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【6】狂え その4

 六回表、端から打つ気の無さそうな楓恋を三振。小波あかりをキャッチャーフライ。新條純をサードゴロと、テンポよく抑えた茶々。スタンドから固唾を飲んで見守っていた大学四年生の兄・藤原新一はほっと胸を撫で下ろす。

「お兄さんも一安心かな」

 隣に座る、女優か何かかと見紛う程の美貌とオーラを持ちつつ、どこか儚げで瞳に憂いを帯びた痩せ型の美女――エリスの母・遥が微笑みかけた。

「部長さん、もう大丈夫そうね」

「はい、ホントに……良かった」

 新一は大きく息を吐くと、口元を片手で覆った。

「この一年、あいついつも辛そうだったから……。誰にも弱味を見せないように、俺の前では特に無理して明るく振る舞ってて、それがホントにキツくて――『ああ、俺は頼れる兄貴にはなれてないんだ』って」

「そりゃそうよ。誰だって、好きな人には自分の一番輝いてるところだけを見てほしいものよ。特にあの妹さんが愛しのお兄さんに自分から弱味を見せたがるわけないじゃない」

「はあ……」

「んもう、煮え切らないんだから」

 悪戯っぽく笑う顔はエリスそっくりである。

「頼ってほしかったら自分からあと一歩歩み寄らなきゃ。いい加減覚悟決めなさい。おばさんは応援しちゃうわよ、禁断の関係ってやつ♪」

「はは……や、やめてくださいよ」

「ほらまたそうやってヘタレる。確か彼女さんとかいないんでしょ? 男見せなさいよ甲斐性無し。女に恥かかせる気?」

「ちょ……わ、分かりましたから、近い! 近いです!」

 美しき未亡人に挑発的な笑顔をグイグイ寄せられてたじたじになる新一。

『六回の裏、金剛女子学院高校の攻撃は、七番・セカンド・鳴楽園さん』

「ほ、ほら攻撃始まりましたよ! 応援しなきゃ!」

「んもう……」

 新一はなんとか遥の追撃を躱すことに成功。二人は他の応援団と共に打席の彰子へ声援を送るが、残念ながらセカンドゴロに倒れた。

「――それにしても、暑いわね……」

 遥がハンカチで胸元の汗を拭いながら呟いた。試合が始まってもうすぐ一時間半。一番高いところへ上り詰めようとしている夏の太陽が容赦なくグラウンドを焼き焦がす。

「そうですね……」

 新一はペットボトルに口を付けたが、もうお湯みたいになっていたスポーツドリンクは一口飲んだだけで底をついた。

「あ、無くなっちゃった……」

「あら、それじゃ私のまだ残ってるから飲む?」

 遥は鞄から二リットルの大きなペットボトルを取り出した。

「凍らせて持ってきたの。まだ結構残ってるから遠慮せずにどうぞ。熱中症になっちゃう」

 新一はランスフォード夫人から差し出された飲みかけのボトルを前に固まった。

(この人はわざとやってるのか……?)

 悶々とする新一を見つめる遥は、ただ無邪気な顔で首を傾げるだけ。

(これは試されているのだろうか。女に恥をかかせない甲斐性のある男になれるか否か――)

 ついに新一は意を決した。

「そ、それじゃいただき――」

「あの、すいません」

 突然背後からくぐもったような響きの野太い男の声。

「よろしければ、これ……どうぞ」

 びっくりして後ろの席を振り返った新一の目の前にいたのは、あの筋肉モリモリマッチョ謎マスクマン。この猛暑の中、いかにも辛そうなフーフーという荒い息をしている。そしてその両手にはストローの刺さったプラスチックの蓋つきコップ。中には何やら赤い液体。

「……えっと……」

 思わず目を見合わせる新一と遥。

「どうぞ……」

 マスクマンに再度勧められ、新一は観念してコップを受け取った。とても冷たい。

「フーフー……そこの屋台で売っていた、トロピカル……ふろーずん? ドリンクとかいうやつです……。暑いので、どうぞ、遠慮せずに……フーフー」

 そう言って遥にもコップを渡すと、マスクマンは椅子の上に置いてあった自分用のコップを手に取る。マスクを捲って髭の生えた口元だけ出すと、ストローを咥えチュウチュウと美味そうに飲んだ。

「い、いただきます……」

 この暑さの中でフローズンな誘惑には勝てず、新一は意を決して飲んだ。

「……おいしい」

 しばし三人は無言でチュウチュウ。

「ごちそうさまです。ところで――」遥がついに尋ねた。「どなたか部員の父兄の方ですか?」

「あー、はい。フーフー、ええ、まあ」

 マスクマンは言いづらそうに口ごもるが、このままではただの不審者なので観念した。

「フーフー……その、倉しほりの父です」

「ああ、一年生の倉さんの! はじめまして、エリス・ランスフォードの母です。こっちは部長の藤原さんのお兄さんの新一くん」

「はじめまして……ん? 『倉』……?」

 新一の脳内に電流が奔った。

「――ずっとどこかで見覚えがあった……そのマスク。倉が若手時代メキシコ武者修行に行ってた頃、マスクマンのショーグン・ヨシとしてリングに上がってた時に被ってたやつですよね」

「……き、君はプロレスに詳しいんだな」

「そんなマイナーなマスクなのにレプリカとは思えない程作りが精巧だ。あなたもしや――」

「違う」

「……倉義か――」

「違う」

「…………」

「それにショーグン・ヨシと倉義和は別人だ。フーフー……」

「……分かりました」

 新一は大人しく矛を収め席に着いた。プロレスラーが別人だと言えば別人なのだ。

「――断じて私は倉義和ではないが……」

 しかしマスクマンは続けて――

「しほりが私より強いのは本当だよ」

 そう呟いた。と、その時――

「ンほぁァグふぃぃぃぼぉっぽぽぽぽぴぷはぁァぁッん!」

 二死から打席に立ったみまが尻に死球を喰らい、けたたましい喘ぎ声と共にグラウンドをのたうち回った。

「……あの子いつもああなの?」

 戸惑うマスクマンに答えず、新一と遥は気まずそうに目を逸らした。

 次打者のノノはセカンドゴロに倒れ、チェンジ。

 4-2。琥珀ヶ丘リードのまま変わらず、試合はついに運命の最終回へ突入する。


■□   □■


 私は人形だった。人の形を持ってこの世に生まれてからずっと、私は空っぽだった。お母さんは毎日楽しそうに私を着せ替え人形にして写真を撮るだけで、私が何かを喋ることは求めなかった。お父さんはそんな私に悲しそうな目線を送るだけで何もしてくれなかった。

 そんな私にも友達がいた。近所の藤原さんちの茶々ちゃんだ。いつもお兄ちゃんにくっついてる泣き虫な子だったけど、何も口答えしない私には強気になれたみたいでいろんな遊びに引っ張っていった。茶々ちゃんと一緒に見たものが、家の外の世界の全てだった。結局茶々ちゃんに言われるままになってたけど、茶々ちゃんの人形になれるなら幸せだと思った。

 小学校に上がったら、茶々ちゃんが野球というものにハマりだした。お兄ちゃんがリトルリーグで活躍してるとかで、自分も同じチームに入ると言い出した。私も当然一緒にやりたかったけど、お母さんは許してくれなかった。だから私は勝手に参加した。茶々ちゃんと一緒にグラウンドを転げまわり、ドレスを泥だらけにして帰った。初日はとても怒られたけど、一週間連続で泥だらけで帰る頃には「分ぁかったから。もう降参。ユニフォームも買ってあげるからドレス汚すのはもう勘弁」と根負けさせ、茶々ちゃんと同じチームに入った。

 入団したは良いけど、みんな本気で頑張ってるリトルリーグじゃ今までのようにはいかなかった。茶々ちゃんはメキメキ上手くなっていて、きっとそのうち中心選手として活躍する。私が茶々ちゃんと一緒にいるためには、私も上手くならなきゃいけないと思った。

 だから素振りを始めた。毎日毎日バットを振った。朝起きたらバットを振り、ご飯食べて学校行って給食食べたら昼休みにバットを振り、家に帰ったらバットを振り、晩ごはん食べたら眠くなるまでバットを振り、夢の中でもバットを振った。お母さんは「我が娘ながらこの子もしかしてヤバいのでは……?」とドン引きしていたけど、お父さんは悲しい目をしなくなった。

 四年生になる頃には、手のひらはマメも出来ない程に硬くなった。でも野球は全く上手くなっていなかった。茶々ちゃんは十歳以下の部の試合に出たりしてたのに、それをベンチから応援することしかできなかった。このままじゃ茶々ちゃんと一緒にいられない。焦る気持ちに掻き立てられ、毎日泣きながらバットを振った。

 ちょうどその頃、とんでもない衝撃に見舞われた。

 小学校の保健体育で、性教育の授業があったのだ。

「愛し合う二人のパワーが奇跡を起こし、お母さんのお腹に溜まってたウンコに命が宿って、人の形になって出てくる。そうやって赤ちゃんは生まれるんだよ。マジでマジで」というお母さんの言葉を信じていた私の幼い幻想は砕け散った。何よりもショックだったのは、女の子同士の私と茶々ちゃんでは赤ちゃんが作れないということだった。

 茶々ちゃんとずっと一緒にいる。それはつまり茶々ちゃんと結婚して家族になって一緒に暮らすということで、ということは当然子供も作るのだと自然に思い込んでいた。どおりで「私ね、最近便秘気味なんだ」って子作りを誘っても、茶々ちゃんは微妙な表情しかしないわけだ。

 その夜の素振りは完全に上の空だった。

 なんで私と茶々ちゃんは女の子同士なんだろう。私が男の子だったら茶々ちゃんのお腹の中で赤ちゃんが出来るのに。私のバットから放つ白球を茶々ちゃんのミットにキャッチしてもらえたのに。私にも茶々ちゃんにもモノは付いてなくて、あるのは赤ちゃんのお部屋だけ。

 教科書の挿絵で見た子宮を思い浮かべた。私のお腹の中、おへそのちょっと下あたりにそれはあるらしい。こんなもの要らなかったのに。私が本物の人形だったら、簡単に男の子のパーツと取り換えられたのに――そんなことを考えていたら、ふと気が付いた。

 素振りの音が明らかに変わっていた。

 子宮のことばかり考えてボーっとしながらスイングしていたことにより全身の力が抜け、身体の中心である腰の動きに意識を集中しつつバットの重量を利用して振り下ろす感覚が自然と掴めていた。特に力を入れて振ったわけでもないのに、いつもより鋭く、力強くバットが振れていた。

 その後はひたすらその感覚を自分のものにする為に励んだ。図書館で女の子の身体の仕組みに関する本を読み漁り、音楽の時間に習った腹式呼吸も取り入れ、いかに子宮へエネルギーを送り込むか、いかに身体の余計な力を抜くかを小学生なりに求め続けた。そんな日々が一年ほど続いたある朝、私は初潮を迎え、自らの身体感覚が完全になったことを悟った。

 その日から私は別人になったかのようにチームで躍動した。頭のてっぺんからつま先まで、自分の身体がどう動き、どうスイングすればヒットが打てるか、手に取るように分かった。エースになった茶々ちゃんと一緒のグラウンドに立ち、一緒に活躍して、一緒に笑い合った。中学生になっても同じ強豪シニアチームに入団し、一緒に一年生から頭角を現していった。その頃から茶々ちゃんは自分のこと「我」とか言い出した。

 この先もずっと一緒にプレーしていくんだと信じてた。でも琥珀ヶ丘からスカウトを受けたのは私だけだった。

「琥珀ヶ丘に進学()かないだと……!?」

「うん。茶々ちゃんと同じ高校に行くの」

 当然の話をしたのに、茶々ちゃんは頭を抱えてた。

「サラ……これがどれだけ凄いことか理解(わか)っていないのか? あの琥珀ヶ丘がサラを欲しいと言っているんだぞ?」

「でも私は茶々ちゃんと一緒に……」

「……確かに、我ら二人で全国に名を轟かすのも一興かもしれん。だが袂を分かち、異なる軍団(チーム)に進んだ方が、我らはより強くなれると思う」

「…………」

「琥珀ヶ丘はサラを選択(えら)んだ。貴様は我を超えた。だが我はまだ強くなる。貴様を超えるためにな。その繰り返しが我らをさらに高いレベルへと押し上げるだろう」

「同じチームだって対戦は出来るじゃん」

「ああ。ただし練習の中での話だ。殺るか殺られるか、負けたら終わりの一発勝負。そんな極限の集中状態でこそ人は爆発的に進化する。その為には、互いの軍団(チーム)の命運を背負って殺し合わなければ……『敵』にならねば駄目なのだ」

「…………」

「……ねえサラ」

 私が黙ってふくれていると、茶々ちゃんは昔の口調に戻って優しく言った。

「もうサラは昔のサラじゃない。わたしを追っかけてるだけの人形じゃないよ。今サラはわたしの前を走ってる。わたしは……サラに勝ちたいって思ってる」

「……私は――」

 ――それでも、茶々ちゃんと一緒に居たかった。

「それに、サラとわたしはずっと一緒なんでしょ? それなら違う道を選んでも、きっとそのうちすっごく運命的な場面で再会できる気がするんだ。そう思わない?」

「……そう、だね」

 私は琥珀ヶ丘への進学を選んだ。結局私は茶々ちゃんに言われるがままの人形だった。

 高校生になった私は、ひたすら野球に打ち込んだ。もう私と茶々ちゃんを結ぶものは野球しかなかったから。いつの間にか四番になってて、怪物呼ばわりされてたけど、茶々ちゃんと再び会える日を夢見ながら、ただバットを振っていた。

 ――そして、あの日を迎えた。運命って、なんて残酷なんだろうね。

「雁野、ぼーっとして大丈夫? そろそろ準備しないと」

「……ん、小波。ありがと。ちょっと考え事してた」

 プロテクターをつけたままの小波に声を掛けられてグラウンドに目をやると、バックスクリーンのアウトランプが一つ。打席に霧ヶ峰。あと吉野が二塁に立ってた。

「……今どうなってるの?」

「先頭の興津がセンターフライ。吉野がファースト強襲ヒット打って、今盗塁した」

 茶々ちゃん打たれてるじゃん。マウンド上の茶々ちゃんは一見平静を装ってるけど、私にはわかるよ。相当キてる。変化球、特にスライダーとシュートが曲がらなくなってる。疲れ溜まってる? それとも私との対決に備えてギア落としてる? 甘いよ。

 ヘルメットを被ってバッティンググローブをはめてバットを持って、その間に粘りに粘ってた霧ヶ峰が四球をもぎ取って一塁へ歩いてた。打席へ向かう梶。私はネクストバッターズサークルに立って、茶々ちゃんの姿を見つめる。

 この一年間、また私は空っぽだった。左目が見えなくなったことなんてどうでもよかった。

 茶々ちゃんと一緒にいること。その手段としての野球。私を構成してたただ二つのこと。

 両方とも無くなっちゃって、半分になった視界でずっと天井を見上げてた。

 怪我が治ってチームに復帰してもなんかやる気出なくて、この大会が終わったら野球やめようと思ってたんだよ。

 そんな時、私はあの子と出会った。ふらりと立ち寄ったバッセンで良い音を奏でる女の子。ヘタクソだけど、誰かと一緒に居る為に必死でバットを振ってた。ボールに掠りもしなかったのに、その姿はとっても楽しそうだった。それで私気づいたんだ。

 茶々ちゃんと一緒にプレーするために泣きながらバットを振ってたあの頃の私。

 茶々ちゃんが好きだった。

 茶々ちゃんと一緒にする野球が好きだった。

 茶々ちゃんが好きな野球が好きだった。

 ――私って、野球が好きだったんだって。茶々ちゃんと一緒にまた野球がしたいって。

 そして決めたの。誰に言われるでもなく、私が自分で決めたの。茶々ちゃんに会いに行く。もう人形は終わり。茶々ちゃんがイヤって言っても気にしないもん。今度は私が茶々ちゃんを引っ張り出す。そして茶々ちゃんのお望み通り、最強の『敵』として立ちはだかってやる。

 全部全部、私がそうしたいから。

「小波、今までキャプテンありがとう」

「……なに急に気持ち悪い。雁野の感謝の言葉なんて初めて聞いたぞ」

「別に。なんか言いたくなったの」

「ふーん。ホントまとめんの大変だったぞ。棗田はわがまま言うし。まあ一番苦労させられたのはお前だけどな」

「そうだったよね。でも私、楽しかったよ?」

「ホントに気持ち悪いな。普段あんま喋んないくせに。ほら、トドメ刺してこい!」

 苦笑してる小波に頷いた。打席の梶はしっかり送りバントを決めて、ベンチに帰ってくる。右手を開いて迎えると、梶は驚いた顔をしたけど思い切りハイタッチを返してきた。

 さてと、行こう。約束の待ち合わせ場所で、大好きな人が私を待ってる。

『四番・ファースト・雁野さん』

 いつものようにシンと静まったグラウンド。逢瀬を邪魔するものは何もない。

野球(おはなし)はもう満足したか?」

 茶々ちゃんが笑ってる。嬉しい。私は頷いた。

 関東大会決勝戦最終回七回表2アウト二・三塁。点差は二。四点差に広げて琥珀ヶ丘の勝利を決定的にするか、二点差のまま金剛女子が最終イニングに望みをつなぐか。

 これが茶々ちゃんの……そして私が望んだ未来。

「そうか……ならば――野球(ころしあい)をしようか」

「うん」


■□   □■


 ガキィンという金属音を響かせて、打球はバックネットを越えてった。

「ファール!」

 コールした球審は手持ちの球が切れたようで、駆け付けたボールガール(ウチの部員)から新しいボールを受け取っている。

「今ので何球目?」

 その間にキャッチャーのメガネっ子に訊いてみたら、球審から受け取ったボールを茶々ちゃんに返球してから答えてくれた。

「十六球目です」

「ふーん」

 とっくの昔にフルカウント。そこからずっと捉えられずにファールが続いてる。

 口が勝手に笑みの形に歪んじゃって戻らない。すっごいよ茶々ちゃん。夢みたいな時間。

 ここまで全球インハイ。ギリッギリのコースに寸分違わずキレッキレのストレートをビッタビタ。頭おかしいんじゃないの、なんて台詞は今更だよね。野球上手い人なんて、大概頭おかしいやつだらけなんだから。

 十七球目――またインハイストレート。当然打ちにいく。でも前に飛ばない。ファール。

 一球ごとに球威が増してくる。これが爆発的な進化って奴? まるでボールが私の心臓を撃ち抜きに来てるみたいな殺意と迫力。そしてそれを煮詰めて濃縮したみたいなオーラがマウンド上からこっちを視線で殺そうとしてくる。

 だから私も茶々ちゃんを斬り殺す為にバットを振るう。

 十八球目――インハイストレート。コースが微妙……だけど今日の球審だと見逃すと三振になりそうなのでカットしとく。

 敵同士になろうなんて言ったあの時の茶々ちゃんの気持ち、今なら分かるよ。なんて濃密な時間。この一試合、この一打席が、これまで私達が築いてきた全てに匹敵するくらい満たされる剥き身の心のぶつかり合い。お互い手の内を晒し尽くして、心の内を晒し尽くして、まるで片手を恋人繋ぎしたまま、もう片方の手で死ぬまで殴り合うみたいな。

 そう、これは命のやり取り。私と茶々ちゃんじゃ新しい命を作ることは出来ない。だからお互いの命を削り合おう。今この瞬間を、私達だけの愛の結晶にするために。

 十九球目――インハイストレート。捉えたけど一塁線切れてファール。

 どうしたの? まだやれるでしょう? いつまでも同じ手は通じないよ? ほら来て? 殺しにきて? 分かってるでしょ? 分かってるよ? ずっとこうしてたい? 違うよね? そろそろかな? いつでもいいよ? 全部だよ? 残り全部だよ? ありったけ込めて終わらせにきて? 私を殺しにきて? 殺してあげる。

 ニ十球目――うふふふふふ……あはははは! ど真ん中。シンカー。

 見えた! 見えたよ! 右手から! 離れる瞬間から! 来たね! 私を! 殺しに! シンカー! こだわってたもんね! 決め球! 来ると思ってた!

 一度浮き上がってくように見えたところから、私の膝元へ滑り落ちるみたいに消えてく。茶々ちゃんの伝家の宝刀。見惚れるような軌道。狂おしい曲線美。

 さあ、私はこれを一刀のもとに斬り捨てる。さてどこまで落ちる。どこまで曲がる。昔の茶々ちゃんじゃないんだ。どれだけ進化した。もっとか。まだか。すごい。ここまでいくか。まだいくか。どこまで逃げる。ここはもうゾーンの外。私の打てる範囲外。いや違う。私だって進化しろ。ここで進化しろ。爆発的に進化しろ。打てる打てないじゃない。私はこれを打つ。この一振りで。死んだっていいんだ。今の為に生きてきた。茶々ちゃんを打ち殺す為に。今これを打てる私になれ。

 スイングの途中から体を無理やりくの字に曲げ、左脇を開いて肘を抜き、バットをゴルフスイングのように立て、膝下へ逃げるボールを捉まえ、右手を押し上げ、右足を踏ん張り、背筋を使ってカチ上げるように振るった。

 グラウンドに響く金属音。青空に舞い上がる白球。

 その瞬間、やけにのんびり揺れる世界で、私は確かに聞いた。

「――さすがだなサラ。それを当てるとは。絶対空振るかと思ってた」

 苦笑したような茶々ちゃんの声。だから私も答えた。口は動いてないけど、確かに答えた。

「――私はまだまだ上手くなるよ。誰よりも。でも今回は……」

 ボールは真昼の日差しを受けて輝き、ゆっくりと落ちていく。

「……茶々ちゃんの勝ちだね」

 軽い音を立てて、ボールは茶々ちゃんのグラブに優しく受け止められた。

 最終回、私達の最後の攻撃はピッチャーフライでスリーアウト。その瞬間、一斉に沸く金剛女子の応援団。拳を握ってベンチへ戻る金剛女子の選手達。

 その中で、数秒私達は見つめ合った。

「それじゃあ――」

 茶々ちゃんがキャップのつばに手をやって言った。私はヘルメットを外し脇に抱え応えた。

「――またね!」

 そして同時にそれぞれのベンチへ歩き出した。私は振り返らなかった。茶々ちゃんもきっとそうだと思う。次に会うのはどこだろう。大学かな。それともプロ?

 でも絶対に、今日より楽しくなるはずだよね。


■□   □■


「物足りない。そうだろ?」

 不敵な顔で腕を組み、茶々はそう切り出した。七回裏、最後の攻撃チャンスの前にチーム全員をベンチ前に集め円陣を組んだのである。

「三回表からの登板だったからな、まだまだ投げ足りんのだ。我はあと十イニングはいけるぞ」

 茶々はニヤニヤ笑いながら全員の顔を見渡す。

「貴様らもそうだろう。まだ野球し足りないよなあ。まだまだ暴れ足りんよなあ」

 数人がうんうんと頷き、ノノが「そうだそうだ!」と新人議員みたいなヤジを飛ばす。

「道は続くぞ。今日の先には全国の猛者共が。日本一の頂が我らを待っている!」

「そうだそうだ!」「よっ、日本一!」「ヒューヒュー!」

「流れはこちらにある。打順も良い。天は我等に味方している!」

「おう!」「そうだ!」「おっしゃる通り!」「キャーッ! 茶々様ーッ!」

「二点差がなんだというのだ! テニスならエース一本で十五点も入るのだぞ! 軽い軽い!」

「…………?」

「……うむ、今のは我のボケがエマージェンシーすぎたな。すまん」

 茶々は咳払いをして「ともかく」と続けた。

「あー、棗田はピッチングスタイルを変えてきている。あのムービングは厄介だ。しっかりボールを見極めて、引き付けてコンパクトに打ち返そう……と考えると術中に嵌る。そうだな、ランスフォード」

「そうデスネ」

 エリスは身振り手振りを交えつつ語る。

「中途半端が一番いけマセン。転がすならしっかり転がす。打つならしっかり振る。金属Batデスから、多少芯を外れようが強い打球を飛ばせれば十分ヒットになり得マス」

「ということを頭に入れつつ」茶々が後を受けた。「打席でしかと暴れてこいッ! いいなッ!?」

「オーッ!」

 全員で鬨の声を上げ、円陣が解かれる。金剛女子応援団から最後の力を振り絞るような声援がグラウンドに木霊する。

「さあ打て蓬! ノノまで打順回しなさい!」

「はいはい」

 コーチャーズボックスに入ったノノの声に生返事しながら蓬が右打席に立った。マウンド上のザンバラ楓恋を見据える。アイドルがしてはいけないような鉄面皮。

(私だけ打席で動く球見てないのよね。まずは見とくか)

 振る気の無い蓬に対する楓恋の一球目は、意図を見透かすかのような真ん中へのチェンジアップ。ストライク。

(んー思ったより冷静。焦った方が負けか)

 そして二球目――外角に速球。

「!」

 蓬は見逃す。判定はボール。

(なるほど……今のがムービングファスト)

 スピードは今までのストレートと変わらないが、シュート回転して外へ切れた。

(これで曲がる方向が不規則とか……基本的に球の出所が見えにくいフォームだから見てから振ったんじゃ間に合わないし……厄介ね……)

 第三球目、今度は内角膝元に速球。今度はカットボールのように内側に食い込んでくる。

(これも外れてる。コントロールはかなりばらついてるわね)

「ストライッ!」

「!?」

 ボールと思って見逃した蓬は球審のコールに目を剥く。

(表はそれ取ってくんなかっただろ! 集中切れてんぞ審判!)

 とはいえ仕方がないのでグッと噛み締めて構え直す。

(うーむ、打てる気がせん。ゴロで内野の間抜けてくれんの祈るか……いや――)

 四球目、高めの速球――それが投じられる瞬間、蓬はバントの構えをとった。

(『転がすならしっかり転がす』ですよね!)

 セーフティバントと見るや、一塁手と三塁手が猛烈に詰めてくる。蓬が狙うは、その一塁手と投手の間あたりにやや強く転がすバント。投手か一塁手か二塁手か、誰が捕って誰がベースカバーに入るのか一瞬迷うくらいの位置。その一瞬で一塁に飛び込む。どんな形だろうがヒットはヒット。しかも普通に打つよりムードは盛り上がる。

(シュート気味、スライダー気味、どっちに曲がろうがボールはやや沈む)

 軌道を計算しながら、横にしたバット越しに見える球を待ち構える。

(さあどっちにどんくらい動く? どっちに……どっち――えっ……?)

 曲がらなかった。沈みもしなかった。そのまま真っ直ぐ到達した速球は金属バットに衝突し、軽い音を立てて跳ね返る。かなりの勢いで正面やや右へ。

「ヤバッ!」

 一塁へ全力で走る蓬。しかし楓恋が落ち着いて打球を処理。ファーストへ送球され余裕のアウト。蓬はヘッドスライディングすらさせてもらえなかった。

「クッソ……動かないパターンもあんのかよ……!」

 最後の速球は前半の楓恋が投げていた完全なフォーシームだった。ムービングが強く印象づけられていた蓬の頭からすっぽり抜けていた球だった。

 これでワンナウト。金剛女子の命はあと二人。


■□   □■


「ファイトー! 見えてるよ蓬ちゃーん!」

 はいどーも倉しほりです。それは蓬ちゃんの打席の最中。ベンチから必死に声援を送っていた時のことでした。

「あれ? まだ負けてるの?」

 その声を聞いた私は驚いて振り返りました。

「みなもちゃん!」

「よっすよっす」

 みなもちゃんが能天気にへらへら笑って立っていました。

「おお玉響。もう寝ていなくてもいいのか」

 腕を組んで試合を見守っていた部長が出迎えると、みなもちゃんは気まずそうに頭を掻きました。

「はい、もうみんなのところ行っていいって医務室の人が。部長……あの――」

「今更謝罪などするな半人前め。むしろ謝るべきは我かもな」

 部長はスコアボードを親指で示してニヤリ。

「すまんな。貴様の出したランナーだけ還してしまった」

「……つまり私が自責点4」

「そして我は自責なし。不満か?」

「まさか。やっぱりエースは流石です」

 みなもちゃんもニヤリと笑って、二人は互いの右拳をコツンとぶつけ合いました。

「――で、そんなことよりしほりんさぁ~」

「な、なにかな……?」

 たじろぐ私にみなもちゃんはじっとりとした目。

「『絶対に私を負け投手にしない』とか言ってたけど、進捗の方はどうかね」

「うぐ……」

 死力を尽くしたみなもちゃんに声を掛けてあげたくてつい言っちゃった出来もしない約束……さすがに格好つけすぎましたよね……。

「こ、このイニングで追いつくもん。みんなで頑張ろうって円陣組んだし……」

「『みんなで』ねぇ……てっきり『私がホームラン打って決めてくるからみなもちゃんは枝豆でも食べながらのんびり観ててよ!』くらい言ってくれると思ってたんだけどなぁ?」

「や、やめてよプレッシャーかけるの……!」

 あわわ……手が震えてきます。

「緊張してどんどん打てなくなるだけだよ……。私なんかじゃそういうのまだ背負えるレベルじゃないし、とりあえず気楽に精一杯頑張ってみるから……ねっ、美鶴ちゃん?」

「えっ? ああ、そうだね」

 横で準備していた美鶴ちゃんはいきなり話を振られて驚きつつも頷きました。

「ふーん……」

 しかしみなもちゃんは不満顔。

「まあいいんじゃない? それで結果が出せるタイプなら」

「ん……それはどういう――」

『三番・ショート・ランスフォードさん』

 美鶴ちゃんが聞き返そうとするのを遮るようにアナウンスが響きます。

「ほらミッチー早くネクスト行かなきゃ」

「あ、うん」

 慌てて出ていった美鶴ちゃんと入れ替わりに、顔を顰めた蓬ちゃんが戻ってきました。

「お帰りもぎちゃーん」

「あ、玉響。生きてたかお前。つーか戻ったんならベースコーチやれよ」

「はいはい、話が終わったらね」

 みなもちゃんは蓬ちゃんのキツい視線をいなして私に向き直ります。

「私がしほりんを野球の道に引きずり込んだの、結構な覚悟の上なんだよ?」

「え……?」

「私ね、世界一のピッチャーになりたいの。どんな凄いバッター相手でも真正面から捻じ伏せちゃう、そんな最強のピッチャーが私の最終目標。……まだまだ遠いけどね」

 みなもちゃんはチラリと部長に目をやって続けます。

「言ったよね私。『しほりんが敵じゃなくてよかった』って。あれ本心だから。それくらいピッチャーにとってしほりんのパワーは怖い。今は味方だからいいけど、卒業した後もそうかは分かんないし――というかずっとチームメイトでいられる方が珍しいよ。遅かれ早かれ、しほりんは私の敵になる。最強のピッチャーを目指す私に、きっと立ちはだかる」

「そんな先のこと言われても……」

「昔、プロレスやってたころのしほりん見て、私憧れてたんだよ」

「っ……」

「プロレスラーの人達なんて小っちゃい私からしたら化け物みたいにおっきいのに、楽しそうにそこに混じって暴れまわっててさ。すごいなーっていっつも思ってた」

「別に……遊んでもらってたようなもんだよ……」

「そうかもね。ホントに楽しそうだったし。だからおじさんと喧嘩してプロレス辞めちゃったしほりんは、なんにも面白くなさそうでさ。『人生ってつまらない』って顔ずっとしてた」

「……」

 多分、みなもちゃんの言う通りだったと思います。お父さんと仲悪くなってからの私は、ただうじうじ意地張ってるだけの暗い子供でした。心の穴を埋めるようにBL趣味は加速し自分で描いてみようと絵を練習した時期もありましたが、結局それすら長続きしない体たらく。

「だからさ、何でもよかったんだよ。しほりんがプロレスの代わりに熱中できるものなら。つっても私野球しか知らないから他に選択肢無かったけど。最近のしほりんは楽しそうでさ。嬉しいよ。私は間違ってなかった。今のところは」

 みなもちゃんは真顔になって私の目をじっと見つめてきます。

「しほりんはさ、今何がしたい?」

「え……そりゃあ――」何をそんな当然のことを。「この試合に勝ちたいよ」

「うん。そうだよね。そりゃそうだ。それじゃあさ――」

 みなもちゃんの瞳に映る困惑した私の顔。その奥で怪しい炎が揺らめいています。

「しほりんは、どうなりたいの? どんなしほりんになりたいの?」

「……え、と――」

 どんな私になりたい……?

「この試合が一歩目なんだよ。しほりんの目指す理想の自分への第一歩。私はいつも最強のピッチャー目指して生きてるよ。失敗もたくさんしたけど、そこだけは見失わないように。そうすればどんなに遠くても、どんなに辛くても、必ずそこにあるゴールを目指して進んでるんだっていう自信が溢れてくるから。だから目の前の一歩を踏み出すことを怖いなんて思ったことないんだよ」

 そしてみなもちゃんはにっこりと微笑んで言いました。

「なりたい自分になっていいんだよ。その為に、やりたいことやってみようよ」


■□   □■


『三番・ショート・ランスフォードさん』

 真上から降り注ぐ日の光で黄金に輝くブロンド。その姿を目にした金剛女子応援団は最後の力を振り絞って悲鳴にも似た声援を送り、新専用応援曲を奏で歌う。先ほどまでは球場に満たされた金色のオーラに溺れそうになっていた楓恋だが、今は不思議と落ち着いていた。

(あんなにも手放せんもんじゃったのに、捨ててしもうたらこんなにも身軽になりよった)

 アイドルとしてエリスと張り合い、彼女の輝きに挑み、打ちのめされた彼女はもういなかった。マウンド上の棗田楓恋の双眸には、エリスだけを見ていた頃とは違う色の炎が浮かぶ。

(妙な気分じゃ。初めての感覚。暑いし、疲れとるはずなんに、体中に冷たいエネルギーが満ちとる感じがする。風に靡く産毛の一本一本、腕や首筋を滴る汗の一滴一滴、ボールの縫い目一つ一つ……ハッキリと感じ取れるわ)

 左手でボールを弄びながら、スマイルの消えた顔で捕手あかりのサインをじっと見る。

 対峙するエリスはいつもと変わらないルーティーンで左打席に入る。

 最終回、1アウトランナー無し。勝利の為にはなんとしても出塁しなければならない。極限の集中力を発揮せんと、バットを構えるエリスから身震いするほどの殺気が溢れる。

(ワタシがやらなきゃ……!)

 ここまでの成績からして、順当に打点が見込めるのは四番の美鶴、五番の茶々まで。しかもどんなに期待しても二点が限界。エリスが出塁した後に二者連続タイムリー。あるいは二人出塁してからの茶々の二点タイムリー。それでギリギリ同点だ。一人でも凡退すれば、当たりの無い下位打線で2アウトから一点もぎ取るしかなくなる。

 期待していないわけではないが、客観的に見て絶望的と言わざるを得ない。

(コントロールには難がある。甘く来た球を確実に仕留める)

 一層鋭い『夜叉』の眼光。微塵も狼狽えることなく、楓恋は流麗なフォームから左腕を振るい第一球を投げ込む。

(アウトロー、速球……これは――)

 出しかけたバットを止めたエリス。速球は外へ逃げていくように沈んだ。判定はボール。

(外へスライダー気味に逃げていく球……厄介)

 一般的に左投手より右投手の方が多く、さらに殆どの投手はカーブやスライダーから変化球を覚える。つまり左打者にとって、自分から逃げていく軌道の球を打つ機会は少ない。おまけに野球はベースを左回りに進むスポーツ。必然的に左打者は一塁方向へ身体を開き気味に打つ癖がつく。

 つまり左投手の外角スライダーは、エリスのような生粋の左打者にとって天敵と言える。

(打てないわけじゃない。ただ確実にヒットに出来るかとなると……この場面で手は出せない)

 努めて冷静に構え直したエリスに、楓恋の投じた二球目。

(っ! またアウトロー速球……! しかもこれはッ――)

 一球目と殆ど同じ速度と軌道。そこから外へ逃げるように沈むのも同じ。

「ストライッ!」

 見逃したエリス。判定はストライク。

(……嫌な感じがする)

 エリスの首筋を冷や汗が伝う。唾を呑み込み、息を吸い込みマウンド上の楓恋を見た。あかりから返球を受け取った楓恋は帽子のつばの位置を直しながら、険しい目線を投げ返してくる。

(まさか……いやそんな、早すぎる……!)

 不穏な予感を振り払い、足場を直して構える。

(このまま外角勝負で来るなら、しっかり踏み込んで拾っていくしかない)

 そう意識付けしたエリスへの、楓恋の三球目――インコースへの速球。

(なっ……!?)

 内側へ踏み込もうとしたエリスの胸元に刺さるようなインハイへの球。しかもエリスの身体側へ、シュート気味に曲がって抉りこんでくる。

「くっ……!」

 仰け反って避けようとして、バランスを崩して後ろへよろけるエリス。判定はボール。

(――やっぱり。これはもう間違いない……)

 エリスは自らの悪い予想が当たったことを確信した。

 同じく楓恋も、それをエリスが悟ったであろうことを理解していた。

(もう分かったじゃろ、ランスフォード。前のお前の打席から対戦した打者九人。その間にウチはもう掴みよるぞ。ウチん中で暴れまわりよるモンを御する方法をなぁ……!)

 最初は暴走する感情の迸るがままに投げていた。確かにそれで一度は宿敵を打ち取った。しかしそんな行き当たりばったりではいずれ攻略される。それを承知していた楓恋は金剛打線一巡の間に必死に求めた――熱い激情の奔流を精緻に乗りこなす方策を。

 そして今、彼女は完全に己の物とした。

(『曲がる』んじゃない――『曲げる』んじゃ)

 ナチュラルに曲がってしまう速球の『曲げ方』を見出した。内か、外か。自由自在。

 アイドルと野球。履き続けた二足の草鞋を脱ぎ捨てて新たに手にした二振りの刃――球種にカテゴライズすれば、カットボールとツーシーム。

 棗田楓恋はこの試合を通して、全く異なるタイプ・レベルの投手へと羽化して見せたのだ。

(ステージ上のアクシデントをアドリブで乗り切るのはアイドルの基本技能じゃけぇなぁ)

 自嘲気味に苦笑し、楓恋は第四球目を投げ込む。

(これがウチの全てをつぎ込んだピッチング。とくと味わえやランスフォード……ッ!)

 またもやインハイ。体に近いコースへの速球。

(これ、は――でも、手出せない……!)

 やや仰け反るエリス。その眼前で、ボールは第三球目と逆――ゾーン内へと曲がっていく。

(今度はカットか!)

 そのまま見逃す他なくストライク。2-2の平衡カウント。

(甘いボールが無い……今のも無理に手を出しても詰まらされて内野ゴロ。でももう後がない。クサいゾーンは手を出してくしかない。まさかこんなに追い込まれるなんて……!)

(おうおう。焦りが顔に出とるぞランスフォード)

 歯を食いしばるエリスに対し、楓恋は己の内心が冷徹に静まっていくのを感じていた。

(思っとらんかったか。苦戦させられよるなんて。ウチ程度の投手に)

 左手でボールをくるくると弄び、握りを定めた。

(しゃあないわ。ウチは確かにその程度の投手じゃった。じゃけどなぁ、いつまでも上ばっかり見よると――ウチみたいな雑兵に斬り捨てられんぞ、『金色夜叉』)

 そして投じた第五球は、再びのアウトロー。

(やっぱり外角ギリギリに……また逃げてく? それとも入ってくる?)

 見逃して入ってたら三振。打ちにいって当てそこなったら内野ゴロ。後が無く、自分がなんとかせねばならないというプレッシャーが、エリスに大胆な判断をさせてくれない。

 中途半端が一番ダメだと、つい先ほど自分で言ったというのに。

(ここはなんとか……カットしないと――)

 内角を抉られ踏み込み切れない。それでも手を伸ばしてバットに当てにいく。しかし――

(ボールが……来ない……ッ!)

 楓恋が投じたのはカットボールでもツーシームでもなかった。ただエリスを打ち取る為だけに磨いてきた至極の一太刀――スプリットチェンジ。

(やっと届いた。刃が。『鬼』の首に……ッ)

 速球系しか頭になかったエリスのバットは、急ブレーキで落ちるボールを待ちきれず空を切る。楓恋はマウンド上でグラブを叩いて吼えた。

 エリス、空振り三振。金剛女子はいよいよ崖っぷちまで追い込まれた。いやむしろ既に落ちかけて、辛うじて崖の縁に片手でぶら下がっているくらいの状況か。

「もうダメだ……」

 金剛女子側観客席、特にエリスファンクラブの面々が絶望に肩を落とし、顔を覆い嗚咽を漏らす。

「エリス様が三振……お終いよ……! もうお終いなのよ!」

「お馬鹿ッ!」

 泣き言を吐いたエリス応援団員の頬を、別の団員――美鶴ファンクラブへと裏切ったうちの一人が平手で叩いた。

「はぅっ!? な、何を――」

「オラァッ!」

 美鶴ファンはさらに全力の右ストレートを鼻っ柱に見舞う。エリスファンは鼻血を噴出しながら吹っ飛んだ。

「ブフェァッ!?」

「弱音を吐くのはまだ早いわ! 見なさい! 選手の皆さんを!」

 美鶴ファンが示す先では、打席へ向かう美鶴に声援を張り上げる金剛女子ベンチの面々。

「誰一人下を向いてなんかいないわ! 選手の皆さんが諦めず頑張っているのに、応援する私達が折れてどうするの! 前を向いて、しっかり最後までエールを送るわよ!」

 美鶴ファンの剣幕に、周囲のエリスファンも崇拝する女神の垣根を越えて希望が伝播。

「そうよ……!」「まだ試合は終わってない!」「ウチらの応援で流れを呼ぶのよ!」

「フッ……裏切り者に教えられるとはね……」

 殴り飛ばされたエリスファンも、鼻血を拭いながら立ち上がる。

「あなたの言う通りね。でも……二発目は要らなかったんじゃない……?」

「二発目はクーデターの時、あなたのミドルキックで肋骨二本折られたお返しよ」


■□   □■


「ストライッ!」

 美鶴の見逃した低めの初球はチェンジアップ。

(やっぱりもう直球は来ないかな……)

 第二打席でストレート決め打ちのタイムリーを打っている美鶴には、あれ以来フォーシームを一球も投じてこない琥珀ヶ丘バッテリー。

(逆に速球が来たらほぼ間違いなくカットボールかツーシーム、と考えていいかもしれない。その上で何を狙うか……)

 自分が凡退すれば試合が終わる。そんなことは分かっていたが、美鶴は自分でも意外なほど冷静だった。昨年までは己の結果がそのまま最終結果になる競技をやっていたから、そういったプレッシャーには些か慣れていたのかもしれない。

 とはいえ野球経験の浅い彼女がこの打席で出来ることは限られる。

(よし、ストレートと同じタイミングで待てる速球狙いでいこう。カットボールかな。うん、カットボール待ちで)

 そう決めた美鶴への第二球は、またもチェンジアップ。

「グ……!」

 カットボールで決め打ちにいった美鶴は完全にタイミング外れの空振り。

 2アウト2ストライク。ついに際の際まで追い込まれた。琥珀ヶ丘応援団からは「あと一球」コールが沸き起こる。さすがの美鶴も重圧に苛まれ、視野は狭まり、心臓は早鐘の如く。

(次空振りしたら負ける……どうしよう。チェンジアップ狙いに変える? でも狙ったからって打てるものなのか……?)

「……タイムお願いします!」

 その時、琥珀ヶ丘キャッチャー小波あかりがタイムをとってマウンドへ駆けていった。楓恋に何かあったのか、それとも単なるサインの確認か。分からなかったが、美鶴は打席を外して一呼吸置く。

(落ち着け……言われた通りにしよう。『中途半端が一番ダメ』なんだ。私は自分に出来ることをがむしゃらに。それだけ考えて――)

 あかりがホームに戻りプレイ再開。美鶴も打席で構え直す。

 両軍固唾を飲んで見守る中で投じられた第三球目、琥珀ヶ丘バッテリーは三球勝負。ストライクボールを投げ込んできた。

(頼む……ッ)

 美鶴は初志貫徹。速球のタイミングを読んでバットを振りにいく……が――

(チェンジアップか……!?)

 冷静に考えて、ここまでチェンジアップに全くタイミングの合っていない美鶴に対し、琥珀ヶ丘バッテリーが全球チェンジアップ勝負で来るのは十分ありうることだった。

(ここで……終わる……?)

 なかなか手元まで来ない遅いボールを待ちながら美鶴は歯を食いしばる。

(いやまだだ……! まだ私は死んでない!)

 琥珀ヶ丘バッテリーの思惑通り、美鶴の体勢は大きく崩されていた。彼女は野球を始めてまだ数か月。変化球への対応はまだまだだった。

 しかし伊藤我美鶴というアスリートの身体能力は思惑の外を行った。

 ジャベリックスロー県中学女子記録保持者の体幹と足腰の筋力と粘りをフルに発揮し、体勢は崩れながらも体重をなんとか後ろに残したまま踏ん張る。体を仰け反らせるようにしながら耐え、まだ耐え、さらに耐え、完全にバランスを崩す寸前にバットから右手を離し、まだかなり前方にあるボールを左手一本放り投げるように捉え、手首だけでボールを飛ばす。

「ふんぬぁッ!」

 男らしい唸り声と共に飛んだ打球はショートの頭を越えレフト前に転がった。瀕死の状況から一縷の望みを繋ぐヒットに金剛女子応援団がドッと湧く。

 一塁上で手を叩いて吼えた美鶴は、ベースコーチに入っていたエリスと強烈なハイタッチ。

「Nice hit!」

「はは……ちょっと不格好でしたけど」

 美鶴ははにかみながら言った。

「これが私の四番の仕事です」


■□   □■


 依然としてギロチンの刃は上がりきったまま。自らの喉元まで迫った終焉を意識しないことなど、高校野球に全てを注ぎ込んできた茶々には難しい。

 あとアウト一つで彼女の夏は終わる。煮え滾った血液のように濃い三年間が終わる。

 楽しいことより辛いことの方が多かった。勝ちより負けの方が多かった。ようやく勝てるメンバーが揃い、一年前に果たせなかった友との戦いも終え、あとは勝利を掴むだけ。

 伸ばした手から、その星は今にも零れ落ちようとしている。

 しかし目の前で、自らが四番に抜擢した美鶴が意地のヒットで出塁。

(終わらせたくない……まだまだこのメンバーで野球がし足りない)

 塁上で感情を出す美鶴。手を叩いて大喜びするベンチの仲間たち。引退の懸かった自分よりも、この試合が続くことを喜んでくれるチームメイト。応えられずにいられようか。

 ではここで茶々に何が出来るのか。

(最低でもこのイニング二点が必要。ここでわたしが出ても後は倉、鳴楽園、夕霧、鵜飼……一人でもアウトになればそれで終わり。少しでも可能性を残すならば長打を放ち伊藤我を還してわたしも得点圏――可能ならば三塁まで行ければ……)

「部長!」

 難しい顔で打席へ向かいかけた茶々の背後から明るい声がかかった。振り向くと、バットを握ってネクストに出てきたしほりが笑顔で拳を突き出していた。

「絶対私まで回してください!」

 茶々は面食らった。潜在能力は間違いなくあるが自信が無い――そんな茶々の中のしほり像とあまりにかけ離れた言葉。真っ直ぐ自分を見据える瞳。強く握られた拳。

「――フハハハハ……!」

 茶々の腹から笑いが沸き上がる。

 ――どうせ分の悪い賭けなら、いっそド派手に大胆にブチ上げようではないか。

「任せろッ!」

 茶々はどこか楽しげな足取りで打席へと向かった。

「茶々様ーっ!」「部長おねがいしまーす!」「茶々様ーッ!」「まだまだ続けてきましょー!」「かっとばせー!」「茶々様ーッ! ワンワンッ!」「ミマ、せめて人の言葉で……」

 茶々へ大声援を送る金剛女子ベンチの中で、みなもはネクストに立つしほりへ身を乗り出す。

「思い出した? しほりんのなりたいもの」

「うん。ありがとうみなもちゃん。忘れてたよ私。一番なりたいものなんて、昔から変わってなかったのに……目の前のことにばっかり必死になりすぎてた」

 しほりは落ち着いていた。怯えて背中を丸くするでもなく、気負い過ぎて震えるでもなく、まるで遊具の順番待ちをしている子供のように澄んだ目をしていた。

 その時、コツンという軽い金属音と歓声。

 茶々がバントしていた。

 一塁線へやや強めに転がすバント。当然長打狙いで来ると思っていた琥珀ヶ丘内野陣は慌てて動く。ファースト沙良々は前に詰めかけるが、楓恋が捕球に走るのを見てベースへ付く。マウンドから駆け下りる楓恋はここまで投げ続けた疲労で足が縺れかけるもなんとかボールを拾い、そのままファーストへ送球。これが高めに浮いた。沙良々はジャンプしてなんとかキャッチするが、離れたベースに茶々がヘッドスライディングで飛び込む。

「セーフ!」

 塁審が大きく手を広げた。茶々はベースを叩いて吼えた。美鶴もセカンドへ進み、2アウトながらランナー一・二塁と変わる。さらにさらに盛り上がる金剛女子ベンチと観客席。球場全体が異様なムードに包まれていく。学生野球独特の判官贔屓による劇的展開への期待。挑戦者が王者を破るストーリーを想い酔う群衆。その雰囲気はヒール役を押し付けられた側には一層重くのしかかる。

 楓恋は肩で息をしながら唇を噛む。それでも双眸は気丈に爛々と光り、沙良々に返球を催促。沙良々がボールを投げ返すと、会釈してマウンドへ戻った。

 沙良々はふと違和感を覚えて自分の指を見た。赤い液体が付着している。

「血……?」

「そっちのピッチャーのだろう」

 ユニフォームの土を払いながらそう言ったのは塁上の茶々だった。

「うちの四番の打席で、キャッチャーがマウンドへ行っただろう。おそらくあの時指の血豆を潰したんだろうな。慣れない変化球をあれだけ多投してきたんだ。仕方ないさ」

「……茶々ちゃん、なんか楽しそう」

「ああ、どうもいいものが見られそうな気がしてな」

 茶々が不敵に笑うと、沙良々も微笑んだ。

「そうだね。いい音が聴けそうな気がする」


■□   □■


 私は「強く」なりたかった。

 私が憧れた人は、いつも「強く」あった。

 リングの上でも、リングを下りても、常に「強い」人間であることを自分に義務付けていた。

「――本当に強い奴とは、常に周りの期待に応え続ける奴のことだ」

 あの人はいつもファンの望む最強のレスラーであり、私の望む最強の父だった。

 私もそこに憧れ、手を伸ばし、諦め、逃げた。

 父の期待に応えられず、弱い自分を自嘲して過ごす湿っぽい日々。

 そんな私を引っ張り上げてくれた友達がいた。

 私の未来に夢を見てくれた先輩がいた。

 私に希望を託してくれたチームメイトがいた。

 みんなみんな、私なんかよりとても「強い」人たち。

 何にもできない私の手を、みんながここまで引っ張ってくれた。

 私はこれからもみんなと一緒に野球がしたい。

 連れてきてもらうばっかりじゃなくて、同じ目線でグラウンドに立ちたい。

 私もみんなのように「強く」なりたい。

 私より「強い」人たちの期待に応えたい。

 だから、行こう。

『六番・ライト・倉さん』

 高い高い夏空の下、ダイヤモンドという名のリングに、私は上がろう。


■□   □■


 しほりが打席に向かうと、球場のボルテージは最高潮に達した。しかしそれは彼女への期待の声援というよりも、頼むから何か起こってくれという祈りのように聞こえた。

(……まあ、ほういう雰囲気になるわなぁ)

 楓恋は額の汗を袖で拭うと、指をユニフォームに押し当てた。白い生地が赤く染まる。

 普段から投球に使う箇所ならマメができて皮膚が固くなっているが、今日初めて投げているカットボールやツーシームはそうはいかない。無駄な力も入っていたせいか、エリスを打ち取った時にはもう皮が剥けて出血していた。

 さらに茶々のバント処理で駆けだしたときにリズムが乱れ、アドレナリンもりもりで投げていたため自覚していなかった疲労が姿を現し、足も腕も土嚢のように重かった。

(相手は今大会無安打のザコ。琥珀ヶ丘エースなら抑えて当然――なんて思われとるんじゃろうねぇ……世の中「当然」のことしか起こらんなら、試合なんてする意味ないじゃろ)

 甘さなど、髪やサングラスと一緒に捨て去った。

(痛みも疲れも……無視できる。あと一人。最後の関門。ここまでのことはすべて忘れて、目の前のお前を全力でねじ伏せて手に入れちゃる。「当然」の勝利をなぁ……!)

 指先がビリビリと痺れる。腕の筋繊維や毛細血管がブチブチと千切れるのが聞こえる。軸足の太ももが攣る一歩手前の悲鳴を上げている。

 そんな全身からの緊急アラートを無視し、投じた第一球目――全力のストレート。

 やや高めに浮いたこのボールを、しほりは見逃した。

「ストライッ」

「ッ……!」

 楓恋だけではない。ここまで試合を見ていた誰もが一瞬言葉を失った。

 ここまで全試合全打席全球、どんなボール球だろうとフルスイングで豪快な空振りを見せてきたしほりが、ストライクにもかかわらずボールを見送ったのだ。

「…………」

 球場の動揺をよそに、しほりはマウンド上の楓恋を見据えて構え直す。その力の抜けた立ち姿は、どこか風格すら感じさせた。

(まるで別人……雰囲気ががらりと変わりよった……!)

 しっかり初球でストライクを取ったのに、逆に追い詰められていくような心持の楓恋。

 球場をどよめきが渡り、何かが起きる待ち遠しいような予感と、足元が崩れ去るような不穏さが空間を染め上げていく。

「はっ……はっ……」

 ――一体自分は、今何を相手にしているのか。

 楓恋は帽子をとり、額の汗をぬぐって、気付けに指先から滴る血を舐めた。

(なりふりなんて……構ってられん。いくとこまでいく。もう失うもんなんて――)

 第二球目。サインに首を振る。振りかぶり、眉を寄せ腕を振りながら吠える。

「ぬあああああああああッ!」

 血しぶきと共に投じられた速球は、しほりのインコースへ食い込むように曲がっていく。

 楓恋の命を削るかのような渾身のカットボール。対するしほりは、どっしりと待ち構えるようにボールを見据え――

「ふぬぁッ!」

 バットを振るう。全身がねじ切れるようなドでかいスイング。

 そして「キィン……!」と響く金属音。

「なっ……!」

 目を見開いた球場中の視線の先、白球は三塁線を走り、ラインを割った。ファール。

 誰もが見たことのないものを見ている。

 しほりがバットにボールを当てた。

「……お前」

 捕手のあかりは思わず打席のしほりに尋ねていた。

「ホントに倉しほりか?」

「『強い』ですよね……棗田さんの投げるボール」

 しかししほりからはトンチンカンな返答。だがその醸す余裕は微塵も浮足立っていない。

「でも私、もっと『強い』の受けたことありますから」

 そう語るしほりの頭に浮かんでいたのが、リング上で必殺ラリアットをぶち込みに突進してくる父親の姿だと、あかりに分かるはずもない。

 倉義和と徒手空拳で戦うことに比べれば、飛んでくる小さな野球のボールになど怖がっていられようか――

 本当の「強さ」を知った。

 逃げた後の「後悔」も学んだ。

 立ち向かう「覚悟」を手に入れた。

 蛹は既に、羽ばたく時を伺っている。

「――あと一球ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」

 叫んだ。不穏な瘴気を裂くように。楓恋は声を上げた。バックへ。後ろを向いてチームメイトへ向かって。

 どこか空気に呑まれていた琥珀ヶ丘ナインは、ハッとして大声でそれに応えた。

 さらに負けじと、ベンチの金剛女子の面々も叫ぶようにしほりへ声援を送る。

 楓恋の生み出したうねりは応援席にも広がり、観客はそれぞれの応援する側へ声を枯らす。

 リズムも無い、秩序も無い。ただ狂騒に沸き立つ球場のど真ん中で、楓恋はしほりに向き直った。

 ほんの一瞬、二人の視線が交わる。

 次の一球でこの夏が終わることを、二人だけは直感していた。

 もはや思考はなかった。

 澄み切った朝の空気のような無音の集中の中で向かい合っていた。

 楓恋の四肢は陽光に溶け去ったかのように感覚を失っていた。

 それでも目の前に迫った勝利へ、がむしゃらに手を伸ばす。僅かに残った、出涸らしの出涸らし。乾いた雑巾を絞るように沸き立たせた最後の力。その精一杯で、腕を振るった。

 そして、しほりは白球と――その向こうの高く高く青く澄んだ大空を見ていた。


■□   □■


 ――音。音だけが聞こえました。

 食い縛った歯の軋み。引き千切れる毛細血管の断末魔。地面と靴底の擦過音。振り回されたバットが空気を切り裂く風切り音――

 世界に響き渡るような甲高い金属音。

 光が戻ってきます。痛いほどの日差し。のしかかってくるような大きな夏の空。

 ぽっかりと浮かぶ白い球。

 どこまでも、どこまでも自由に飛んでいきそうな夢の一雫。

 やがて楽しい時間を惜しむように、重力に引かれて放物線を描き――

 ――ッガイィィィィィン!

 レフト側のポール、その上段に当たってグラウンドに落ちてきました。

「…………」

「シホリ!」

「?」

 ふと私の名を呼ぶ声が聞こえ、振り向きます。一塁コーチャーズボックスにいたエリスセンパイが、いろんな感情があふれてどうしようもないみたいな顔で私を見ていました。

「ほらほら! 回って!」

 そう言われて、私はバットをその場に置き、ふわふわした妙な気分で走り出しました。

 いつかたどり着きたいと、狂おしいほど焦がれた一塁ベースを踏んでその先へ。

 二塁ベースへ近づくと、遠くからだんだんと音が戻ってきました。360度、どこからも聞こえてくる津波のような人の声。

 三塁ベースを踏み、ホームへ体を向けると、みんなが私を待っていました。

 汗に塗れて、土で汚れて、でもみんな今までで一番いい笑顔。

 ――ああ、そっか。やっと分かりました。

 理解すると同時に、私の視界は曇って何も見えなくなります。

 きっと私もみんなと同じ。ぐしゃぐしゃだけど、笑っているんでしょう。

 みんなが私の名前を呼んでいます。

 涙で何が何だか分かんないけど、私を迎えてくれた大好きなみんなのど真ん中へ、勢いよく飛び込みました。

 逆転サヨナラスリーランホームラン。

 それが私の、初めて打ったヒットの結果でした。


■□   □■


 楓恋が最後の球を投げた瞬間、沙良々は目を閉じていた。

「――いい音」

 そう呟き、しほりが一塁へ達する前にマウンドへ歩み寄っていた。

「棗田」

「ごめんなさい先輩。ウチ、すっごく変な気分なんです」

 楓恋はぼんやりと突っ立ったままうわ言の様に口を動かす。

「三年の先輩方は私のせいで今日で終わりにしてしまって申し訳ないって思っとるんです。でもなんか、なんでか分かんないんですけど、すっごくスッキリしてるんです。楽しかったんです」

「……うん」

 沙良々は目を閉じて頷いた。楓恋はホームへ還ってくるしほりと、出迎える金剛女子ナインを見つめながらぽつぽつと続ける。

「楽しかった。でもキツかった。でも楽しかったんですよ。楽しかったのに――なんで……なんで、なんでウチは泣いてるんでしょうか……」

 楓恋は滔々と涙を流していた。それを拭いもせず、泥と混ざって濁った雫が頬を伝う。

「棗田、すっかり野球選手の顔になったね」

「……ぜんばい、ウヂ……ウヂは……っ!」

「そっちの顔の方が、わたしは好き」

「ぜんばい……っ!」

「なーに泣いてんだよコノヤロ!」

 小波あかりがぺしりと楓恋の頭を小突いた。

「ヴゥウ……ごなびぜんばいぃ……」

「お前のおかげでここまで来れたんだ……胸張れ胸」

 あかりは目に涙を溜めながら、噛みしめるように言う。

「魂こもった球受けられて楽しかった。ありがとう棗田」

「うぅぁああぁあぁあぁ……」

「ほら挨拶いくぞ」

 ホームベースを挟んで、両チームが整列。球審が口を開く。

「4-5で金剛女子学院の勝利です。ゲーム!」

『ありがとうございました!』

 握手をし、互いに自分たちの応援席へ挨拶をしに分かれていく両チーム。

「気をつけッ! 礼ッ!」

 茶々の号令と共に帽子を取り首を下げる金剛女子ナイン。ドッと称賛の声に沸く応援席。その歓喜の渦を遠く背中に浴びながら、楓恋は拳を握りしめていた。

「よし……全員整列したな。最後は元気にいこう」

 あかりが真っ赤な目で全員を見渡す。

「応援ありがとうございましたっ!」

 その声に合わせ、全員唱和し頭を下げる。

 ――いや、立ち尽くしたままの者が一人。

「おい、棗田……!」

 あかりが小声で言うが、楓恋は無言で唇を噛んでいた。

(今のウチが『応援ありがとう』なんて……どの面下げて言えるっちゅうんじゃ……)

 ファンの応援で立つアイドルとしての誇りを髪と共に断ち切り、独りでマウンドに立つことを選び、挙句負けてしまった。

(もうウチには、アイドルとしてみんなの前に立つ資格なんか――)

「楓恋たーん! お疲れ様―!」

「えっ……」

 楓恋が顔を上げると、そこには立ち上がって彼女に声援を送るカレン団の姿が。

「頑張ったよー! 感動した!」「負けちゃったけどすごかったよ!」「ショートカットも似合ってる! 世界一可愛いよ!」「我等一生終生楓恋団」

「みんな……」

 楓恋の両目から大粒の涙がぼろぼろと零れた。

「あのっ……!」

 楓恋は涙も拭かず、絞り出すように叫んだ。

「カレン団のみんな! 今日は……ううん、今日までずっと、私のことを応援してくれてありがとう! 私を見捨てないでいてくれて嬉しかった! ……そんなみんなに、ウチ、もう一つだけわがまま言ってもいいじゃろうか……?」

 楓恋の言葉をよく聞こうと、カレン団はしんと静まり返った。

 グラウンドを吹き抜ける風がざんばらの髪を揺らし、泥と涙に汚れた頬を撫でる。

「絶対、ウチ、みんなの前にアイドルとして戻ってくるから! だから、あと一年だけ……来年の夏まで、野球にのめり込んでもええかな? アイドルやなくって、一〇〇%ピッチャーの棗田楓恋でいてもええじゃろうか? それでもみんな、ウチのこと見捨てずに……応援してくれますか……?」

「もちろんだよぉー!」「野性味溢れる楓恋たんも好きだー!」「試合全部追いまくるよー!」「結婚してくれー!」「好きなことしてる楓恋たんが一番推せるよぉー!」

 ファンからの温かい言葉を受け止め、楓恋は嗚咽を漏らしそうになるのを堪えながら叫ぶ。

「みんな……みんな! ありがとーっ!」

 翌日、アイドル・棗田楓恋の一年間の活動休止のニュースが、一部ネットを騒がすことになるも、彼女の野球愛が営業用のものではないことが明らかになり、ファンはますます増えたのだった。

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