【3】汝等こゝに入るもの、一切の望みを棄てよ
大会の開幕は七月。部長とエリス先輩考案の徹底して的を絞った密度の濃い練習により、初心者の多い金剛女子は急ピッチでチームの成熟を進めています。そして新チーム発足から一か月弱のゴールデンウィークには、実戦経験を積み、現状の実力を確認する為の練習試合ラッシュが始まりました。
勝ったり負けたりを繰り返し、最終日。場所はホームの金剛女子グラウンド。相手はなんと瑠璃沢高校。去年、私が初めて高校女子野球を観戦した日の金剛女子の対戦相手です。
今日は完全にエース・藤原茶々の日でした。
七回裏の最終イニングに至っても、彼女の流れるようなサイドスローから放たれる球のキレは衰えを知りません。彼女の武器は精密機械のようなコントロールと、豊富な変化球による的を絞らせない投球。この日も、時にはゾーンギリギリの変化球で幻惑、時には内角にストレートを突き刺し威迫。打者を手玉に取り内野ゴロを量産。最後もサードゴロを美鶴ちゃんが慎重に捕球し、持前の強肩でファーストへ矢のような送球。地面にぺったり開脚した鵜飼先輩のミットへ吸い込まれ――
「ンああッんっ!」
――大きな喘ぎ声を発します。
まあね、野球歴一年の鵜飼先輩がファーストなんて大切なポジションを任されていることが不思議ではあったんですが、どうやらボール捕球時の衝撃が快感(わざとミットの皮をヤスリで削って薄くしてるほど)なようで、その余りあるドM根性でどんな送球でもキャッチしてしまうとか。その代わりエリス先輩や美鶴ちゃんの鋭い送球をキャッチすると、このように球場いっぱいまでエロい声が響き渡ります。健全な野球少年には見せられません。まあ嬌声は零してもボールは零さないのでいいのですが。
ともあれこれにて試合終了。結果は2-1。得点はエリス先輩のタイムリー二本。相手にレフト夕霧先輩のエラー(見事なヘディングでした)以外の得点を許さない、見事な勝利です。
私ですか? ライトで打球が来ないようにずっと祈ってたら一球も来ませんでした。
「私も投げたかったのにー! 出番出番出番出番出番出番ー!」
「仕方ないよみなもちゃん……今日は部長が絶好調だったし……」
「ブー……投げ込みも禁止されちゃったしつまんない……」
子供みたいに駄々をこねるみなもちゃんを宥めます。彼女だって昨日一失点完投してるんですから今日はお休みだって散々言ってあるんですけどね。
キャッチャー蓬ちゃんとセカンド彰子さんは、もう何年も一緒にやっているかのようにチームに馴染んでいます。センターを任されたノノちゃんは私と夕霧先輩に挟まれて穴だらけの広大な外野ほとんどをカバーする獅子奮迅の活躍。美鶴ちゃんは部長登板時はサード、部長がサードに入るみなもちゃん登板時はライトを守り、まだ不慣れながらなんとか熟している上、打席でも少しずつ長打が出ています。
一年生の中で、私だけが足踏みをしています。
エリス先輩に付きっきりで教わり、素振りくらいはちゃんとできるようになりました。でも試合でボールにバットが当たったことは一回もありません。
「地面に転がってるボールを拾って内野に投げ返すことが出来れば守備はとりあえずOKデス。シホリはとにかく打撃を集中して磨きマショウ」
エリス先輩のそんな言葉を拠り所に、今日も居残りでフォーム固めの素振りです。たまにプロのスイングのスケッチを見ながら、一回一回身体に染み込ませるように。
「イヤー、精が出マスネ」
「ふぇっ? エ、エリス先輩!?」
いつの間にか背後に先輩が居ました。てっきりみんな帰ったと思ったのですが……。
「ティーバッティングやりマショ。ワタシBall出しマスから」
「は、はい!」
言われるがままに道具を用意し、部室横のライトの下で二人きりの居残り練習が始まりました。先輩が横から打ちごろのボールをひょいっと投げてくれて、それを私が空振りします。
……いや、空振りする練習じゃないんですけどね。
「無理に腕でいこうとしないでくだサイ。脇締めて回転軸を意識して」
「はいぃ!」
ひょいっ。ブンッ! ひょいっ。ブンッ! ひょいっ。ブンッ! ひょいっ。ブンッ!
「一旦休憩しマショウカ」
結局一度もバットがボールに当たる音がしないままです。
「うう……こんなんじゃまた私だけ……」
「ウーン……シホリ、さっき素振りしていたのをこっそり見ていたんデスが、その時と今とでSwingが変わってるの気づいてマス?」
「えっ、そうでした?」
「素振りの時は結構キレイなSwingしているのに、Ballを打とうとすると力が入ってBalanceが崩れてマスネ。Batに当てようとして無意識に緊張してるのではないデショウカ」
「緊張……」
「焦らない焦らない。ちゃんとしたSwingを心がければ、そのうち結果はついてきマス」
「……そうかもしれないですけど」
私は目を伏せます。手首に嵌めた『THE☆親睦リストバンド』が目に入りました。何度見ても凄い配色です。でも一年生は毎日これを左手首につけています。
「あと二か月で大会も始まるのに……私、みんなに助けてもらってるだけで、チームになんにも貢献できてなくて……」
ノノちゃんの言っていた通り『お互いにカバーし合えること』――やっぱりそれが団体競技の醍醐味の一つ。じゃあ今の私がやっているのは何なのでしょう。
「そりゃ始めたばっかりですし、上手く出来ないのは当然だって最初は思ってましたけど……欲張りかもしれないけど、私だってもっと……」
「落ち着いてクダサイ。気持ちは分かりマスが、まずは自覚しないと」
「自覚?」
「ハイ。いいデスカシホリ、今のアナタはただのザコデス」
「ザ……」
憧れの人に面と向かって罵倒された……。心が折れそうな私に、先輩はさらに畳みかけます。
「Game始めたばかりでまだ低LevelのPlayerがPartyに貢献したければ、まずは地道にLevel上げ作業からデス。そこを面倒くさがっても何も前に進みマセンヨ」
「……知ってます」
言葉が口をついて零れました。
「知ってますよ、私がクソザコだって……だから怖いんです」
段々と視界も曇ってきます。一度漏れたものはもう止まりません。涙も言葉も勝手に流れ出していきます。
「私の打順になると、私でも分かるくらい相手ピッチャーは手を抜いて投げてきます。それでも全打席三振ですよ? 先輩方や、みなもちゃんやノノちゃん達がすごいから勝ってますけど、もし負けたら終わりの大会で私が原因で負けたりしたらどうやって責任とればいいんですか。先輩たちは本当に全力で勝とうと思ってるんですか? 本当に勝ちたいなら私なんか使わずに、もっと運動神経の良い助っ人でも探した方がずっと――」
「ワタシが負けていいと思っているとでも?」
ピシャリと言い放ったエリス先輩の眼は笑ってませんでした。……というか、そこに垣間見えたのは間違いなく、瞳の奥で燃え盛る怒りでした。『夜叉』の焔でした。
「せ、先輩……?」
「……スイマセン。つい」
炎のような形相はすぐに引っ込み、いつもの柔和な雰囲気に戻りました。
「ワタシはどんな試合でも、負けていいなんて考えたことはありマセン。ワタシは勝たなければいけないんデス。何があろうと、どんなに困難だろうと……ワタシの夢の為に」
先輩は一片の躊躇もなく、はっきりと言い放ちました。
「ワタシはMajor-league playerになる」
なる、と彼女は言いました。なりたい、ではなく、なる、と。
「メジャーリーガー……ですか?」
「今『無理だ』って思ったデショウ」
「えっ!? いえいえそんなまさか!」
「いいんデスヨ。それが当然の反応だと思いマス。今まで女性選手は一人もいないのデスから――しかし、ワタシは絶対に、絶対に、絶対に、なる」
いつの間にか空は夜が覆いをかけ始め、一つまた一つと星が瞬き始めています。先輩はその光の一つに視線を向けました。
「ワタシのパパは野球選手デシタ。パパに憧れて、ワタシは野球を始めたんデス」
「野球選手って……もしかしてメジャーで?」
私の問いに、先輩は首を横に振りました。
「ずっとMinor暮らしデシタ。生活もちょっと苦しかったデス。それでも地元で試合がある時はよくママと一緒に球場に応援に行って……AAA暮らしが長かったパパはすっかり地元の名物Pitcherになっていて、球場中からの大歓声を背にMoundに立つパパは、本当にかっこよかった……」
先輩は幼い子供に戻ったかのように、無邪気に微笑みました。
「そんなパパに憧れてワタシも地元のTeamに入って、Pitcherを始めマシタ。『じゃあEllisとパパ、どっちが先にMajorで投げるか競争だね』って、パパは冗談めかして言いました。どこまで本気の言葉だったかは分かりマセン。でもワタシはとっても嬉しくて、パパに勝つんだって頑張りました」
エリス先輩はティーバッティングに使っていたボールを左手で強く握っています。
「次の年デシタ。パパがMajorのSpring trainingに呼ばれたんデス。本当に嬉しくて誇らしかった。でも焦りマシタ。パパに競争で負けてしまう。だからワタシは必死に練習しマシタ。毎日たくさん投げ込んで……その結果、ワタシはTeamのAceに選ばれました。パパもとっても喜んでくれて……でも、それが最期の会話デシタ」
「――えっ?」
日の落ちたグラウンド。先輩の顔には濃い影が差します。
「交通事故デシタ。パパは結局、Major-league playerになれなかった……」
「そんな……」
「……事故の後、パパからPresentが届きマシタ。ワタシの誕生日の為に生前に注文してくれていた、ちょっと大きめのPitcher用Glove。それを初めて嵌めたのが、その年のMajor開幕戦――パパの追悼試合の始球式デシタ。ワタシはパパの着るはずだったUniformを着て、パパより先にMajorのMoundに立ってしまった。でも……ワタシは投げられなかった」
そこで初めて先輩は、ほんの少し声を詰まらせました。
「過度な投げ込みのせいで、ワタシの左肩はもう壊れていたんデス。もう投手は諦めざるを得マセンデシタ」
――今の先輩は右投左打。
「その後ワタシとママは、ママの実家のあるこちらに引っ越してきマシタ。右も左も分からない日本に来てワタシが最初に買ってもらったのは、右利き用の内野手Gloveデシタ」
「――野球をやめようとは思わなかったんですか?」
「全く。一度も――。信じてマスから。絶対になるって」
そう言って顔を上げた先輩。彼女の眼は爛々と光っていました。私はその目の輝きを知っています。マウンド上のみなもちゃんと同じ、人生を野球へ倒錯した者の放つ狂気の光。
「女子でMajorを目指そうと思ったら、並の名選手では駄目デス。圧倒的な実績と、鮮烈なスター性。それを手にするためなら何でもやってきマシタ。幸い自分が壊れる限界は身をもって分かったので、そのギリギリまで身体を苛め抜きマシタ。Mediaの目に留まって話題になるように美容にも気を使ってきマシタ。強豪校で勝つより、強豪校に勝つ方が話題になるので琥珀ヶ丘の推薦を蹴って金剛女子に入学しマシタ。ワタシの人生はMajor-league playerになる為の――パパの夢を叶え、パパを超える為の人生デス。何もかも自分の為。どこまでも自分勝手。そんなワタシが、貴重な自分の時間を使ってでもアナタという才能を育て上げるべきだと判断したのデス。その意味が分かりマスか、シホリ」
「え……」
「ワタシはアナタに夢を見た。自覚しナサイ。現状のダメダメさだけではありマセン。アナタに眠る未来の可能性を、世界を変え得る才能の片鱗を……自覚し、信じるのデス」
「私の……可能性……」
「アナタの持つ力は間違いなく唯一無二の才能です。磨き続ければきっといつか輝きを放つ。それを信じて、強く信じて。そしてその信頼に応える為に自分を磨き続けるのデス。自分の可能性を確信できた時、両肩の重圧なんてどこかへ消えて無くなっていマス。その時アナタは、このTeamの――ワタシの強大な力になっている」
「エリス先輩の……力に――」
それこそが私がどんな力よりも望んだことだと彼女は知っているのでしょうか。
「……私に本当に出来るでしょうか」
「大丈夫デスヨ。未来のMajor-league playerが太鼓判を押すんデスから。シホリには努力できる才能もありマスから」
そう言って先輩が取り出したのは、私のスケッチブック。
「置きっぱなしデシタけど、これシホリが描いたんデスヨネ?」
「ああっ! それ――」
止める間もなく、先輩はスケブをパラパラパラ。
「おお~上手デス! まるで漫画家さんみたいで――ん?」
ふと手を止める先輩。ああ……。
「これ、もしかしてワタシデスカ?」
先輩がスケブを裏返すと、そこには野球選手のスケッチに混じり、ついつい筆を走らせたエリス先輩の美しき姿が盛りだくさん。
「あう……ご、ごめんなさい、勝手に描いてしまって……」
「全然イイデスヨ~♪ こんなにかっこよく描いてもらっちゃて少し恥ずかし――」
再び数ページ捲ってから固まる先輩。表情は強張り、小刻みに震えています。はて、あのスケブにはどんなマズいものを描いていたでしょうか。先輩の着替え姿と裸体を気合い入れて描いたのは別なスケブだし……ってことは――
「――シ……シホリ……? こ、ここ、これは……なっ、なんっ……」
顔を真っ赤にしてカタカタしている先輩の横からスケブを覗きました。
「――ひょっ……あああああああだめええええええええええええええッッ!」
私は慌ててスケブを奪い取って抱きしめます。
「これは……! ち、違うんです! その……違うんですっ!」
「い、今……見覚えのあるマンガのキャラが……切なげな表情で服を脱いで抱き合って……」
「やめて! 詳細に口に出さないで!」
マズいです! 大変マズいです! ある意味先輩の裸婦画よりも見つかったらマズいものが見られてしまいました!
「Why……? 分からない……なぜデス……? なぜ男の子同士でエッチなことを……? 一体ドコにナニを入れて……? こ、この感情は……何……? Please tell me, Dad...」
ああっ! 野球のことしか考えてこなかった純粋なエリス先輩に私の腐った欲望を曝け出してしまいました! これはいけない! 一生の不覚です!
――こうなれば、もう腹を括るしかありません。秘密を知られたからには、もう選択肢は二つに一つ。相手を消すか、こちらに引きずり込むかです。
「……せ、先輩。このマンガ知ってるんですね」
「ハ、ハイ……日本のマンガ好きデスから……『ロマンティックダイヤモンド』デスよね? で、でもあれはそんなエ、エッチなマンガでは……!」
そう『ロマンティックダイヤモンド』、略してロマダイは今大人気連載中の熱血野球少年マンガです。怪我で選手生命を絶たれた主人公が色々あって古代ローマへタイムスリップ。人買いに囚われ奴隷となるのですが、若返って身体も健康になっていることに気づき、主人となった貴族に直談判し、屈強な剣闘士達をスカウトして野球チームを結成。たくさんのローマ市民達や、ついには時のローマ皇帝までもが熱狂するコロッセオで数々の名勝負を繰り広げるという、血沸き肉躍る男達の熱きドラマなのです!
当然少年マンガですから直接的にグフフなシーンはありませんが、私のようなプロが見れば主人公は明らかに剣闘士と毎晩肉欲に溺れてるし、貴族は主人公に気があるし、皇帝も主人公の真っ直ぐなところに惚れているに違いないと分かります。
全員男? それが何か問題でも……?
「実はですね、先輩が知らない――同人誌という、まあ有志の描いた外伝みたいなものがありまして、こういったシーンはそちらに載っているんですよ」
「ドウジンシ? そ、そんなものが……もう日本も長いのに知りマセンデシタ……」
「よければ、今度お貸ししましょうか? 薄いのですぐに読めますよ」
ふっふっふ。さあ、ご一緒に腐海へ堕ちましょう、エリス先輩……とまあ、私という悪魔の囁きによって女神が堕天しようとしていた矢先でした。
「おい」
「ひぃっ!?」
背後から何者かに声を掛けられました。飛び上がって振り向きます。
「ぶ、部長!?」
夜の帳の中に浮かび上がったのは二つの人影。どちらも全身汗だくで、息を荒げています。一つは部長。もう一つは顔を伏せているので見えませんが、おそらく鵜飼先輩。彼女は全身をだらりと弛緩させて部長に寄り添い、肩を貸されてなんとか立っている様子です。
「貴様ら、まだ残存っていたのか。なら丁度いい。こいつを頼む」
部長はそう言って鵜飼先輩の体を私達の前の地面に投げ出しました。
「あん……っ」
鵜飼先輩は小さな喘ぎ声を漏らしただけで、その場にだらりと倒れました。
「部室の鍵は我が掛けておく。あまり遅くなる前に帰れよ」
それだけ言い残し、部長は再び暗いグラウンドへ消えていきました。
「えっと……? う、鵜飼先輩? 大丈夫ですか?」
「はっ……はっ……はっ……はっ……」
目は虚ろ。さらに過呼吸になっているようです。
「ミナモ、スミマセンがミマを部室に運んでくれマスカ。ワタシは飲み物持ってきマスので」
「エ、エリス先輩、これは――」
「大丈夫、いつものことです」
事態をいまいち呑み込めませんでしたが、私は言われた通り鵜飼先輩を背負って部室へ運び込み、長椅子の上に寝かせました。エリス先輩がドリンクを飲ませると少し落ち着いたようで、段々呼吸もゆっくりになってきます。
「これでも長持ちするようになってきたんデスヨ」
「え……その、何がですか?」
エリス先輩は苦笑しながらパイプ椅子に腰かけます。
「ミマデスヨ。毎日意地でもチャチャの自主練にくっついていって……高校で初めて運動部に入ったのに、この一年で長距離走なら学年でも十本の指に入るようになりマシタ。それでもチャチャには着いていけず、毎日こうして途中でDownしてるんデス」
「その……そんなにきついんですか、部長の自主練って」
「見に行きマス?」
エリス先輩に誘われグラウンドへ出ました。部長は外野の奥、レフトポールの傍に居ます。遠くから見ていると、部長はそこから走り始め、反対側のライトポール傍まで全力疾走。その場で止まってから一分ほど休み、再び反対のポールへ全力疾走――
「……これだけですか?」
「これだけデス。毎日毎日、ひたすらPole間Dashを繰り返してマス」
「何回ぐらい?」
「ぶっ倒れるまで」
「……は?」
「意識を失って倒れるまでやめないんデスヨ。正直、ワタシから見ても気が狂ってるとしか」
「なんで……部長はそこまで……」
「勝ちたいから。他にありマセンヨ。その為にはCaptainでありAceである自分が、肉体的にも精神的にも最も強くなければならないと彼女は信じているんデス」
――みんなおかしいんじゃないですか。
何百球投げ込みしても満足しないみなもちゃんも――
無謀な夢に人生オールベットしちゃうエリス先輩も――
毎日ぶっ倒れるまで走り続ける部長も――
馬鹿ですよ。そこまでして野球したいですか。
あなた達をそこまで狂わす野球ってなんなんですか。
みんな一体どんな世界に住んでいるんですか。
「……まあ、今のチャチャには、それだけじゃないのかもしれマセンが」
「……え?」
「ああいえ、何でもありマセン」
それっきり黙って部長を見つめるエリス先輩。その視線の先で、黙々と走り続ける部長。異様な光景です。それは分かっています。しかし同時に私はその姿が、とっても気高く美しいと思ってしまったんです。
スタンドから見ていた、グラウンドで華々しく輝くエリス先輩を始めとする選手達。その彼女達を作り出した狂気に満ちた世界。内に秘めた炎のような激情と、泥のような執念――
果たして私は、彼女達と同じ舞台に立つ資格があるのでしょうか。
■□ □■
とにかく今の私が考えなくてはならないのは、ボールを打つときでも素振りのように落ちついてスイング出来るようになること。
エリス先輩曰く、自信が無いからプレッシャーを過度に感じて体が硬くなってしまうとのことです。解決するには、今できることをコツコツ頑張って自分を信じられるようになるしかない――それであってますよね?
逆に言えば私はまだ自分を信頼できるほどに頑張っていないということ。
ただでさえ技術が無いのですから人並の努力では無理でしょう。かといってあの野球に人生を侵された人達のように命の最後の一滴まで注ぎ込むほど、まだ私は野球に狂えてはいません。
では、今私にできることは?
分からないなら、基本に立ち返ってみるのが一番でしょう。私を形作る基本の基本へ。
「ここに来るのも久しぶりだな……」
その日の夜、私は二年振りにその扉を開けました。
「誰だ」
中から響いた声は、地を震わせるほどの迫力を湛えていました。
「……しほり?」
「お父さん」
ここはあるプロレス団体の道場。所謂トレーニングルーム。様々な器具が並び、部屋の中心には白いリングが鎮座しています。そこに一人残っていたのは、この団体最強のレスラー。
倉義和――第一三代WSWAヘビー級チャンピオンであり、私のお父さん。
「何しに来た。もう一生来ないんじゃなかったのか」
お父さんはにべも無く言って、私に視線も向けずにトレーニングを続けています。
「……お願いします。私にもう一度、トレーニングを教えてください」
約二年ぶりの会話。私はただ頭を下げます。
「どうしてもやらなきゃならないことが出来たの。でも私は自信が出なくて、何もできないままなの。もっと強くなりたい。弱音なんて吐く必要無いくらい強く……強い身体が欲しい。自分を疑う必要が無いくらいの力が欲しい。その為なら、私は何でもするよ」
「……ふん」
しかしお父さんは取り付く島もありません。
「お前は二年前も逃げ出したな。お前の言葉には信用が無い。今度は投げ出さないとなぜ言える? 俺だって忙しいんだ。何故そんな奴の為に時間を割かなきゃならんのだ」
「……お父さんならそう言うだろうなって思ってた。今までもそれが怖くて踏み出せなかった。でも今は違う。私にも覚悟が出来た。言葉で言っても信じられないなら、見せてあげるよ」
私は着ていたジャージを脱ぎ捨てました。
「――お前……」
「お父さん――いや、WSWAヘビー級チャンピオン・倉義和!」
ワンピース水着に肘・膝サポーター、そしてリングシューズ。
私は今日、二年続いた親子喧嘩に決着をつけにきたのです。
「私と闘えッッ!! 私が勝ったらトレーニングをつけてもらうッ!」
「……ほう。馬鹿娘が。吠えやがったな」
お父さんが放つ眼光は、完全にヒールレスラーとしてのそれでした。
「チャンピオンとしての俺に挑戦するという意味が分かるか。俺はベルトを懸けて、チャンピオンとして挑戦者を迎え撃つということだ。お前を娘とは思わないということだ」
「望むところッ!」
「いいだろう! リングに上がれッ!」
私は深呼吸をして、男たちの血と汗と涙の染み込んだ純白のリングへと上がりました。
■□ □■
「グゥッ!」
リングを舐めるとしょっぱいです。これは私の汗と涙の味。
ボディスラムで背中からマットに投げ落とされた私。呼吸の止まる苦痛に体を捩りながら俯せになります。するとお父さんはその背中に馬乗りになり、私の顎に両手を掴んで持ち上げてきます。私は強制的にエビ反り状態に。キャメルクラッチです。
「カッ……ハッ……!」
喉が詰まって息が出来ず、さらに腰がギリギリと悲鳴を上げます。
「その程度かよオラァ! テメエの見せてえ覚悟ってのはよォ! だったら辞めちまえ野球なんざ! どうせまた辛くて逃げ帰えんじゃねえのか! どうなんだオラァ!」
有言実行。お父さんは娘相手でもお構いなく投げるわ打つわ絞めるわ極めるわです。トレーニング直後で疲れているはずのお父さんに、私は一切ダメージを与えられないまま。
キャメルクラッチを解かれましたが私は動けません。視界が揺れます。魂が抜けそうです。でも敵は手を休めてくれません。
「立てオラァ! 悔しくねえのか手も足も出なくてよォ! 負け犬のまま終わりかオラァ!」
お父さんは私の髪を掴み、無理やり立たせてきます。私は痛みに呻きながら、しかし素直に立ち上がります。倒れても倒れても命のある限り立ち上がる、それがレスラーなのです。
見せてやりますよ、私の覚悟を。
打席というリングに上がることを決めた、闘士の矜持ってやつを。
お父さんはロープへ走って、反動で跳ね返りスピードを増して真っ直ぐ突進してきます。
「ゥウォリャァ!」
私の二倍はある全体重を乗せた、必殺のラリアット。
怖がるな……焦点合わせて……よく見て……掴めッ!
振るわれる右腕を迎え入れるように両腕で掴まえて、巻きつくように身体を持ち上げ、お父さんの後頭部を蹴り倒します。
「ヌゥッ!?」
ラリアットの勢いのまま前転して仰向けに倒れるお父さん。その右腕をしっかり掴んだまま両足で挟み、肘を逆に伸ばすように倒れ込みます。
カウンターの飛びつき式腕ひしぎ逆十字固めです。完璧に決まりました。
「悔しいよ! 私だって頑張ってるのに私だけなんにも出来てない! 相手には露骨に舐められてるし! こんなんじゃ負け犬どころかみんなのお荷物だよ! こんなの嫌だ! 強くなるんだ! 私のダメなところをカバーしてくれるみんなを背負えるくらい強く! その為なら私はどんなことでも出来る! お父さんにだって勝てるんだあああああああああッ!」
最後の力を振り絞ってさらにお父さんの手首も千切らんばかりに極めます。
「ヌゥゥゥッ……!」
ギリギリと腕の軋む音が聞こえます。相当な痛みのはず。しかしそこはやはりチャンピオン。タップなどしません。
「フンッ!」
両足を振り上げて後転。私を右腕にぶら下げたまま一回転して立ち上がります。
「わっ、わっ、わっ……」
「二年サボってた奴がちょっとやる気出したからって……俺に勝てるわきゃねぇだろうがァ!」
そのまま私を片腕で持ち上げ、マットに叩きつけます。
「グェァッ……!」
私の意識は一瞬飛びます。腕ひしぎも解いてしまいました。
仰向けに横たわった私の両足をお父さんは両脇に抱え込み、そのまま回れ右をしながら私を俯せにひっくり返して、腰を落として私の身体を無理やり反らせます。
逆エビ固め。再び私の腰は悲鳴を上げます。
「ンングギギギィ……!」
必死に手を伸ばすもロープは遠い。力を使い果たした私に、これを返す余力はありません。
「グッ……ウウウウウゥ……ッ!」
震える手でマットを数度叩きます。ギブアップのタップです。
私は解放されました。つまり、私は負けたのです。
「ハァッ……ハァ……ヴゥー……グゾッ……グゾォ……ッ」
あんなに大見栄切ってこの体たらくです。なんと無様な負けっぷりでしょう。よだれ垂らして、涙流して、何度マットを舐めさせられたか。
親子喧嘩は私の完敗です。
「テメエの負けだ、しほり」
勝者の特権、マイクパフォーマンス。お父さんは息も荒げず仁王立ちして、倒れ伏して動けない私を見下ろしています。敗者に反論の権利はありません。
「忘れんじゃねえぞ、この敗北を。お前は弱い。本当に強くなりたきゃあ、二度と惨めに這いつくばりたくなきゃあ、そっから自力で這いあがれ。自分で壁を壊せ。強くなれ、しほり」
「おとう……さん……?」
なんだか励ますようなことを言ったお父さんは、私の目の前に分厚い書類の束をバサッと落としました。
「トレーナーと相談して作った野球選手用のトレーニングメニューだ。道場も開けておく。自由に使え。何かあったら……相談しろ」
「お父さん……」
もう、何なんですか。いつから用意してたんですかこんなの。どんだけ意地っ張りなんですか……ってまあ、それは二年間も口訊こうとしなかった私も人のこと言えませんけど。
私はゴロンと仰向けになって、大きく深呼吸。
「はぁー……あははっ、やっぱりお父さん強い」
「当たり前だ。チャンピオンだぞ俺は」
「でも手抜いてたでしょ」
本番のリングで使うような激しい技は出さなかったし、関節技も痛かったけど手加減してました。野球に支障が出ないように。
お父さんは一瞬黙って「馬鹿野郎」と言いました。
「あれがオヤジが娘に出せる全力なんだよ。……なあしほり」
「何?」
「お前、ホントにプロレスやる気ないか?」
「……ごめん。私、もう野球にハマっちゃったみたい」
「そうか……頑張れよ」
「うん」
この日を境に私は身も心も――根っこの根っこから、野球選手になりました。人生を担保に入れて、野球という大海へと漕ぎだしたのです。
もう戻ることはありません。