング続ければ満足してくれるんですよね……?」
やはり無反応。仕方なく千円札を恐る恐る受け取ると、彼女はゆっくりと手を下ろしました。お金を受け取った以上もう逃げられません。早足で両替機へ向かい千円札をくずして戻ります。女性は相変わらずピクリとも動かず目を閉じて座っているだけ。私は溜息を吐き、二〇〇円を投入しました。
再び一〇球。同じように一〇回空振りし終わり振り向くと、女性は変わらずそこに居ます。
「あの……終わりましたけど……」
「いい音。速くて、鋭くて、とても強い。でも、まだ良くなる」
そう言うと、お姉さんは立ち上がりました。バレリーナのような美しい姿勢で体のぶれも一切ない立ち姿のまま、滑るように私のいるブースに入ってきました。
「えっ、あの……なん――」
「構えて」
「は、はいっ」
有無を言わさぬ雰囲気に逆らえず私は打席でバットを構えます。お姉さんは私の背後に立つと、しばらく無言になってからおもむろに私の体を抱きしめてきました。
「はわっ……!?」
「硬くなってる。力を抜いて」
「そ、そんなこと言われても……!」
私が少し腰を落としているので同じぐらいの目線になったお姉さんは、背中越しに回した手で私の胸とお腹をきゅっと抱きしめたまま、耳元でこしょこしょとウィスパーボイスで囁いてきます。こんなの硬くなるなと言う方が無理ってもんです。
「まず手。そんなにぎゅっと握っちゃダメ」
お姉さんの白魚のような両手がするするとバットを握る私の両手に伸びてきます。
「そっと、ふんわり、優しくして」
言葉の通りにそっと私の手に添えられたお姉さんの手のひらに触れて、私は息を飲みました。手のひらの皮膚がまるで石畳のように硬いのです。どれだけバットを振り続ければこんな手のひらになるというのでしょう。
「――お姉さん、一体何者……?」
「次は身体」
お姉さんは無視してレッスンを続けます。身体を私の背にぴったりとくっつけたまま、手は私の腕、肩、胸、お腹をするすると伝い、そのまま両手で私の下腹部を――
「はぅっ! だ、ダメですそれ以上はホントに――」
「バットはね、シキュウで振るの」
「し、四球? 死球?」
「赤ちゃんのお部屋のこと」
お姉さんはさらりと言って私の下腹部をさわさわ……ってえっ? シキュウって子宮? 子宮ですか!? コブクロのことですか!?
「目を閉じて。深呼吸。大きく吸って――吐いて。新鮮な空気が肺を満たして、お腹を通って、真っ直ぐ子宮まで届くのをイメージしながら、吸って――吐いて。吸って――吐いて」
「すー……はー……すー……はー……」
「そのまま続けながら想像して。全身にみなぎったエネルギーが、血管を通ってあなたの子宮に集まっていく。息を吸って、吐く度に、私の手の触れている奥、あなたの子宮に満たされた精気が渦巻いて熱を持っていく。ぐるぐるぐるぐる、吸い取って熱くなっていくのを感じる」
「すー……はー……すー……はー……」
「それに伴って身体の重さは自然な重力に従って下へ下へと落ちていく。腕、肩、胸、背中、お腹、腰。その重さは熱と一緒にあなたの子宮へと降りていく。重心は直下へ。体重は軸足の土踏まずで支える。頭、子宮、土踏まずが一本の軸で繋がり、足の裏全体で地面を感じる」
「すー……はー……すー……はー……」
なんだかエッチな音声作品みたいだなあと思ってしまう邪な思考をなんとか追い出し、とりあえず言われた通りにやってみます。脳に染み込んでくるようなお姉さんの声にだけ集中して、ただただその通りにイメージしながら深呼吸を繰り返します。
いつのまにかお姉さんが腕を解き、私から体を離していることにも気づかずに。
「全身の力が抜けてくると、バットがずーんと重くなってくる。下へ向かって落ちようとする自然な重力を感じる。無理に支える必要はない。抗おうとしなくてもいいの。それはとても自然なことだから。そうでしょう?」
「すー……はー……すー……はー……」
そう言われると途端にバットが重く感じてきます。
「今から数を数えるわ。ゼロになったらバットは自然に落ち始める。その瞬間、あなたの子宮に渦巻くエネルギーが解き放たれて、あなたは一つの竜巻になる。土踏まずからふくらはぎ、膝、太ももと回転が身体を駆け上がり、身体の中心である子宮に達すると爆発した熱がお腹を、胸を、腕を満たす。落ちていくバットの位置エネルギーがパワーに変わる。後はもう何も考えなくていい。その一瞬に全てを込めて、白いボールを飛ばすだけ」
早く……早く数を数えてほしい。どんどんバットが重くなってきて、もう持っていられない。
「いくね。五……四……三……二……一…………ゼロ――」
■□ □■
エリスは最後の一球を気持ちよくセンター返しすると、大きく伸びをしてブースを出た。
先ほど様子を伺った時、必死になってバットを振るしほりが見えた。明日からの本番を控えて拭えない不安を振り切ろうと必死なのだろうとエリスは考えた。
彼女も正直なところ、今大会でしほりが使い物になるとは思っていない。だが層の薄い金剛女子では試合に出さざるを得ない。だからといって、目先の勝利の為だけに小手先の技だけ叩き込んで彼女をハリボテにしたくはなかった。
倉しほりというスケールの大きな可能性を純粋培養したかった。大切な夏の大会すら経験値として覚醒の踏み台にしてほしかった。今はお荷物でも構わない。来年、或いはもっと先の未来で、華々しく咲いてくれればそれでいいとの覚悟があった。
当然、そんなリスクを背負ったとしても勝つ自信があってのことであり、チーム方針の最終決定権を持つ茶々の許しも得た上での育成方針であるが。
もちろん活躍してくれる分には問題ない。しほりほど破壊力のあるスイングをする選手は女子では他にいないし、それだけで十分相手にはプレッシャーを与えられる。万が一バットに当たればとんでもないことになるのだから。バントや進塁打しか狙ってこない相手より、確率は低くても大爆発する可能性を秘めた大量破壊兵器の方が恐ろしいに決まっている。
エリスはフロアの端に並んだ自動販売機でスポーツドリンクを二本購入。そのうち一本の蓋を開けてグイっと一飲み。もう一本は、今日の買い物に付き合ってくれた可愛い後輩へのお礼である。エリスは鼻歌を奏でながらしほりのブースの前へ。
誰もいない順番待ちの椅子に座ってしほりの様子を眺める。
「子宮を意識……重さは下に……自然な重力を感じて……竜巻に……」
なんだかよく分からないことを呟く後輩に首を傾げる。やがてピッチングマシーンが喧しく鳴りだし、次のボールがセットされた。
「ふー……」
しほりは大きく息を吐く。やけに疲弊しているようだった。
マシンが唸り、ボールが発射される。しほりは短い言葉と共にバットを振る。
「ゼロッ……!」
「――っ!」
エリスは思わず立ち上がった。それと同時に、無人のフロアに音が響く。キィン……という微かな金属音。続いてボールがマットに当たる鈍い音。
「あっ! い、今当たった! バットに当たった! み、見てましたお姉さ――」
飛び上がって振り向いたしほり。しかしエリスと目が合うとその場で固まる。
「――あれっ、エリス先輩……? ここに居たお姉さんは?」
「お姉さん? いえ、ここには誰も……それよりシホリ、今――」
「そうです! 見ました!? 初めてバットにボールが当たりました!」
当たったというより掠っただけなのだが、ただのファウルチップでもしほりにとっては大進歩。半泣きになって喜んでいる。だがエリスにはとにかく尋ねたいことがあった。
「シホリ、今のSwing……自分で編み出したんデスカ?」
「へ?」
「理想的なSwingデシタヨ。無駄な力が一切入っていなくて……Ballまで最短距離でBatが出ていて……」
「えっと……さっきまで銀髪で眼帯した人形みたいにすっごく綺麗な女の人が居て……。付きっ切りで、何と言うか、手取り足取り……」
「銀髪で……眼帯……Could it be that――」
「先輩……?」
「――ああ何でもありマセン。そんなことより、今のSwingを忘れないうちに体に覚え込ませマショウ!」
「……それって、もしかして――」
「YES! もう一回デス!」
「あひぃ」
女性に貰った千円分全て使い切ったしほりは、この後も散々バットを振らされまくった。
■□ □■
『はぁ!? 帰りの交通費をバッセンで使い果たした!? ったく……迎えに行きますけぇそこにいてくださいね。絶対その場動かんでくださいよ!』
「分かった」
電話口で吼える相手にそれだけ言って彼女は通話を切った。スマホをポーチにしまうと、その場で人形のように静止し立ち尽くす。人通りの多い駅前の雑踏で、クラシカルロリィタファッションの彼女はとても目立ち、振り返って眺める者も多い。しかしそんなもの気にも留めず、彼女はただ目を閉じ立っていた。
そんな折、どこからか香ばしい薫りと共に『ジュ~……』という音が聞こえてくる。
「いい音」
彼女は呟き、迷いない足取りで音の方へ向かった。そこにはお持ち帰りも出来るスタンド型のたこ焼き屋があり、今まさに目の前の鉄板でたくさんのたこ焼きがころころと焼上がろうとしている。
「お嬢さんご注文? 八個入りで五〇〇円だよ」
店員の若い男性に言われ、彼女はポーチから財布を取り出し、中身をチェック。百円玉が二枚とその他小額貨幣がパラパラ。しかし彼女は手早く一枚の紙きれを取り出し、店員に渡した。
「あいよ、貯まったスタンプで半額ね」
そして二五〇円をカウンターに置き、焼き上がりを待った。
「お待ちどう、たこ焼き八個入りと、新しいスタンプカード。今回の分は押しといたんで名前書いといてね」
鰹節がゆらゆら踊るたこ焼きを受け取り、彼女はさっそく爪楊枝を手に一個目のたこ焼きを口に放り込んだ。
「はふ、はふはふ」
熱を逃がしながら焼き立てを咀嚼し、呑み込む。多少の火傷は気にせず、熱々をいただくことこそたこ焼きのマナーであり彼女のポリシーである。
ものの数分で八個のたこ焼きは彼女の胃に収まった。
「ふう」
一息ついた彼女の周りを飛び回る小さな影があった。黒いハエだ。たこ焼きソースの香ばしい薫りに引き寄せられてきたのだろうか。ハエは彼女の周囲を何周かした後、残ったソースを舐めに彼女の持つ紙皿にとまった。
その瞬間、ハエの身体の中心を爪楊枝が刺し貫き、紙皿に縫い付けた。
目を閉じたまま、彼女はハエと一緒に紙皿をくしゃっと丸めて店先のゴミ箱に捨てた。そして思い出したように新しいスタンプカードを取り出し、先ほど店員に言われた通りカウンターの端っこに置かれたボールペンを手に取って名前を記入した。
『雁野沙良々』
既に日は沈み、夜の帳が街を覆っていた。街の灯りに掻き消され、星の少ない都会の夜空。彼女は顔を上げ、眼帯の無い右目を開いた。今宵は満月。月光を浴びて、アンバーの瞳は妖しく金色に輝く。
「楽しみね、茶々ちゃん」
その声は雑踏に消え入り、誰にも届かない。