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【6】狂え その2

『金剛女子学院高校、選手の交代をお知らせします』

 ウグイス嬢の放送が流れだすと、ざわついていた球場はシンと静まった。

『ピッチャー・玉響さんに代わりまして、夕霧さんが入り、レフト。レフト・倉さんがライト。ライト・伊藤我さんがサード。サード・藤原さんがピッチャー。四番・サード・伊藤我さん。五番・ピッチャー・藤原さん。六番・ライト・倉さん。八番・レフト・夕霧さん。以上に代わります』

 客席には当然昨年の頭部死球の一件を覚えている者もいて、この投手交代がアナウンスされた途端に球場は再び騒がしくなる。そんな喧噪を全身に浴びながら、金剛女子のエース・茶々はマウンドへ上った。一旦打席を外している沙良々を見ることなく、淡々と投球練習を開始。何事も無かったかのように、ボールは蓬の構えるミットに針の穴を通すコントロールで吸い込まれていく。

(――ここまでは、いい)

 蓬はマスクの下で眉間にしわを寄せる。

(問題は雁野沙良々と対峙した時どうなるか――)

「ずっとね、痛いの、茶々ちゃん。私の眼。この一年、ずっと痛かった」

「! ……?」

 脇に立っていた沙良々が突然喋り出したので、また自分に話しかけてきたのかと蓬は思ったが、どうやら彼女はマウンド上の茶々に向かって独り言を呟いているようだった。

「仕返し、しなきゃね。傷を舐め合うなんて、私達らしくないでしょう?」

 そして陶器のような変わらぬ表情で打席に入った。

 三回表、ついに先制しなおノーアウトでランナー二塁。打席には最強打者『白鯨(モビーディック)』。琥珀ヶ丘応援席はどんどんボルテージを上昇させ大音量で応援曲を奏で歌う。

 脱力して立つ沙良々は、色の異なる双眸で静かにマウンドを見据えている。

 マウンド上の背番号1は、改めて足場をならしてからスパイクに付いた土を落とし、額の汗を袖で拭って帽子を被り直し、バックスクリーン側を向いて深呼吸をして、プレートの右足を置く位置を丁寧に定め、グラブの中の白球を右手に持ち替え、縫い目を確認するようにしっかりと握り――ゆっくりと一八・四四メートル先の旧友と向き合った。

(表情は大丈夫……さて――)

 蓬は祈るようにサインを送る。茶々は頷く。

(ストレート。外に。どうか……っ!)

 いつも通りのセットポジションから茶々が始動する。友への想いと、この一年間燻る葛藤と、チームの柱たる重責と――混ざり切らずに折り合いもつかず、マーブル模様に混沌とした心を握り潰して絞り出すように、白球を握った右腕がしなる。

(――クソッ!)

 この数か月バッテリーを組んできた蓬は、茶々のフォームから瞬時に察してしまった。

 咄嗟に腰を少し浮かし、脚を動かしやすく構えたと同時にボールは茶々の手を離れ、その軌道は蓬の構えたミットから約一メートルも外へ逃げていく。蓬は飛び込んで捕球を試みるが失敗。ボールはバックネット近くまで跳ねるワイルドピッチとなり、二塁走者は三塁へ進む。蓬が大急ぎでボールを拾い、なんとか本塁突入は避けられた。

 茶々は本塁へカバーに走り込んでいたが、明らかに瞳孔は開き呼吸が浅く平静ではない。

 蓬は意を決したように大きく息を吐き、投げ捨てたマスクを拾ってホームへ戻る。

「――何を今更慌ててるんですか! こんなの覚悟の上でしょう!」

 蓬は敢えて荒っぽく吐き捨て、茶々のグラブにボールを押し込んだ。

「野手みんなそうですよ! そう思って部長にマウンド任せてるんですよ! 今更ワイルドピッチがなんですか! いつもみたく堂々と投げてきてくださいよ!」

「鹿菅井……」

 ポカンとして呟く茶々をシッシッと手で追いやる蓬。

「ほらさっさとマウンドに戻る。コントロールなんてテキトーでいいですから。玉響のアホで慣れたんで。どんな暴投でも次はちゃんと止めます。あのランナーは還させませんから」

「――ああ、分かった」

 茶々は少し微笑んでマウンドへ向かう。

 二人の様子を、沙良々は隣でただじっと見ていた。

 球審のプレイがかかり、茶々の二球目。蓬のミットはど真ん中。投じたボールはホームベースの前でバウンドしたが、蓬が身体を被せるようにプロテクターにぶつけて前に落としすぐに拾ってランナーを牽制。

(これでいい。これを続けて部長の復活を待つのが今出来る最善策。信じろ、部長の強さを)

 改めて覚悟を決め、三球目。今度は大きく上に逸れる暴投。しかしこれもなんとか跳び上がってミットの先でキャッチする。

(これでスリーボール……)

 十中八九次で四球になり沙良々を歩かせることになるだろう。もしかしたら沙良々以外の打者相手であれば茶々はまともに投げられるかもしれない。蓬はその望みに希望を託し、腰を浮かせてミットを構える。

 そして投じられた四球目――ボールは沙良々の背中側を通過する軌道を辿る。蓬は横っ飛びで捕球を試みる。

(これを捕れれば……この打席点をやらずにフォアボールで終われる……ッ!)

 しかし――

「そんなのつまんない」

 そう呟く声を聞いた気がして、空中の蓬は愕然とした。

 右打席の沙良々がボックスの中で左脚を軸に一八〇度回転し、左打者の形で構えている。

(まさか――)

白鯨(モビーディック)』は逃亡を許しはしなかった。

 そのまま沙良々は自然な左バッターのフォームで、自分の背中を通過するはずだったボールを打ち返した。鋭く低い弾道の打球はピッチャー返しとなり、茶々の顔面のすぐ右脇を唸りを挙げて通過。彼女の右ツインテールを掠めてなお伸びていき、二遊間の中心をブチ抜いてセンター前に転がった。サードランナーはゆっくりとホームを踏む。

 打者が回れ右して、自分の背中側を通るボールを打ち返すという前代未聞の光景に球場中が度肝を抜かれる中、あわや顔面強襲となるところだった茶々は魂が抜けたような表情でしばらく固まってから、ふと一塁上に目をやった。

 沙良々はずっと茶々を見ていた。視線が合うと彼女は両手をファイティングポーズのように握り、「しゅっしゅっ!」と口で言いながら茶々に向かって不格好なシャドーボクシングをやって見せ、いたずらっぽく微笑んだ。

「――――はぁぁぁー……」

 茶々は肺の中の空気を全部抜くように大きく溜息をつき、全身から力を抜いて――

「……ふふ……っ。あっはっはははははははははははっははっはははっ!」

 とても楽しそうに笑った。

「ぶ、部長……?」

 おずおずと蓬が話しかけると、茶々は清々しさすら漂わせて向き直った。

「鹿菅井、あいつさっき何か言ってなかったか」

「はい? えっと……仕返しするとかなんとか」

「やっぱりか。ははっ、そういうことだったんだよな。まったくつまらん。不器用にも程があるだろうお互いに。笑えない笑えない。ふっふっふ」

「いや笑ってるし……わけわかんないんですけど……」

「それでいいんだ。さてさて、4-0か。これ以上はもうやれんな。さっさとこのイニング終わらせるぞ鹿菅井よ。ほら戻れ戻れ」

 今度は茶々がシッシッと蓬を手で追いやる。

「え、いやあの――」

「安心しろ。もう我は大丈夫だ。完全復活というやつだな。こんなに体が軽いのは一年振りだ」

「……よく分かんないですけど、分かりました」

 蓬は眉根を寄せたまま定位置へ戻っていった。

(『仕返し』ね。あの野郎、狙ったな?)

 茶々が再び一塁を見ると、沙良々はまだニコニコしていた。

(罪の意識に苛まれてるふりして、結局わたしはただの独りよがりだったんだ。サラだってとっても大変で辛かったはずなのに。お見舞いにも、謝りにも行かずに、一年もうじうじして。そんな自分がひたすら後ろめたいだけだった)

『決勝で当たる前に、茶々ちゃんと直接会って、野球(おはなし)したかったから』

(挙句の果てに向こうから手を伸ばしに来てくれたのに……それでもわたしは向き合うこともしないで逃げてばっかで……そりゃサラも怒るよね)

 茶々は打球が掠めて乱れた右ツインテールを撫でた。

(「一発殴られたから一発殴り返して手打ち」ってか? いつの時代のヤンキー理論だよ)

 次の打者である五番・高牧菜花が左打席に入り蓬がサインを送ってくる。

 茶々は初めて首を横に振った。もう一度。もう一度。四回目のサイン交換でやっと頷き、モーションに入る。

(そんな意味不明な親友でライバルなサラのことが、今も昔も、わたしは大好きなんだ!)

 ほころぶ口元を隠さず投じた初球はど真ん中。失投と見た高牧は思い切り打ちにいく。しかしボールはそこから抜けるように沈み、外へ逃げていく。

 茶々の宝刀・シンカーだった。

 高牧は右手一本でなんとか当てるも、引っ掛けたボテボテのゴロになってセカンド・彰子の正面へ転がる。丁寧に捕球した彰子はボールを柔らかくトス。二塁に走り込んだエリスがこれをベアハンド――素手の右手でキャッチしてそのままベースを踏み一塁へ送球。

「おごぉッほぉォォんっ!」

 みまの喘ぎ声が高らかに響き渡る。4-6-3のダブルプレー完成の合図だった。

「ツーアウトー! さっさと切るぞ!」

 茶々が復活した力強い笑顔で野手を鼓舞。そしてセカンドでアウトになってベンチに戻ろうとしている沙良々に小声で言った。

「ごめん、待たせた」

「んーん、私も今来たとこ」

 沙良々は澄ました顔で「一度言ってみたかったの」と言い残しベンチへ戻っていった。

「……ふはっ、本当に意味不明だな」

 茶々は溜息交じりに笑うと、帽子を取って汗を拭い、太陽の輝く青空を見上げた。

(眩しいなぁ。今日はこんなに暑かったのか。なんて最高の野球日和なんだ)

 完全復活した茶々は六番・楓恋もピッチャーゴロに仕留め、結局交代してから最少失点でこのイニングを終わらせた。


■□   □■


「ヘイヘイ楓恋たそ~! ヘイヘ~イ!」

 三回裏先頭打者のノノはバットを揺らして構えながらマウンド上の楓恋を煽っている。

(ウザっ……いけんいけんウチはアイドルウチはアイドル……)

 思わず顔を顰めそうになるが、寸でのところで思いとどまりアイドルスマイルで取り繕う。

(せっかく四点も先制したんに落ち込むどころかアゲアゲやん……気持ち悪っ)

 ノノだけでなく、声援を送る金剛女子ベンチの面々もまるで勝ち越しムードだ。

(雁野先輩が余計なことしたっぽいなぁ……なんしょんねまったく。じゃけども、まあウチが追いつかれなきゃええ話じゃね)

 相手のエースが復活しようがなんだろうが、リードしているのは琥珀ヶ丘。それが事実。

(四点なんて野球初めてこの方、取られたことないわ!)

 ここまで散々内角の速球を見せたノノに対し、外角へ緩いチェンジアップを投じる楓恋。思惑通りノノはタイミングを狂わされ姿勢を崩し、なんとかバットには当てるも引っ掛けてボテボテのゴロになる。

「ショート!」

「あいあい!」

 ショートの新條が声を出しながら前に詰めて捕球。ワンステップして一塁へ投げる。その動作には特に無駄など無かった。

「セーフ!」

「なっ……!?」

 際どい判定ですらない。ヘッドスライディングすら不要。一人だけ早送り映像の世界で生きているような別次元のピッチ。ノノが当然のように内野安打をもぎ取った。

「ッシャーイ! ウェーイ! ノノの勝ちー!」

 大はしゃぎでベンチとスタンドの声援に応えるノノ。やりすぎて塁審に注意されているが、金剛女子のムードはさらに上向く。

(しまった……! 一番を出してしもうた……あいつにはゴロすら打たせちゃいけんかった)

 唇を噛む楓恋。その様子を見て、スタンドに駆け付けた楓恋ファンが大声を上げる。

「ドンマイドンマイ楓恋たそー!」「俺達がついてるぞー!」「おらお前らァ! 応援で負けんな! カレン団(楓恋ファンの俗称)の底力見せろやァ!」「うおおおおおおたそおおおおおお!」

(――ふふっ、ウチは恵まれとるねぇ)

 楓恋は微笑んでファン達に小さく手を振る。さらに盛り上がるカレン団。

(グラウンドの一番高いところ――こんマウンドがウチのステージ。ファンのみんなが応援してくれよる限り、ウチはアイドルでいられる。孤独なこんステージで、みんなの期待する輝くウチでいられる)

『二番・キャッチャー・鹿菅井さん』

(さて――)

 打席に入る蓬に視線を据えて、楓恋は意識を戦闘モードに切り替える。

(さっきは内角の速球を上手ーく打たれたけぇ、注意せないけん)

 キャッチャー小波のサインは外角へチェンジアップ。

(せやね、ここは慎重にいこうな)

 頷き、楓恋は振り被って初球を投げ込――突然の歓声。

「――ッ!?」

 驚くが、投球モーションに入っている楓恋には何もできない。そのままミット目がけ緩いボールを投げ込む。蓬は悠々と見逃しストライク。腰を上げながら捕球した小波がすぐさま立ち上がりボールを二塁へ投げる。楓恋は素早くその場にしゃがみ込んでボールの行方を見た。

 ノノが足で土を巻き上げながら二塁へ滑り込んでいる。その判定は一目瞭然だった。

「セーフ!」

 塁審の手が大きく広げられ、ノノは塁上でガッツポーズ。テンションが上がって思わず跳び上がってしまい危うくタッチアウトになりそうになったが、それも含めて大騒ぎ。

(煽られてペース乱されんのが嫌で、一瞬意識から追い出した……その隙を――いや、ほんまにほうじゃろうか……)

 楓恋は視線を金剛女子ベンチ側へ向ける。今まで努めて意識せずにいた次の打者。

 ネクストバッターズサークルに立つエリスは、殺気をだだ漏れにしながら楓恋を見ていた。

 ノノが得点圏に進んだ。蓬が凡退しても、そのまま残る可能性が高い。

 つまりその後、楓恋はエリスを歩かせることになる。

(わざとなんじゃないん……? ウチは心のどこかで、ランスフォードとの勝負を避けとうなってたんと違うんか……? だからわざとランナーを警戒しとらんかったんじゃ……?)

『うん、Nice ballデシタネ』

 渾身の決め球をあっさり打ち返されたショックは、脳裏に強くこびりついている。

(なんでじゃ……なんでウチ、ホッとしとるんじゃ……! ランスフォードを倒しに来たんじゃろ! アイドルとして奴に勝つために――)

 アイドルとして――その言葉と共に楓恋の頭に浮かぶのは、幼い頃に憧れた輝くアイドルの姿。そして彼女たちと同じく、眩しくライトに照らされたステージで歌い踊る自分の姿。

(――なんでウチ、こんなとこで野球なんかやっとるんじゃ……。そんな暇があったら、歌でもダンスでも練習しとった方がよっぽど有意義じゃろうが……)

 何事も中途半端は厭だからと、ここまでアイドルも野球も全力投球でやってきた。

(アイドルも野球もって……そんなんが一番中途半端なんじゃないん……? そんな中途半端野郎が、野球に全部突っ込んどる天才に勝てる道理なんてあるん……?)

 アイデンティティが崩れていく音を聞きながら、しかし試合は待ってくれない。奥歯を噛みしめながらボールを投げ込んでいく。とにかく外角中心。壊れそうになる自分を繋ぎとめるように、無心でただボールを投げる。

 五球目。外角低めに投じたストレートに合わせバットを振った蓬。しかし本当に合わせただけといった様子で、打球はセカンド定位置の横へ転がっていく。セカンドの興津が走り込んでしっかりと捕球。ノノは三塁へ向かうが、余裕をもって一塁へトス。

(しっかり進塁打ね。あんメガネ、器用で何でもできる典型的二番って感じじゃな――)

 これで一死三塁。エリスを敬遠して一・三塁か……と楓恋が考えていたその時だった。

 ファーストの沙良々がベースを踏んだまま送球をキャッチし、塁審がアウトを宣告するのと同時に、サードの高牧が叫ぶ。

「ホームホームホーム!」

 何事かと楓恋は振り返った。

 ノノが三塁を回ってホームへ向かっている。

(嘘じゃろ!? いくら速くても暴走にも程が――)

 沙良々はすぐさまホームへ送球。片目の光を失っているとは思えないストライク送球。キャッチャー小波が捕った時、ノノはまだホームの三メートルほど手前にいた。小波は落ち着いてミットを出しタッチを――しようとしたら視界からランナーが消えた。

 ノノは跳んだ。跳び越えた。スピードを落とさずスーパーマンのように空中へ飛び出し、そのまま小波の体も、ホームベースさえも越えてクルリと前転して着地。

「おっとっとっとっとぉ!」

 慌てて這いつくばって触り損ねたホームベースに手を伸ばす。小波もやっと事態を把握してタッチしようとミットを伸ばすが遅すぎた。

「セーフ!」

「シャアアアアアアッホッホッホーウ!」

 球審のコールを聞いてぴょいんぴょいん跳ね回りながらチームメイトとハイタッチしまくるノノ。これで4-1。この一点は紛うことなきノノの脚でもぎ取った一点だ。はしゃぎまくるノノは戻ってきた蓬をハグで出迎えた。

「だーからノノ言ったじゃない! 練習しといて良かったでしょ!」

「まさか本当にやるとは……」

「素直じゃないわね~。信じてたからゴロ打ってくれたんでしょ?」

「いやいやあれはただの進塁打だっつの」

「んもう連れないんだからっ! むちゅ~♡」

「ちょ、こら……やめっ――」

 そんな一年生の仲睦まじいやり取りを眺めて微笑むと「さて――」と息を吐き、表情をがらりと変えて打席に向かう『夜叉』の姿。

『三番・ショート・ランスフォードさん』

 ランナーはもういない。勝負を邪魔するものはなにもない。

「――は……はは……」

 楓恋は乾いた笑いを漏らした。

「なんじゃこれ……勝っとるのはウチらじゃろ……? なんで……なんでこんなに――」

 ノノが温めに温めた空気の中、吹奏楽部はエリス専用応援曲を大音量で奏で、エリスファンクラブの大応援団はテンションMAXで歌い踊る。

「初めてじゃ、こんなに……ステージを、怖いと思ったのは――」

 詰めかけた観衆の注目を一身に集め輝く存在――それをアイドルと呼ぶのなら、今この場におけるアイドルは間違いなくエリスであった。

 野球をやっている女子高生なら誰一人知らぬ者は無く、金剛女子応援席のみならず、琥珀ヶ丘応援席の観客までもスマホのカメラを構えてその悍ましいほど美しい一挙手一投足を捉えんと躍起になっている。

 荒れ狂う獣の血流を女神の人型に無理やり押し込めたかのような精気に満ち満ちた体躯。

 その可憐さ、猛々しさ、強靭さを、一目でまざまざと刻み付ける気炎万丈のオーラ。

 彼女が左打席に立った瞬間、球場は金色の覇気に染め上げられる。

(……格が違う)

 楓恋は視界が急速に狭くなっていくのを感じていた。

(認めるしかない……ランスフォードは雁野先輩と同じような世界に生きとる。ウチなんか足元にも及ばん――野球選手としてはねぇ)

 それでも彼女の足元を支えているもの。それはアイドルとしての意地。

(ウチはアイドル。どこでだって、何をしていたって、ファンの笑顔の為なら輝ける。誰よりも強くてカッコ可愛い……そんなアイドルに、ウチはなるッ!)

「――ドリャァァァッ!」

 ガムシャラに帽子を振り落としながら球種もフォームも勢いに任せて、ミット目がけてただ全力で投げた。

 そんな闇雲に振り回した刃が『鬼』の首を獲れるはずもなく――金棒に容易く跳ね返される。打球はショートの頭を越え、レフトの前にポトリと落ちた。エリスは余裕をもって一塁を駆け抜け、客席はさらに大きく沸き上がる。

「……クソッ」

 楓恋はマウンド上で独り、吐き捨てるように零す。そんな彼女を塁上からエリスがじっと見ていた。

「エリス、ナイスヒット」

「――ああ、ハイ」

 ベースコーチャーに出ていたみまが話しかけてくるが、エリスは思案顔で両手を閉じたり開いたりしている。

「どうしたの?」

「いえ……ちょっと手が痺れちゃいマシテ」

「珍しいね。エリスが芯外されるなんて」

「ハイ……しっかり捉えたはずだったんデスが――」

『四番・サード・伊藤我さん』

 エリスに負けぬ黄色い声援を背に美鶴が打席に向かう。ここまで打席では良いところの無い美鶴は険しい表情で、マウンド上で唇を噛む楓恋を見る。

(……キツイよね。あの人の凄さを直接見せつけられるのって)

 エリスの次打者という重責を任される者として、美鶴には楓恋の辛さがよく分かった。

(でもだからこそ、ここであなたを打ち砕く)

 セットポジションで構える楓恋。左投手である彼女の正面、一塁ランナーのエリスは殺気を緩めることなく、ギラギラとした眼光のまま大きくリードをとる。楓恋は第一球を投じる前に牽制球を放った。エリスはヘッスラで戻りセーフ。

(エリス先輩が塁上からプレッシャーをかけ続けてくれている。その影響は大きい)

 美鶴は大きく素振りをして息を吐く。

(万全のあなたとがっぷり四つで勝負できる実力は私にはない。だから博打を打つしかない)

 ボールが戻ってきても楓恋はエリスを注視。最大限に警戒しながら第一球を投げ込む。その瞬間エリスがスタートするがこれはスタートのみの偽走。すぐに止まって一塁に戻る。投球はチェンジアップだったが、美鶴は見送り判定はストライク。

(緩急で抑える相手の全部の球を狙っていたらタイミングを狂わされて思う壺。だからチェンジアップは全て捨てる。それでも出所の見にくいフォームから放たれる速球は見てから振ったら間に合わない。だから来ると思って振りにいく)

 やはり大きなリードのエリスに、楓恋はもう一度牽制を挟む。

(あなたはエリス先輩を無視できない。走られたくないから緩い球は投げにくい。必ずどこかで速球は来る。決め打ちがキャッチャーにバレる前に勝負をかける……!)

 そしてクイックで投げ込まれる二球目――

(ここだ……ッ!)

 美鶴は一か八かストレート狙いで振りにいく。迷いを振り払うような鋭いスイング。

 そして来たボールは――外角のストレート。美鶴は長い腕を伸ばしこれを完璧に捉えた。

 突き抜けるような打球音と共に白球がレフト方向に飛び、やや深めに守っていた左翼手吉野の頭を越えて落ちる。迷わず走り出していたエリスは二塁を回り三塁を回りホームに突っ込む。美鶴はセカンドに滑り込んだ。ボールは中継に帰ってきただけだった。タイムリーツーベースヒット。4-2。

 二塁上でガッツポーズした美鶴は、楓恋に視線を向けた。

(どうかな、これで打ち崩せたんじゃ――)

「Get Your SWING! 振り回しちゃうの Don't missing! 見逃しちゃイヤ

 打ち気で来てよ 崩してみてよ 楽しませてよ I'm your Artist!」

(!?)

 楓恋がマウンド上で突如歌い始めた。それどころかその場で踊り始めた。

「Mighty SWING! ドキドキさせて Like a dream! 夢を見させて

 白黒つけて イチかバチかの 応えてよ さあ You're my Archist!」

 それはアイドル・棗田楓恋の最新シングル曲『SWING・SWING・SWING』のサビだった。それにいち早く気が付いたカレン団がダンスに合わせて歌とコールを大声で叫び始める。

「最後のチャンス 真っ直ぐど真ん中 打ち返してみせてよ Your Full SWING! じゃん!」

 最後にポーズを決めるとカレン団は拍手喝采。楓恋は笑顔で「ありがと~!」と手を振った。

(――ここでポッキリ折れんのが並の投手なんじゃろうが、ウチはほうはならん)

 アイドルに戻った楓恋は吹っ切れたように清々しい表情で汗を拭いた。

(切り替え切り替え。雰囲気に呑まれたらあかんよ。まだリードは二点ある。それにあとは下位打線じゃ。パパっと片づけてリフレッシュといこうな)

 その後、五番の茶々を再び敬遠し一死一・二塁として彼女を迎えた。

『六番・ライト・倉さん』

(雁野先輩のお気に入りちゃんじゃけど……まあ安パイじゃね)

 右打席で構えるしほりに対し、楓恋は第一球ストレート、第二球チェンジアップとテンポよく投げ込む。しほりはどちらもフルスイングの空振り。

(確かに凄いスイングじゃけど、当たらないんじゃ意味ないわ)

 さっさと2アウト目を獲ってしまおうと、三球目の速球を投じた瞬間――

「――……っ!」

 楓恋の背筋を襲う怖気。詰まる呼吸。スローになる視界。

(そんな……これはランスフォードん時と同じ――)

 楓恋のストレートはやや内角。まっすぐミットへ向かう。そこへ襲い掛かるしほりのフルスイング。有り余る膂力によって振り回される豪速のバット。タイミングは合っていた。ボールの下を僅かに掠るが、軌道を変えるには至らずそのままミットに吸い込まれた。

 ファールチップの直接捕球でストライク。結果は三振。

「――ハッ……ハッ……!」

 楓恋の全身から脂汗がドッと溢れた。投げ終えた体勢のまま大きく息を乱す。

(今、ちょっとずれとったら……仕留められとった)

 悔しそうにベンチに戻る背番号9を見ながら、楓恋は唾を呑んだ。

(あいつは危険じゃ。油断できんわ)

 この後彰子も三振に倒れ、三回は終了。

 四回表は先頭の小波を打ち取った後、八番新條に三塁線を抜けるヒットを許し、さらに中が処理にもたつく間にセカンドまで進まれたが、茶々が落ち着いて九番興津、一番吉野を打ち取り無失点で終了。

 その裏、八番の中、九番みまが連続三振に倒れ、一番ノノは再び打球をショートに飛ばすも今度は新條の守備が勝りゴロに打ち取られ三者凡退。

 一旦試合は落ち着きを見せ、後半に突入する。

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