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わたしのファントム  作者: 逢坂景
第二章
9/24

2-3


「榛名? 今日は夜から来るんじゃ無かったのか」


 そうして息を切らせた榛名をリンクで出迎えたのは、槻木の朗らかな笑みだった。榛名が駆け込んでくるのを認めてリンクサイドに滑り寄り、いつものようにちょっと榛名の頭を撫でる。


「ちょ、っと、……槻木さん、の、顔が、見たくて」

「……情熱的なのはいいが、どれだけ走ってきたんだお前」


 呆れた声で槻木は言って、榛名はとりあえず必死で息を整えた。リンク上には練習中の選手たちの姿があって、その中には先ほどまで会っていた秋穂の兄である一夏の姿もある。日本人には珍しいぐらいの長身で、短髪に彫りの深い顔立ちをした一夏の姿は、槻木よりも精悍な男らしさを感じさせ、ふたり並べたくなるような好対照なうつくしさを持っていた。


「白神さん、こっちに来てたんですか」


 白神兄妹はこのリンクの出身だが、現在は拠点を欧州に移している。榛名の問いに槻木は「ああ」と頷いた。


「身体が鈍ってはいけないだろうと思って、俺が誘ったんだ――おお、相変わらずよく跳ぶなあ」


 視線の先で、華麗なトリプルアクセルが決まる。男子でも苦手な選手の多いこのジャンプは、けれども白神の十八番だった。惚れ惚れするようなそれに目をまたたいていると、槻木がちょっと、笑って尋ねる。


「跳びたくなったか?」

「……え」


 さっきの今でそう聞かれて、榛名は思わず狼狽えた。あからさまに視線を泳がせた榛名に槻木のほうが驚いたような顔をして、「榛名」と名を呼ぶ声が少し低くなる。


「お前、本当に跳びたいなら」

「と、跳びたくないです!」


 無理矢理に言葉を遮った声は、思いの外大きくリンクに響いた。


「わたし、槻木さんのパートナーですもん!」


 槻木が今度こそ、黒い目を大きく見開いて榛名を見る。それからふわっと、ちょっと照れたみたいに笑って、槻木はその手を榛名の頭に伸ばした。


「知ってるよ」


 ぽんぽんと二回撫でられると、走りながらずっと抱えてきた不安が一気に拭い去られたような感じがする。「ふうん」と測るような声が聞こえて視線を向けると、白神が面白がるような目でこちらを見ていた。


「思ったより、ちゃんとやってるんだな」


 深く考え込むように腕を組むのは白神の癖だと知っていたけれど、なんだかまじまじと観察されているようで居心地が悪い。榛名はどうしてか頬が熱くなるのを感じつつ、槻木の手から逃げるように一歩退いて、叫ぶような調子で言った。


「き、――着替えてきます!」

「あ、ああ。ちゃんと柔軟もしてくるんだぞ!」

「はい!」


 準備運動はこれまで走ってきた分でお釣りが来ている気がするが、体をほぐすのは別の話だ。槻木の言葉に頷いてから、榛名は逃げるようにリンクを後にした。






(――って、違う、槻木さんに聞かないと!)


 と榛名が気がついたのは、着替えて柔軟を終えてスケート靴をはいて、槻木とハンド・イン・ハンドでリンクを流し始めてからだった。


「あ、あの、槻木さん」

「ん?」


 もうただ流すように滑るだけなら、意識せずとも脚が揃う。榛名と槻木が過ごしてきたのはそういう密度の一年間で、榛名はぐっと腹に力を込めて槻木を見上げた。


「あの、……今日、桃井さんたちと会って、聞いたんですけど。槻木さん、引退を決めてたって本当ですか?」


 槻木はちょっと目を見開いてから、「いつの話だ」と小さく笑った。ああ、本当なんだ、と思う榛名の前で、槻木はあっさりと答える。


「昔の話だよ。しかし、桃井もよくそんなことを知ってるな」

「噂になってた、って。わたしも、引退したんだと思ってましたし」

「ま、俺は今も昔も変わらずイケメンというやつだから、注目されてしまうのは仕方ないか」


 槻木はいつもの調子で言い放ち、榛名はつられてちょっと笑ってしまう。けれども此処でごまかされてはいけないと気付いて、榛名は「ええと」と問いを続けた。


「槻木さんのイケメンはまあどうでもいいんですけど」

「おい」

「じゃあ、なんで、引退するのやめたんですか?」


 なにせ榛名は頭の作りがシンプルだから、さり気ない問いとは無縁なのだ。あまりにストレートな言葉にさすがの槻木も一瞬言葉を失って、それから、小さく喉を震わせて笑う。


「その言い方じゃあ、まるで、引退してたほうが良かったみたいに聞こえるな?」

「へっ!?」

「はは、冗談だよ。……しかし、余計なことを吹き込んでくれるものだ」


 槻木が少し困った様子で言う。ほんとうに、意図的に隠されていたのだ、と知って、榛名は予想していたにも関わらず少なからぬショックを受けた。槻木が「おっと」と榛名の手を握る手に力を込める。


「ああ、こら。変な誤解をするんじゃないぞ。わざわざ言うまでもないことだから、言っていなかっただけのことだ。他意はない」

「……槻木さん、そうやって直ぐわたしの心読む」

「こうして並んで滑ってるんだ。わかって当然だろう?」

「わたしは全然わかんないんですけど!」

「その辺はまあ、経験の差だ」

「経験って」


 たった一年の差じゃないか。思わずむっとした榛名に向けて、槻木は笑いながら続けた。


「後は、愛かな?」

「あ、」


 槻木は、すぐにこういうことを言う。


「愛でわかるなら、わたしにだってわかるはずでしょ!」

「はは、熱烈だな」

「槻木さん!」


 抗議するように声を上げると、槻木が微かに腕に力を込めた。ハンド・イン・ハンドから、ホールドへと組み替える。榛名と向き合わない形になってやっと、槻木は「そうだな」と静かに答えを返した。


「確かに俺は、一度、リンクを去る決断をした。でも」


 榛名はどうしても槻木の表情を伺いたくて、ちらりと目線を上に上げる。槻木は榛名のほうを見ていなくて、なにか思い出すように遠くを見て目を眇めた。


「天使に、会ったんだ」


 そうして榛名が見ているのを知ってか知らずか、槻木はひどく幸福そうに、そしてどこか照れくさそうに笑った。



(……天使?)



 もちろんそれは、喩えだろう。

 けれども槻木がこんな顔で語る誰かが居るということに、榛名はひどく動揺した。自分でも体が硬くなったのがわかって、普段ならホールドしていてそれに気づかないはずのない槻木が、今はちっとも気づかぬ顔で言葉を続ける。


「絶望して、どうしようもない気分になっていた時、俺は確かに、天使に出会った。それで俺はスケート靴を脱がずにすんで、こうしてまだリンクの上で、滑れてる」


 それは多分、榛名にとっての槻木のような相手なのだ。

 槻木を氷の上へ、引き戻してくれたひと。本来なら榛名はその誰かに感謝すべきで、それなのにちっとも、そんな優しい気持ちが抱けなかった。


(……そんな人がいるなんて、知らなかった)


 一年一緒に滑っていたのに、榛名はまだ槻木のことをまるで知らない。やっと気付いた槻木が「榛名?」と不思議そうに首を傾ける。


「……そんな顔をするな。昔の話だと言っただろ? 今は、リンクを去る気なんて全く無いさ」


 槻木は榛名が抱いた痛みを、槻木が引退する可能性への不安だと判じたらしい。榛名は思わず、槻木に向かって言った。


「槻木さん、愛が足りないです!」


 榛名のことが、愛でわかると言ったくせに。槻木は面食らったような顔をして、なぜ怒られているのかわからないという顔をしたまま、「わ、悪かった……?」と気圧されるように謝罪を口にした。






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