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わたしのファントム  作者: 逢坂景
第二章
8/24

2-2


「……へ?」


 思いもかけないことを聞かれた、という感じがした。


 問いの意味がほんとうに理解できなくて、榛名はぱしぱし瞬いて、尋ねるように桃井を見てしまう。桃井は深く溜息を吐いて、仕方なく、という色を隠さずに続けた。


「だから。シングルに戻る気はあるの?」

「え」


 榛名のぽかんとした顔に、桃井と秋穂の方が返って驚いたらしい。桃井は「ちょっと待って」と思わずと言いたげに手を振って言った。


「待って。ほんとに、本気で、ちっとも考えてなかったの?」

「え、いや、だって、……っていうか、何で考えなきゃいけないんですか!」


 信じられない、と言われても、榛名のほうが信じられない。


「だってわたし、もう、アイスダンサーですよ!?」

「そりゃ、去年はそうだったでしょうけど」


 桃井はまるで物分かりの悪い子どもに言い聞かせるみたいに言った。


「でもそれは、リハビリみたいなものだったんじゃないの? 一昨年の雪は明らかに跳びすぎでオーバーワークだったし、ちょっとジャンプから離れさせようっていう魂胆だったんでしょ。上手く行きすぎて世界選にまで出ちゃっただけで」

「え、……そ、そんなふうに思われてたんですか!?」

「思われてたっていうか、だって貴方、あれだけ跳べた選手がシングルに戻ってこないなんて、普通に考えれば無理があるでしょう」


 桃井はばっさりと、両断するみたいに言い切った。


「その上貴方はこの一年で、スケーティングスキルも、柔軟性も、ついでに表現力まで身につけた。……秋穂は、戻って来ないほうがありがたいって言うかもしれないけど」

「え? 別にいいですよー、表彰台のてっぺんは譲りませんし、世界選とかの枠取り楽になりますし」

「あ、そう。とにかく、雪」

「……なんですか」

「あなた、まだ、跳べるでしょう?」


 確信を持って尋ねられて、けれども榛名はその問いに、即答することが出来なかった。


「わ、」


 桃井の鋭い眼差しに、捉えられて動けない。


「わかり、ません」


 だって榛名はこの一年、ジャンプなんて跳んでいないのだ。榛名の答えに桃井はちょっと眉を上げて、「跳んでないんですか?」と秋穂が無邪気に尋ねてくる。


「う、うん。転向してからは、一回も」

「マジですか!? へー、あの榛名さんが!」


 秋穂は本気で驚いたようで、大きな目をぱちぱち瞬いて榛名を見た。それからちょっと、可愛らしく首を傾げて「でも」と言う。


「跳ぼうと思えば、跳べるでしょ」


 秋穂の声には強い確信が篭っていて、榛名はちょっとたじろいだ。


「そんな簡単に、体は忘れたりしませんよ。一夏くんもそうだったもん。怪我で半年ぐらいリンクに上がってなかったのに、ちょっと滑ったら直ぐに元通りだった」

「あの人のジャンプセンスと一緒にするのもどうかとは思うけど……でも、本当に? まだ、誰からも聞かれたり言われたりしてないの?」

「してませんってば」

「……槻木さんからは?」


 その名前に、榛名は思わず息を呑んだ。


「……何も、言われてませんけど……」


 言いながら榛名は、(でも)と一つの薄ら寒い可能性に気がついた。


(でも、槻木さんと、――『次』の話も、全然してない)


 思わず血の気を引かせる榛名の前で、桃井は「でもねえ」と首を捻っている。


「槻木さんそもそも、引退するって話だった気がするんだけど」

「――ええ!?」


 それはあまりに、聞き捨てならない言葉だった。榛名は思わずテーブルを叩いて立ち上がり、周囲の注目を一心に集めてしまう。「あれ? あれもしかしてスケートの」と、オリンピックですっかり売れてしまった顔に気付いたらしい誰かのささやき声ではっと我に返って、榛名は心なしか身体を小さくして椅子に座り直した。

 そうして小声で、鋭く尋ねる。


「わたしそんなの、初耳ですよ!」

「いや、最近の話じゃなくて。ほら、槻木さん、足首やったときがあったでしょ。あのとき」


 桃井が早口で言い訳みたいに言って、榛名はその言葉に思わず脱力した。


「……ああ、あのときの」


 それは確かに榛名も耳にしたことのある噂だ。実際はただアイスダンスに転向していただけで、ただ、彼がカナダに移っていたから流れただけの些細な噂だ。そう、ただの噂──と、言い聞かせるように思う榛名の前で、桃井は続ける。


「だから雪にも驚かされたけど、その相手が槻木さんだってことのほうが、個人的には驚きどころだったのよね。てっきりもう、引退したものだと思ってたから」

「わたし、一夏くんから聞いて知ってましたけど」

「え、そうなの?」

「はい。引退する、ってのも、撤回してアイスダンスに転向したのも」

「わりと仲いいんだ。……っていうか、でも、やっぱそうよねえ」


 秋穂の言葉に、桃井は納得したように頷いた。


「引退するってはなしも、本当だったのね」

「え」


 ただの噂、では、ないのか。榛名は思わず口を挟んだ。


「……わたし、そんなこと、聞いてません」


 榛名が槻木から聞いたのは、転向したという事実だけだ。まさか槻木が一度は引退を決めていただなんて信じられなくて、榛名は酷く混乱してしまう。思い切り傷ついたような声が出て、「あ」と桃井が慌てたような声を出した。


「で、でも。榛名が会ったのは、転向して一年経ってからだったんでしょ!? じゃあ別に、わざわざ言うようなことでもないし!」

「でも、最初に、怪我のことは言ってくれたのに」

「……なんか、あるのかもしんないですよ?」


 すっかりと狼狽える榛名に向かって、ふっと秋穂が悪戯に微笑む。


「一夏くんも、引退するのを取りやめた、その心変わりの理由は知らないみたいでしたし。もしかして槻木さん、榛名さんに言えない何かを隠してたりして」

「……え」

「秋穂!」


 思いもかけない展開にすっかり振り回される榛名の前で、桃井が思いっきり秋穂の頭を叩く。「痛っ」と頭を抑えた秋穂に向けて、叱りつける口調で桃井は言った。


「確かにそうかもしれないけど、今言うことじゃないでしょ!」

「……桃井さん、気持ちはありがたいですけど、そっちのが、わりとトドメです」

「あ」


 榛名のぐったりとした声に、桃井は慌てて口を抑える。その慌てた顔をぼんやり見ながら、榛名は最初の、ペアを結成した日のことを思い出した。


(ええと、槻木さんは、たしか)



 『手術の際に、オレの足首は元々体質的に弱くて、過度のジャンプ練習には耐えられないと言われていたこともあって――』

 あのとき、ほんの少しだけど、確かに彼は言葉を止めた。

『──俺は、アイスダンスに転向することを決めた』



 続ける選択肢もあったけれど、と間に挟みながら、槻木はたしかに、何か、思い出しているように見えたのだ。

榛名はまるで、雷に打たれたみたいな気持ちになった。


(だとしたら、──確かに、槻木さんには、わたしに隠してることがある!)


 そう思ったら、居ても立ってもいられなかった。榛名は傍らの鞄から財布を取り出し、千円札を二枚叩きつけるみたいにテーブルに置く。


「すみません、わたし、帰ります!」

「あ、こら、雪!?」

「榛名さんちょっと落ち着いて、……あーあ、行っちゃった」


 呼び止める声も耳に入らなくて、榛名はそのまま喫茶店を駆け出していた。――目指すのは勿論、ホームリンクだ。


(……槻木さん、わたし)


 ひとつ思い出せば記憶はまるで雪崩みたいで、榛名はきゅっと唇を噛む。


(まだ、ひとりでなんて、立てません)


 ひとりでリンクに立てるまで、と。

 確かにあの日槻木は言って、だからもしかしたら槻木は、もう榛名が大丈夫だなんて思っているかもしれないのだ。榛名はそれが恐ろしくて恐ろしくて、ホームリンクへの道のりを、追い立てられるみたいに走ったのだった。





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