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【6】狂え その3

 五回表、先頭の琥珀ヶ丘二番・霧ヶ峰が、茶々のストレートを打ち上げた。飛距離は無いが高く上がる――レフトへ。

「オ、オラ、オーライ……? あっ、ちょっと……あびっ、あばびばばびば――」

 中は打球を見上げながら下手糞なフォークダンスのように外野をうろうろ。結局落下点を見極められず、打球に突っ込み過ぎて見事なバンザイを披露。ボールは彼女の後ろに落ちて高く弾む。

「ああああああああもおおおおおおおおう!」

 打球の方向を見てすぐさまカバーに走り込んでいたセンターのノノが追いついてワンバウンドで捕球し、やはりフォローに詰めていたショートのエリスに投げ渡す。ランナーはとっくに一塁ベース上でコーチャーとグータッチを交わしている。

 現在の金剛女子外野陣は、レフトの中、ライトにしほり。このドデカい穴二つをセンターのノノが一人でカバーしている状態だ。内野ゴロの山を築く茶々のピッチングが思い通りにいっている間はいいが、うっかり外野に飛ばされればこうなるのはお互い承知の上。しかも上位打線に出塁を許すということは、ランナーを背負ってあの怪物を迎えるということだ。

 次の三番・梶は送りバントをしっかり決めて一死ランナー二塁。

 それは巫術。その身を贄とし走者を進め、打席に白き神を降ろす聖なる儀式。

 それは魔術。一人の死を以て一人の生還を悪魔に乞う等価交換の契約。

 ――得点圏打率七割八分。

『四番・ファースト・雁野さん』

 その白き巨影を波間に目にした船乗りの如し。打席に『白鯨(モビーディック)』を迎えた球場は、凪いだ水面のようにピンと張り詰めて静かになる。

 一塁は空いている。歩かせてもいい場面だが、蓬を始め誰も茶々にそう進言はしない。

(すまないな皆……この打席、今だけこの試合、我が物とすることを許してくれ)

 噛み締めるように微笑んだ茶々は、打席に入る白い姿を見据えた。

「――一年振りだな、サラ」

 静かなグラウンドで、マウンド上の茶々の言葉は沙良々の耳にはっきり澄んで届いた。

「面と向かって、存分に野球をしよう(語り合おう)か」

「……うんっ」

 沙良々は呑み込むように頷いてにっこり微笑むと、独特のオープンスタンスに構える。

 一八・四四メートル隔てて、その眼光が真っ直ぐ交わった。その距離に、最早言葉は不要。

 一見素人のように右バッターボックスで突っ立っている沙良々。だがそれは究極の自然体。静止しているようで陽炎のように僅かに揺らぐ。全身に無駄な力が一切入っておらず、瞬時にどうとでも動ける必殺の構え。刀を握った一流の剣豪の如く隙は無く、彼女の間合いに入ればその瞬間命は無い――そう直感させる純粋で澄み切った殺気。

(緩急でタイミングをずらすとか、内外高低に視線を散らすとか、そんなものサラには関係ない。ただ打てる球を打つだけ。そこに間や配球を読むなどという要素は存在しない)

 緩急も、配球も、打席の中での一連の流れだ。初球はこうだったから次はこう、三球目はこう、四球目は――という組み立ての上で意味を成す。

 だが沙良々にはそれが無意味であることを茶々はよく知っていた。

 沙良々にとっては一球一球がそれぞれ独立した世界として隔絶している。一球前、二球前にどんな球が来たかなど関係ない。彼女にとって意義があるのは今まさに投じられる一球が自分が打てる三次元的ゾーンを通過するか否かそれだけである。投手の手からボールが離れた瞬間、常人離れした動体視力で球種・球速を見極め通過するゾーンを判断し、打てないなら動かず、打てるなら打つ。スイングスピードも人並外れているため、ボールにタイミングを合わせようとする必要もなく、ボールがゾーンに来るのを待って自分のタイミングで振ればいい。

(つまり、サラを抑える方法は一つしかない)

 茶々は蓬のサインに首を振った。さらにもう一度振り、やっと頷く。セットポジションからスッと沈み込み、その強靭な足腰による安定したフォームのサイドスローから繰り出される、彼女自身が選んだ第一球は――

「――っづァッ!」

 口から覇気が漏れるほどに力のこもった、インハイのストレート。コーナーギリギリのピンポイントへ完璧にコントロールされた至極の一球。

 沙良々は投手に正対した形から、ボールから視線を逸らさず迎え入れるようにゆっくり身体を閉じながらバットを立て、テイクバックがほぼ無いところからスイングを始動。無駄の一切ない軸回転。最短距離で振り下ろされるバット。キィンという金属音と共にボールは高く上がり、バックネットを越えて客席に飛び込むファールとなる。

 球場が俄かに騒めく。沙良々の右の瞳は一層輝きを増し、茶々は牙を剥くように微笑む。

 それは誰の眼にもわかるメッセージだった。一年前のトラウマを振り払った茶々の完全復活。そして沙良々を全力で捻じ伏せるという挑戦状。

(神域を往くサラの打棒を、さらに上回るボールによるゾーン内での真っ向勝負で制圧する! それがこの怪物――我が最愛のライバルを抑える唯一の道よ……!)

 そして二球目、茶々が選択したのはカーブ。一度ふわりと浮き上がってから、低めを撫でるように落ちていく。しかし沙良々はピクリとも動かなかった。判定も当然のようにボール。

(ふむ、今日はそこはゾーン外か)

 茶々は頷きながら蓬の返球を受ける。沙良々の打てるゾーンはその日の調子によって微変動するが、往々にしてそれはルール上のストライクゾーンよりも広い。よって茶々が見逃せばほぼボール球であり、それがゾーン内で勝負せざるを得ない理由でもある。

 第三球、低めからストンと沈むシンカー。内角、膝元から消えるように決まった絶対の自信を持つ茶々の宝刀に、沙良々のバットは空を切る。沙良々の今大会初の空振りだった。

「茶々ちゃん、茶々ちゃん、茶々ちゃん、茶々ちゃん」

 沙良々の頬には紅が差し、右目の輝きはより深みを増して煌めく。そして光を失った左目からは、滔々と涙の筋が滴っていた。

「好きよ。大好きよ。嬉しい。茶々ちゃん。大好き」

 譫言のように呟きながら構える沙良々に、茶々の投じた四球目はスライダー。沙良々はスイングするが一塁線へのファール。

 五球目はストレート。少し力が入り高めに外れてボール。

 そして第六球。茶々の勝負球、シンカー――

「――愛してるわ」

 沙良々は神速のバットを振り抜いた。沈んでいくボールを芯で完璧に捉え引っ張る。火の出るような弾丸ライナーは低弾道からぐんぐん伸び、ショートのエリスが全力でジャンプして伸ばしたグラブの上を越えていく。

 セカンドランナーは猛然とサードへ走る。その先に立つ琥珀ヶ丘のサードコーチャーは手を大きくぐるぐる回し、本塁への突入を指示している。

(……流石だな、サラ。この勝負、我の負けだ)

 打球の行方を見ながら、茶々はふっと顔を緩ませる。

(だが、我等はまだ負けていない)

「ふんがっ……!」

 レフトの夕霧中が打球を体で受け止めていた。ここまで一度も碌な守備をしてこなかった中が、グラブでの捕球こそ出来なかったが、レフト前でワンバウンドした沙良々の速い打球をなんとか胸に当てて前に落とし拾い上げる。

「アタル!」

「ほらよ……っ!」

 カバーに走り寄っていたエリスに、中がボールをトス。エリスはそれを半身の状態で素手の右手で受け取ると、そのままの体勢からホームへ全力投球。蓬のミットへ轟音響かせ吸い込まれる。中がミスをする前提でホームに突っ込んできたランナー霧ヶ峰はなんとか蓬を避けてホームベースに触れようとするも、ホームで待ち構える蓬にしっかりタッチされアウト。

 琥珀ヶ丘、追加点を取れずスコアは4-2のまま。二死ランナー一塁。

「やったじゃないデスカ、アタル! 特訓の成果デスネ!」

 蹲って、打球の当たった胸を抑えて唸っていた中をエリスが褒めちぎりながら引き起こす。中は「うへへへ……」と笑いながら立ち上がった。

「まあな……あたしらには絶対に負けられない理由があるしな……!」

「そ、そうデスネ……」

「なあおい、あたしのおかげで点取られなかったんだよなぁ? ならお前の乳首の二つや三つしゃぶらせてくれたってバチはあたんねぇんじゃねぇのかぁ!」

「HA!? 何バカなこと言ってるんデスカ! 三つもないデスし!」

 エリスは咄嗟に胸を抱いて後ずさるが、中は粘つく。

「じゃあ二つでいいから! な!?」

「二つしかないんだから条件変わってマセンけど!?」

「じゃあシャツは着てていいから! シャツの上からならいいだろ!?」

「…………まあ、もう一回いいPlayが出来たら考えても――」

「よっしゃ! 次出来たらスケスケノーブラ白シャツローションおっぱいマッサージな! 決定! よっ、太っ腹! 頑張るぞー!」

「あちょっ! ノーブラとかLotionとか聞いてマセンヨ!?」

 その直後、五番高牧はセカンドゴロに倒れ、五回表は終了。

 中に残されたチャンスは、あと二イニング。


■□   □■


 楓恋は投球練習をしながら、金剛女子ベンチからバットを持って出てくる二人を視界に捉えていた。五回裏先頭打者の二番・蓬と、三番のエリス。

 気持ちは切り替えたつもりだった。しかしエリスの打順が近づくにつれ、『夜叉』に刻み付けられた恐怖が否応なく脳裏に蘇ってくる。満を持して投入した必殺球を一撃で粉砕された第一打席。役者の違いをまざまざと見せつけられた第二打席。4-2とスコアでは勝っているものの、楓恋自身が最も執念を抱いていた『アイドル対決』では誰の目にも明らかな敗色ムード。

「……Get Your SWING! 振り回しちゃうの Don't missing! 見逃しちゃイヤ 打ち気で来てよ 崩してみてよ 楽しませてよ I'm your Artist!」

 縋りつくように、か細い声で『SWING・SWING・SWING』を口ずさむ。エリスに野球選手としての圧倒的な実力差を見せつけられた彼女を辛うじてマウンドに立たせているのは、辛くても怖くても失敗してもライブが終わるまでステージから降りてはならないという、アイドルとしての矜持であった。

『五回の裏、金剛女子学院高校の攻撃は、二番・キャッチャー・鹿菅井さん』

 上位打線から始まる攻撃に、金剛女子応援団の声援は大きく球場に響く。

(……幸いあの面倒な一番からじゃない。コイツは丁寧に打ち取って、ランナー無しでランスフォードといこうねぇ)

 そう努めて気楽に気楽に考えるようにしていた楓恋だったが、すぐに自分の思惑の間違いを悟ることになった。

 ファール。ボール。ボール。ストライク。ファール。ファール。ボール。ファール。ファール。ファール。ファール。ファール――

(コイツ……ッ!)

 思わず歯噛みして睨みつけると、蓬はメガネの奥の瞳をギラつかせて口角を上げた。「打とうと思えば打てるのよ」とでも言いたげな嫌らしい笑みだった。

 確かにゲームも後半。少々疲れが出てくる頃だが、楓恋の球は直球も変化球もまだまだキレがある。しかしその悉くを蓬は見極め、ついてきてカットしてしまう。みまのようにそれしか出来ないというものではない。狙ってやっている。楓恋が次のエリスのことで心中穏やかではないのを承知の上で、さらにさらに彼女を焦らせ心を乱そうとしているのだ。

(バカみたいに元気な一番と、あのエリスの存在感に挟まれて意識してこんかったけど……)

 第一打席は内角を狙いすまして引っ叩いた流し打ちヒット。第二打席はノノを二塁から還す完璧な進塁打となったセカンドゴロ。地味ながら、その打撃内容には一切の無駄がない。エリスを敬遠させずに流れを必ず繋いできた。

(一番注意せにゃいけん曲者はコイツじゃったのか……!)

 十二球目。業を煮やしたかのようにボールは大きく外れ、フォアボールで蓬は一塁へ歩く。

「クソッ! クソッ……」

 ノーアウト一塁でエリスを迎える。何も上手くいっていない。楓恋は自分に苛立つ心を抑えようと小声で悪態を吐き捨てながら、ふと自軍ベンチ側に目をやった。

 背番号二桁の控え投手がブルペンで投球練習を始めていた。

(……おい。ちょっと待ちぃ。なんで替えのピッチャーの準備なんかしよる? 勝ちよるんよ今? ウチはエースじゃ。まだ二点差もある。エースが二失点で踏ん張りよるのに……監督はウチを替えよんの……?)

『三番・ショート・ランスフォードさん』

 打席に降臨する『夜叉』の影。

(次打たれたらウチ、ノックアウト……? イヤや。降りとうない。ウチはこのマウンドから――ステージから降りとうない……! アイドルは最後までステージで輝いとらんといけんもんじゃ!)

 交代させられるのではないかという不安が、アイドルとしての誇りだけで粘ってきた彼女の心の中でどんどんと焦りを――恐怖を呼び起こす。

(応援してくれるファンが一人でもおればウチはアイドルでいられる……その期待を裏切ってステージを降りてしもうたらウチは……)

「楓恋たーん! がんばれー!」「俺達がついてるぞー!」

 金剛女子応援団の声に掻き消されそうなカレン団の声援に必死に集中する。

(そうじゃ……もっとウチを応援して。ウチを支えて。みんなが居るけぇウチは、ウチは……)

 その時、楓恋の耳に信じられない音が届く。

 彼女の最新シングル曲『SWING・SWING・SWING』のブラスバンドバージョン。

「えっ……?」

 一瞬、琥珀ヶ丘応援団が心が折れそうな楓恋の為に奏でてくれているものと思った。

 しかしそんな希望はすぐに立ち消えた。

 野球の鳴り物応援は、基本的に攻撃側のチームのみが行うことが出来る。つまり今『SWING・SWING・SWING』を演奏しているのは金剛女子吹奏楽部だった。当然その目的は楓恋にエールを送る為のものではない。エリスファンクラブによる、エリス専用応援曲。その新曲の初披露の場としてこの瞬間を選んだのだった。

「これは……どういう……」

 エリスファンクラブによるこの選曲は、野球に関連していてキャッチーなメロディー、かつなるべく新しい楽曲を探したことによる全くの偶然で、楓恋を精神的に動揺させようという狙いが一切無かったことは注記しておく。

 しかし結果的に事態は大きく動く。

 楓恋の楽曲をこよなく愛するカレン団が、黙って見ているはずがなかった。

「ハイ! ハイ! ハイ! ハイ! オオオオオ~ッ! ハイハイハイハイ!」

 アイドルオタクとしての性。反射的にコールアンドレスポンスが始まる。一部から全体へ。とにかく盛り上げようと声を張り上げる。それはどんどん広がり、やがては球場中へ。

「待って……やめて……! うそじゃ……そんな――」

 それが彼女の傷ついたアイデンティティを打ち砕く一撃となった。カレン団はこれがどちらのチームの応援なのか深く気にせず騒いでいるのかもしれない。しかし、追い詰められ視界の狭まった楓恋には、信じていたファン達が自分の敵へ声援を上げる様子しか映らない。

「なんじゃ……結局みんなは、騒げればなんでもええんか? 純粋にウチを応援してくれてたわけじゃ、なかったんか……?」

 楓恋の瞳からは涙すら流れない。むしろどんどん乾いていくのを感じていた。

「ファンのみんなに応援してもらえんと……ウチは……ウチはもう、アイドルですら――」

「すいませんタイム!」

 立ち尽くして一向に動かない楓恋の許へ、捕手の小波あかりが駆け寄る。彼女は楓恋の目を覗き込み、球審に向き直って言った。

「すいません、この子のコンタクトがズレちゃったみたいなので、一旦ベンチに戻って直してきていいですか?」

 楓恋はコンタクトなどしていない。これは時間を稼ぐための方便だ。球審のOKが出たので、あかりに促された楓恋はとぼとぼと無表情でベンチへ向かう。

「棗田、あんまり気にすん――」

「ほっといてください」

 声を掛けてくる先輩を追い払い、ベンチ内の自分の鞄を開けて中身を漁る。その間にも、ベンチのすぐ上の客席から会話が漏れ聞こえてくる。

「あのランスフォードって子、いいなぁ……」

 それはこれまで幾度となく球場に足を運んでくれている親愛なるカレン団から漏れた声。

「な。可愛いよな」「おまっ……それでもカレン団かよ!」「いや楓恋たんはもちろんあまねくパラレルワールド束ねても最強に可愛いんだけど、こう、違った魅力というか」「分かる……凄いボディしてるし……」「へー、エリスって言うんだ。この子の試合も追ってみようかな」

(……今日までウチのこと支えてくれてありがとう、ファンのみんな。本当に大好きじゃった。ウチが輝けば輝くほど、みんな喜んで楽しんでくれる。それが何より喜びじゃった。でもウチ、分からんようになってしもうたよ。みんなから見放されたらウチは何のために――)

 楓恋が鞄から取り出したのは、いつもかけているブランド物の大きなサングラス。アイドルデビューが決まってから、真っ先に買った『芸能人っぽいもの』だった。変装の意味もあるが、何より『アイドル・棗田楓恋』としての証のようなものだった。

(ウチは負けた。負け犬じゃ。完敗じゃランスフォード。ウチが必死に築き上げてきたアイドルとしての存在感を、簡単にオーラで上塗りしてきよる。思い知ったわ……)

「棗田、大丈夫か……?」

 楓恋をグラウンドから隠すようにあかりが肩を抱いた。楓恋はサングラスが軋むほど強く握りしめ、肩を震わせて蚊の鳴くような声を漏らす。

「勝ちたいよぉ……ウチ悔しいわぁ……小波先輩……勝ちたい……っ」

「棗田……」

「頭ん中ぐっちゃぐちゃで何が何だかよう分からんくなって……夢とか目標とか将来とか、もう全部どうでもよくなってしもうて……とにかくウチ勝ちたい……負けたままはイヤじゃ……」

「……落ち着いて。大丈夫。野球は一対一の勝負じゃない。このままうちが勝てば、勝利投手は棗田だよ。ランスフォードの結果がどうだろうが、未来永劫、今日の勝者は棗田楓恋だ」

 あかりの言葉に、楓恋は何かを悟ったかのように息を飲み、すすり泣くのをやめた。

「――ほうじゃ……アイドルとして負けたんなら野球で勝てばええんじゃ。はっ……か、簡単なことじゃ……ははっ」

 楓恋はうわ言を発しながら薄ら笑いを浮かべる。体から力が抜け、握っていたサングラスが床に落ちて軽い音を立てた。

「な、棗田? 大丈夫……?」

「輝きで負けとるなら、はっ、ははっ、泥に塗れようが、クソほど汚れようが、はははっ、全部ブッ込んで勝ちにいかんといけんかったんじゃ……! ねえ先輩」

「な、何?」

「アイドルっちゅうもんはね、夢の塊なんですよ。煩雑な浮世から離れた理想の具現化。じゃけぇアイドルはファンの想いを裏切ったらいけんのですよ」

 震えの止まった楓恋はゆっくりとあかりに向き直る。その目には不気味な火が灯っていた。混ぜ物の多いロウソクのトロ火がチロチロと火力を増してくようだった。

「じゃけぇもうウチは、アイドルを名乗ったらいけんのですよ」

「棗田……? お前何を――」

 表情の失せた楓恋は足元に落ちたサングラスをスパイクで思い切り踏み潰した。レンズは音を立てて割れ、破片が飛び散る。呆気にとられるチームメイトをよそに、楓恋は一番大きくギザギザした破片を拾うと、帽子を取った。ふわふわと綺麗に手入れされたツインテールの片方を掴み、その根元に破片をあてがい、力を込めてノコギリのように上下に擦る。ギャリギャリ、ブチブチという厭な音が水を打ったように静かな琥珀ヶ丘ベンチに妖しく響く。そして髪の一房はブツリと断末魔を上げて千切れた。楓恋は髪をその場に投げ捨て、反対のテールも同じように切断。

「君、まだかかるかい? 早くマウンドに――えぇ……」

 急かしに来た球審が絶句する中、楓恋はザンバラのショートカットになった髪を揺らして帽子を被った。

「すみません。今行きますけぇ」

 その声は恐ろしい程に穏やかだった。


■□   □■


『SWING・SWING・SWING』が鳴り響く中マウンドへ戻ってきた楓恋の姿に球場がざわつく。カレン団も彼女の変化に気づくとコーレスを止め、動揺を隠せない。そんな異様な雰囲気を意に介さずエリスは打席に立った。

 無死ランナー一塁。点差は二点。勝利に向けてこの回なんとしても追いついておきたい。そう意気込むエリスだが、すぐに違和感に気づく。今まで自分への敵愾心をむき出しにしていた楓恋の感情がすっかり見えなくなっていた。これまでエリスは幾度も勝ち気で来る相手投手の決め球を完全攻略し、心を折ってきた。しかし今の楓恋はそういう様子でもない。むしろその纏うオーラは、全くの別人と化していた。

 楓恋の第一球。フォームは変わらぬ綺麗な挙動。

「……ッラァ!」

 だが今までにない覇気が声となって漏れる。その唸る球威から速球と判断したエリスは初球から振りにいく。タイミングは完璧だった、が――

「っ……!?」

 バットは風切り音を残して空を切った。1ストライク。単なる1ストライク。だがエリスは今大会初めての衝撃を受けていた。完璧に捉えたと感じた球に空振りさせられたのはいつ以来のことだろうか。

 エリスが打席で構え直すと楓恋は早いテンポで第二球目を放ってくる。一球目の衝撃からボールをよく見ていこうとエリスが思った矢先に投じられたのはど真ん中のチェンジアップ。エリスは虚を突かれて動けず見逃し。2ストライク。

 この頃になると金剛女子ベンチやエリス観察眼に優れたファンクラブの面々も違和感に気づく。ここまでの二打席はいずれもエリスが完璧に攻略していたのに、この打席は明らかに楓恋に踊らされている。

 第三球目。低めへの速球。見逃せば三振。手を出さないわけにはいかなかった。エリスは慎重に球筋を観察しながらカットにいったが……タイミングが若干外れ、中途半端なスイングのバットに当たったボールは三塁線へ転がる。琥珀ヶ丘サードの高牧が捕球してセカンドに送球。蓬がフォースアウトとなり、一死ランナー一塁となった。

 金剛女子吹奏楽部の『SWING・SWING・SWING』は中途半端なところで終わり、少々の戸惑いを孕んだ沈黙の後に普通の応援曲を奏で始める。

 美鶴が右打席に入るのを眺めながら、一塁上のエリスは両手を開いて閉じるを繰り返す。手が痺れていた。三回裏の第二打席、ヒットは打ったが同じように痺れを感じた。その時は深く考えなかったが、ようやく合点がいった。

 これまでの楓恋の速球は、美しく糸を引くような真っ直ぐな球筋だった。綺麗なバックスピンのかかったストレート――美しいフォーシームだったからだ。だが今の楓恋の速球はそうじゃない。

 球筋が汚い。いわゆる癖球。ナチュラルムービングファストボール。

 綺麗なストレートを投げるには、当然ボールの縫い目にかかる二本の指に入る力のバランスが整っていなければならない。それでコントロールも良いとなれば尚更だ。しかし今の楓恋は精神が乱れ、心がバラバラ。通常ならそれで調子を崩すところだが、勝利への執念がそうさせるのか、身体のキレはむしろ増していた。

 それでも指先の繊細な力加減にはバラつきが出てしまっていた。バックスピンの回転軸が乱れ、綺麗なフォーシームが投げられない。しかし逆にその乱れ切った心中を表すかのような乱れた回転がボールを打者の手元で不規則に曲げ、綺麗なフォーシームに目を慣らされたエリスのバットの芯を外し、手を痺れさせたのだった。

 今マウンドに立っている投手は、これまでの棗田楓恋とは別人と言っていい。

 美鶴も同じくバットの芯を外され、ボテボテのショートゴロ。エリスは二塁へ進んだが美鶴はアウトで2アウト。

 しかしそれでもやはりコントロールは悪化しているようで、茶々の内角を攻めた球がユニフォームに掠りデッドボールとなってランナー一二塁。

 そして――

「ストライッ、スリー!」

 六番・しほりは三球三振に倒れ3アウト。沸き上がったのは琥珀ヶ丘ベンチと応援席。じわじわと金剛女子側へ傾きかけていた流れを引き戻す楓恋の投球にスタジアムが湧く――

 ゴンッ……!

 鈍い音が響いた。無言でベンチへ戻る楓恋の肩を抱いて言葉をかけようとしたあかりが振り向くと、目を見開いて声を失った。

 打席に立ち尽くしたしほりが額から血を流していた。


■□   □■


 ……あれっ? 私はなんでベンチに? 確か打席に立っていたはずじゃ……ってリンゴ先生はそんなおっきい絆創膏なんて持って何を――

「いたっ……!」

「ご、ごめんね! 優しくするから……」

 先生の手が触れたおでこがズキンと痛みました。

「えっ、な、なにこれ……なんでこれこんなことにいてて……」

「覚えていらっしゃらないんですか……?」

 すぐ隣で心配そうな顔をした彰子さんが口に手を当てています。というかベンチに座ってる私の周りに、医務室で寝ているみなもちゃんや、この後のピッチングに備えてキャッチボール中の部長と蓬ちゃん以外のみんなが集まって覗き込んでいます。

「しほりさん、三振なさった後に自分の頭をバットで何度も殴りだしたんですよ……。わたくしだけでは止められなくて……気が触れてしまったのかと心配でした……」

「結局みんなでベンチまで引きずってきて、とりあえず今は怪我の治療ってことで中断中だよ。血がすぐ止まって良かった……」

 彰子さんと鵜飼先輩の言った通り、私のおでこにはぷっくりとたんこぶができており、ユニフォームにも点々と赤い染みが出来ています。

「そっか、私――」

 エリス先輩が打ち取られて、私が頑張らなくちゃって思って……それで――

 スコアボードを見上げると、五回裏には0の表示。

「――打てなかったんだ、また……」

 さっきの打席でファールチップだけどバットに当たったから今度こそって思ったのに……結局いつもの三振じゃないですか。

 自分を信じて? 自分の役割を? なんにも上手くいかない。一度も役に立ったことがない。そんな奴がどうやって自分を信じたらいいんですか。どんな役割を演じればいいんですか。

「エリス先輩、私……やっぱり無理ですよ……」

「シホリ……」

 先輩の顔を見れないまま、私の口から泣き言が零れ落ちていきます。

「やっぱり私なんかじゃ先輩の期待するような選手にはなれません……」

「そんな……まだ諦めるには早いデス! シホリならきっと――」

「無理ですよ……先輩は私の何を見てきたんですか。一度も打てたことない。三振ばっかり。プロレスからも逃げてきたような私が今更なにをやっても……」

「過去の失敗が何だって言うんデスカ!」

 先輩は私の肩を掴んできました。

「一度見た夢は何度失敗しても信じていいんデス! いつか成功した時その全ては糧に変わるんデスから!」

「成功する見込みが無きゃ、失敗は全部失敗のままなんですよ」

「シホリ……お願いデスから、そんなこと言わないで……」

 エリス先輩は目をうるわせ、そんな彼女の顔を見られず私は目を伏せました。

「……ちょっとすみません」

 その時、誰かが私とエリス先輩の間に割って入りました。

「しほりちゃん、ちょっといい?」

「美鶴ちゃん……」

 見惚れるような美形の顔が真っ直ぐ私を見つめてきます。

「私には君の気持がよく分かるよ。実力が伴ってないのに四番にされて、周りから散々期待されてさ……逃げ出しちゃいたいって思うこともある」

「美鶴様……」

 美鶴ちゃんは不安げに見つめる彰子さんに微笑むと、私に向き直って続けます。

「でも、本気で投げ出そうと思ってるわけじゃないんだよね。私はこのチームが大好きだし、チームメイトのみんなが大好きだし、みんなで野球やるのが好きだから。だからこそ、勝ちたいって思うんだ。勝つために何かしたいって思う。それだけでいいんだよ」

 美鶴ちゃんは私の手を力強く握ります。

「誰かの期待に応えようとか、夢を背負ってとか、そういうのは私達にはちょっと早いみたいだ。自分の為に、やりたいようにもがくだけでいいんだよ。しほりちゃん、君はどうしたい?」

「……勝ちたい」

 自分の口から出た言葉に驚きながらも、それはとめどなく続きます。

「勝ちたいよ……ここまで来たら勝ちたいよ……ッ! 何でもいいから何かして勝ちたい……! 胸張って『私達が勝った』って言いたいよ! 私も大好きだもん! 野球も! みんなも! みんなの為に打ちたいよ私は……ッ!」

「よく言ったわ!」

 横からノノちゃんが飛び込んできました。

「小難しいことはどーでもいいのよ! 絶対逆転して勝つ! そんだけ! 優勝をもぎ取りましょ! みんなでね!」

 そして『THE☆親睦リストバンド』をつけた左手を差し出してきました。私がその手を左手で握ると、美鶴ちゃんと彰子さんも私の手を取り、三人で私を引っ張って立たせます。

「はいグラブ」

 いつの間にかキャッチボールから戻っていた蓬ちゃんが私の手にグラブを押し付けます。

「まずは守備から頑張りましょ。今は亡き玉響の為にもね」

「……あははっ。みなもちゃん死んでないよ」

 私は笑いながら帽子を被りました。絆創膏の下のたんこぶが痛みますが気にしません。

「準備は出来たか! 往くぞッ!」

 部長の号令で守備位置へ散っていく金剛女子ナイン。私もライトへ走りだそうとしましたが、エリス先輩に呼び止められました。

「あの、シホリ……ゴメンナサイ。ワタシ、アナタに独りよがりな――」

「エリス先輩……」

「ワタシはアナタの未来のことを考えていマシタ。シホリをSluggerにすること。それがワタシの未来にも繋がっていると思ったからデス。でも……それで勝手に重荷を背負わせちゃいけマセンヨネ」

 そして破顔した先輩は明るく声を張り上げました。

「一緒に勝ちマスヨ! シホリ!」

「……はいっ!」

 私達は笑顔でグータッチを交わしました。

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