Paradise Lost
ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリボキッ。
「あ、また折れた……」
ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリベキッ。
「もう……ちょっと熱中するとすぐ……。新しい箱開けないと……」
右手の中で折れたバットのように粉砕された鉛筆をゴミ箱に投げ入れ、引き出しから未開封の鉛筆の箱を取り出し、その一本目を鉛筆削りに突っ込みます。一日一箱空ける勢いです。ヘビースモーカーのタバコかって話ですよ。
「それにしても、随分溜まったなぁ……」
机の上に開いたスケッチブックはそろそろページが無くなります。毎日狂ったようにページを埋めるようになってから、もうニ十冊は数えるでしょうか。なんとなく手に取って最初の方からページを捲ってみます。そこには古今東西、様々な野球選手のスイングの一瞬を切り取ったスケッチが所狭しと並んでいます。ネット上にある動画を探して、一時停止しながら連続写真のように一枚一枚描いたものです。
「なんとなく分かってきたかな。スイングしても頭の位置が変わらないとか……」
まあ、それを自分が実践できるかとなると別な問題なのですが。
ペラペラ捲っていくと、主旨とはズレたラクガキもちらほら見受けられます。好きなキャラクターの二次創作イラストなどに混じって、一際力を入れて描かれたのが分かるものがいくつか。あの日から、ずっと私の中に燻る行き場のない感情の噴出。
金剛女子学院と刺繍された背番号6のユニフォームはそのアスリート然とした肉体のラインを描き、風に揺れるポニーテールはまるでヒーローが首に纏うスカーフのよう。ある絵は鬼神の如き覇気を放ちながらバットを悠然と構え、ある絵はグラブ片手に躍動しグラウンドを華麗に駆け巡っています。これらは全て雑誌の記事や新聞写真、ネットに転がっていた画像の模写や、それらを元に私が想像で描いたオリジナルのイラストです。
「はぁ……」
思わず溜息が出ちゃいます。絵にも描けない美しさというやつです。実物の美しさに、私の画力が追いついていません。もっと練習したいところですが、彼女を描き始めると力が入っちゃって、鉛筆が何本あっても足りなくなるのです。中学生の雀の涙のようなお小遣いが鉛筆代で消し飛んでしまいます。
「――さてっと……」
新しい鉛筆に持ち替え、スケッチブックの新しいページを開き、PC画面に映し出した今年プロ野球でホームランを量産した外国人助っ人打者のフォームを見ながら、頭に叩き込むように鉛筆を走らせます。
もうすぐ新しい年度がやってきて、私は高校生になります。彼女と同じ学校で、一緒に汗を流し、共に頑張ってみたい。そして願わくば、あの笑顔が私に向けられるようなことになれば――なんて考えてしまうのは、ちょっと欲張りというものでしょうか。
みんなの期待から逃げて、そんな自分に嫌気がさして落ち込んで、川の中の石の下にいる虫みたいになっていた私がこんな分不相応な目標を抱いたのは、全部あの日が切っ掛けです。
地獄のように熱い、熱い夏の日に、金色に輝く『鬼』に魅せられたあの瞬間――私の頭はきっと熱に浮かされて狂ってしまったのでしょう。
野球という麻薬に侵されてしまった彼女達と同じように。
■□ □■
「ほらほら! こっち空いてるよ!」
騒々しく応援歌を奏でるブラスバンド。選手の一挙手一投足に歓声や溜息を漏らす観客。友達のみなもちゃんに連れられてやって来た球場で、私はその狂騒に初めて触れました。
照りつける陽射しの濁流が襲う広いグラウンド。そこに立つ選手たちは、私にはとても小さく見えました。これはプロ野球などではありません。社会人野球でも大学野球でも、皆さんが想像する高校野球ですらありません。
『金剛女子学院高校』対『瑠璃沢高校』――そうスコアボードには表示されています。
これは高校女子硬式野球。その地方大会の一戦です。私とそう歳の変わらない女の子たちが、男子と同じグラウンド、同じボールで野球をしているのです。一応野球の知識くらいはありますが、ホームランとか、豪速球とか、そういうダイナミックで分かりやすい魅力からは、正直遠いところにある気がします。
「あのねぇ、そういうこと私の前で言うかな……」
「あぅ、ご、ごめん……」
家が近所で幼馴染のみなもちゃんはシニアリーグで野球をやっていて、来年は今目の前で試合をしている金剛女子の野球部に入るのだと鼻息を荒くしているのです。
「そりゃ男子に比べたらパワーもスピードも足りないけどさ。女子野球には女子野球の魅力ってもんがあるんだよ。玄人には分かるんだよ玄人にはさぁ」
「そんなこと素人の私に言われても……」
「ははは。それにさ、女子にだってスゴイ人はいるんだよ。ほら、あの人とか――」
彼女が指さしたのは、今まさにバットを握って打席に向かう金剛女子の選手。
『三番・ショート・ランスフォードさん』
ウグイス嬢が彼女の名を告げると、スタンドが一斉に大歓声を送ります。三塁側の金剛女子の応援席だけでなく、本当に球場中が熱狂しているようです。
「うわっ! すごい人気……そんなにすごい選手なの? 外国の人?」
「ハーフだよ。まだ一年生なんだけど、もうあっちこっちの雑誌で特集されてるんだよ。打撃も守備も日本女子野球界トップクラスの大型ショートって。もうスカウトも来てるみたいだし。それに何よりもやっぱり見た目が……ねえ聞いてる?」
聞いてませんでした。私はすっかり、左打席に立つ彼女の姿に見惚れてしまっていたのです。
球場中に押し掛けた全員の視線を一身に浴びながら、その全てを呑み込み覆いつくす程の圧倒的存在感。美術品のように均整の取れたスラリとした長躯。ユニフォームは溢れんばかりのパワー漲る肉体にはち切れそう。その背中には背番号6を戴き、ヘルメットからはポニーテールにされた黄金色の髪が夏の風にそよいで、夏の日差しを反射して輝いています。
「綺麗……」
「ねえ頬っぺた赤いよ? ちゃんと水分摂ってる?」
みなもちゃんの的外れな指摘は無視して、私の視線は打席のあの人に釘付けです。
現在七回表ツーアウトでランナーは一塁と二塁。スコアは3-4で金剛女子が負けていますが、ランナーを一気に返せれば逆転の勝負所です。みなもちゃんが腕を組んで言いました。
「一打逆転の場面だけど、もう後がない……ドキドキだね」
「――えっ? 後がないって、まだ七回だけど……」
「女子野球は七回で終わりなんだよ」
「そうなの!? ……ってちょっと待ってよ、私達来たばっかりなのになんでもうそんな最終盤なの?」
「私が二時間寝坊したからだね」
「そういえばそうだよ! みなもちゃんが無理やり誘ったくせにこちとら炎天下でずっと待たされたんだよ!? 酷いよもう!」
「ご、ごめん……。しほりん野球好きだし喜ぶかなって思って……」
「私が好きなのは野球じゃなくて野球マンガで――ってもういいよどうでも……」
みなもちゃんが色々ルーズなのはいつものことなので試合に集中です。
イケイケムードの攻撃側金剛女子とは裏腹に、明らかにピリピリと張り詰めた雰囲気の瑠璃沢は、一度タイムで間をとってから再びグラウンドに散っていきます。
どちらの夏がここで終わるのか――その分水嶺がこの打席だと言ってもいいでしょう。
背番号1(エースナンバー)を背負う瑠璃沢のピッチャーは入念にロージンバッグを叩き、セットポジションで打者と相対します。リードをとる走者を目で牽制しつつ、おそらく打者を打ち取る為の渾身のボールを、ミット目がけて投げ込みました。
しかしランスフォードさんは初球から易々とその球を打ち返しました。
とても女子とは思えない躍動感溢れるスイングで完璧に弾き返された白球はサードの頭上を越え、美しいラインドライブの弧を描いてレフト線に落ち、そのままフェンスへ当たって転々。
一挙に沸き上がる球場。私もつい立ち上がり、金髪を華麗に靡かせて走る彼女を目で追います。ランナーは二人とも生還し5-4と逆転。ランスフォードさんは悠々と二塁へ到達し、レガースを手早く外しながらベンチに笑顔を向け、ガッツポーズを決めています。
「……っ!」
俄かに胸が高鳴ります。彼女の笑顔が――先ほど打席で見せた怪物のような威圧感とは別人のような、無邪気で、心から遊びを楽しむ子供のような弾ける笑顔が――私の中の何かを突き動かすのを感じます。
野球をするのって……そんなに楽しいのでしょうか。
「――ランスフォードさん、か……」
「ん? なんか言った?」
「べ、別になんにも! お水ちょうだい! 喉乾いちゃった!」
私は慌てて座り直しました。
さて、そのまますんなりと勝利……などと簡単にいかないのが野球なようで、一点差のまま突入した七回裏。今度は金剛女子のエースが先頭打者にヒットを許し、送りバントと内野ゴロでランナーを進められツーアウト三塁の同点のピンチになってしまいました。
野球は九回ツーアウトから――ではなく七回ツーアウトから、というやつでしょうか。前イニングとは一転、今度は瑠璃沢が押せ押せムードです。金剛女子の内野陣はマウンド上に集まり二言三言話してから、キャッチャーがエースのおしりをポンと叩いて守備位置に戻っていきました。
私を含めた金剛女子応援席が固唾を飲んで見守る中、ピッチャーはオーバースローでボールを投げ込んでいきます。初球は高く浮いてボール。二球目は変化球を見送られボール。三球目はファール。四球目は際どいのを見極められボール。3ボール1ストライクのバッティングカウントです。
「お願い頑張って……」
私がそう呟いたのと同時に投じられた五球目は――変化球がど真ん中に。
カキーンと響く金属音。ビクリと体を震わす応援席。
打球はサードのグラブを掠め、三遊間を真っ二つコース。
「うおおおおおおおお!」
「ああああ……」
瑠璃沢応援席はガッツポーズ。金剛女子応援席は思わず頭を抱えようとしたその瞬間――金色の背番号6が躍動したのです。ブロンドを靡かせ、猛ダッシュで打球に追いついたショートのランスフォードさんは左膝だけでスライディングし左手のグラブを伸ばして、逆シングルで見事に捕球。
「でも深い……! あそこからじゃ――」
しかしランスフォードさんは私の想像を軽々と越えていきました。
そのまま即座に左脚を伸ばして立ち上がると、振り向きざまに一塁へ送球します。それはまさに矢のような――白い直線の弾道を残して飛んでいくミサイルのような送球でした。白球はノーバウンドでファーストのグラブへ吸い込まれ、ほぼ同時に打者がベースに滑り込みました。既にサードランナーはホームを駆け抜けています。一塁塁審の判定が出るまでの一瞬の静寂が、まるで永遠のように感じられました。
そして、塁審の握った拳が高々と掲げられたのです。アウト――試合終了。金剛女子学院高校の勝利です。地鳴りのようにスタンドが揺れました。私もみなもちゃんも、何だかよく分からない声を上げていたように思います。
「スゴイ! すっごいよ! 勝ったよ勝った!」
ぴょんぴょこ跳ねまわるみなもちゃんですが、私は息を荒げながらグラウンドに目をやりました。整列と礼を終え、金剛女子ナインが応援席の前へ並び、感謝の一礼をしています。
私の視線はもちろん、一際目立つ金髪のあの人へ向けられています。
間違いなくランスフォードさんが今この球場の主役でした。
どうすれば当然のようにあんな打球が放てるんですか。
何を食べればあんな華麗な守備が出来るようになるんですか。
あれが本当にたった一歳上の女の子なんですか。
彼女のことが知りたい。彼女の笑顔をもっと見たい。
「いやー凄かったね! でも来年は私が入るんだからもっと強くなるねこりゃ。ぃよーし目指すは一年生エースの座!」
「みなもちゃん」
――その瞬間、私は平穏な人生を捨て去ったのです。
「私も、野球部に入るよ」
■□ □■
バキッベリベリッ。
「あっ……また折っちゃった……」
それにしても、なんで鉛筆ってこんなに脆いんでしょうか。まあ安いのを使っているので仕方ないのかもしれませんが。前はシャーペンで描いていましたが、プラスチックだとすぐ折れるし金属でもいつの間にか曲がってるしで、いちいち買い替えていたらお金がいくらあっても足りませんでした。その点鉛筆は、真っ二つに折れても削れば使えるので経済的ですよね。
あ、でもこれは……縦に砕けちゃった。さすがにこれはもう……。
渋々、私はまた新しい鉛筆を鉛筆削りに突っ込みました。