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わたしのファントム  作者: 逢坂景
第二章
7/24

2-1


「それでは」


 と、桃井美咲はティーカップを胸の辺りまで持ち上げた。榛名と秋穂がそれに倣うのを確認し、にこっと笑って言葉を続ける。


「秋穂の銀メダル、ペア・アイスダンスの十六位入賞を祝して」

「あ、それから一夏くんの金メダル獲得も!」


 秋穂が慌てて付け加え、榛名は特に付け足すこともないから、にこにこ笑って烏龍茶のグラスを高く掲げる。


「「「乾杯!!!」」」


 世界選手権女子銀メダリスト・白神秋穂、ペア日本代表・桃井美咲、そしてアイスダンス日本代表・榛名雪。

 出会いは幼少期、カナダのスケートリンクにて。今では別々のリンクをホームとする、けれども変わらず連絡を取り合っている日本代表三人娘は、小さな喫茶店の片隅で、こっそりと祝賀の声を上げた。




 普段は滅多に食べることのない、たっぷりとクリームが乗せられたケーキ。

 思わず顔を近づけてじいっと見つめてしまう榛名に、早速チョコレートケーキをつつきながら「それにしても」と桃井が少し責めるような口調で言った。


「まさかほんとに、アイスダンスで世界選手権に出るなんてね」


 艶やかな黒の長髪もうつくしい桃井はそろそろ二十一歳で、この三人の中では最も年上ということもあり、落ち着いた雰囲気のある美人である。ぱっちりとした黒い目に呆れたように見られると流石に少し引け目を感じて、榛名は身体を縮こめた。


「す、すみません。何も言わなくて」

「ほんとよ、もう。関東大会で会ったとき、幽霊でも出たのかと思ったじゃない」


 じっとりとした桃井の文句に、「あはは」と榛名はごまかすように笑う。


「正直わたしも、今期に間に合うとは思ってなかったんです。だから、皆に言うのは、シーズンが近くなってからでいいかなって思ってたんですけど」


 榛名が槻木とペアを結成したのは、今から約一年前となる四月の話だ。

 勿論直ぐにプログラム作成に入れたはずもなく、初期はとにかく榛名のスケーティングスキルを磨くことに費やされた。アイスダンスに求められるスケーティングの質は、シングルのそれとは段違いだと言ってもいい。深いエッジワークを身につけるまでの練習は相当なもので、けれども榛名は、それを辛いとは思わなかった。シングルとは違うスケートの魅力、槻木と息を合わせて演技を完成させていく難しさと楽しさが、辛さを凌駕していたからだ。

 そうして規定のダンスが踊れるようになってからやっとプログラムを作り始め、フリーダンスが完成したのは九月のシーズン開始直前。勿論国内での実績もない榛名と槻木がグランプリシリーズに派遣されるはずもなく、先ずは国内の地方大会から、地道にチャレンジしていく心づもりだったのだが。


「八月頃かなあ、連盟の人が来て」


 よし、と一つ決心をして、そうっと生クリームを掬い上げる。口に入れると幸せの味としか評しようのない甘さが広がって、榛名はうっとりとしながら言葉を続けた。


「九月にいきなり、強化選手に任命してもいい、って言われたんです」

「へ? 大会実績もないのに?」

「アイスダンスは国内の層が薄いですし、派遣できるレベルの選手が他にいなかったとか……?」


 桃井が訝るような声を上げて、秋穂が現実的な指摘をする。おそらくは秋穂の言葉が正しくて、昨年まで日本代表として出場していたペアが片方の怪我を理由に解散し、二番手のペアも片方の手術で休養中という不運──榛名たちにとってはラッキーだ、と東山は言った──が重なった。世界で戦えるめぼしいペアを持たなかった日本スケート連盟が苦肉の策として榛名と槻木を選んだ、と言うのがほんとうのところだろう。

 それから始まった日々のめまぐるしさを、正直榛名はあまり思い出したくない。


「……ほんと、大変で。とても連絡どころじゃなくて……」


 思い出してげんなりする榛名に対して、桃井はあっという間にケーキを平らげて「なるほどね」と納得の声を上げる。


「そりゃそうでしょうよ。シングルのメダリストふたりが組んでアイスダンスなんて、過去に例がなさすぎるもの。しかもあんたは前シーズンと前々シーズンがあれで、注目するなって言う方が無理な話よ」

「槻木さんだって、シングルの頃は一夏くんと二人で『イケメンスケーター』だの呼ばれてたわけですし。みんな欲望に正直ですからねー、有名税ってやつだと思わないと」


 小さな顔に似合うショートカットに切れ長の瞳、人形のように細い手足の、全体的にボーイッシュな印象を与える美少女である秋穂は自他共認めるブラコンで、兄のことをまるで恋人かなにかのように『くん』付けで呼ぶ。自身も『美少女スケーター』あるいは兄妹揃って『美形兄妹』と持ち上げられることの多い少女は当然のように言って肩を竦め、榛名は年下であるはずの彼女の度胸に感嘆しつつ肩を落とした。


「そりゃ、そうなんですけど」


 生憎と榛名には、秋穂のような強さがない。あったのなら、こんなふうにはなっていない。

 榛名は確かにオリンピックのメダリストで、けれどもそうして騒がれることに、一切慣れることができずにここまで来てしまった。そんな榛名が去年のように潰れずに居られたのは、完全に槻木のおかげだった。


「ほんと、槻木さんがああいうの得意で助かりました……」

「あー、確かに槻木さん、喋るの好きそうだもんね」

「ね。ちょっとは一夏くんにあの口の上手さ分けて欲しいです」


 榛名に向けられたマイクも上手いこと独占して、榛名には一切喋らせず、その上で記者を満足させてしまうのが槻木の恐ろしいところである。その上あの容姿だから、榛名の取材で露出が増えて、シングル時代よりもファンが増えたなんて話まで聞いた。


「それに、一回試合に出て以降は、がくっと取材も減りましたし」


 流石にグランプリシリーズの出場資格を満たしていない、どころか国内大会へのシード枠もあるわけがない榛名と槻木の初戦は、地方大会である東京大会となった。そもそも出場カップルが少ない大会での金には関東大会に出場できるという以上の価値はなく、唯一出場できた国際試合もいわゆる地方開催の二級大会ということもあって、結果が出ないと見るやいなや取材の数はあっさりと激減し、榛名はほっと胸をなでおろしたものである。


「まあ、マスコミ様ってば正直ですから。手のひら返しもお得意ですよ」

「アイスダンスって、そもそも日本じゃあんまり馴染みがないですしね。わたしとしては快適だったから良かったんだけど」


 そうしてどうにか出場した世界選手権の十六位は、槻木と榛名の実績からすれば相当な快挙、というか日本勢全体を鑑みても快挙と言っていい成績だ。けれどもそんな事情がお茶の間に伝わるわけもなく、フリーダンスはシングルの前座としてテレビ放映されたとはいえ、ニュースは兄妹でメダルを獲得したシングルの話題一色、試合後の囲み取材はあったものの結局使われたかも定かではない。当然といえば当然の帰結は、しかしマスコミに対する苦手意識が強い榛名からしてみれば有り難かった。


「……でも。最近はまた、取材とかあったりしないんですか?」


 そうして各々のケーキ皿を空にして、満足とともに二杯目のお茶を口にした所で、秋穂がふっと顔を上げて、探るように榛名を見る。なにか含んだような口調に何が含まれているのかさっぱりわからず、榛名はきょとんと目を瞬いて、「え、なんで?」と首を傾げた。


「特にないよ? あ、いや、スポーツ雑誌とかインターネット媒体とかのはたまにあるけど、それは別に減っても増えてもいないし」


 国内に世界レベルのアイスダンスのペアが榛名達しか居ないから、最低限の取材は受けると言うだけだ。榛名の答えに秋穂は意味有りげな目配せを桃井に向け、桃井は「んん」と言いにくそうに少し唸った。


「秋穂が聞きたいのは多分、そういうことじゃないんじゃないかな……」

「ええ? じゃあ、なんなんですか」

「だから、つまり」


 桃井は己を落ち着かせたがるみたいに、新しい紅茶を一口飲む。



「雪は来期、どうするのかって話でしょ」




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