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わたしのファントム  作者: 逢坂景
第一章
6/24

1-5


「榛名」


 練習着の上にジャケットを羽織っただけの槻木は、玄関扉の脇の壁に背中を預けた姿勢から体を起こした。


「送るよ。話を聞いてくれ」


 榛名のことを、待ち構えていたのだろう。


「……聞きたくないです」

「それでも、聞いてもらう」


 榛名がその脇をすり抜けて早足で歩いても、槻木は当たり前に遅れずついてくる。こうと決めたら梃子でも動かないのはお互い様で、榛名は拒否する労を厭って無視して歩みを進めた。


「まずは、騙し打ちのようになってしまったことを謝らせてくれ。お前の不調は、確かにみんな、知っていた」


 ああやっぱり。けれども榛名は槻木の言葉に反応しないように努める。それでも榛名が聞いているという確信があるのだろう、槻木は迷いなく言葉を続けた。


「でも、勘違いしないで欲しい。俺がこの話を持ちかけたのは、それを知るより前なんだ」

(……え?)


 ぴりっ、と、脳に違和感が引っかかる。思わず槻木へ視線を向けた榛名に向けて、槻木は少し困ったような、彼には珍しい弱い笑みを浮かべた。


「……話を聞いてくれる気になったか?」


 先程の話の中で、槻木は『この話があって』としか言わなかった。

 だから榛名は、榛名が跳べなくなったことを知った東山が、アイスダンスの選手へ転向していた槻木へ連絡をつけたものだと思い込んでいたのだ。

 けれども、どうやらそうではない。榛名はひとつ目を瞬き、結局槻木の思うとおりになってしまったと思いながら、仕方なく頷いた。





 リンク近くの小さな公園は、花見客で賑わっていた。

 とは言え人でごった返す、というほどではなく、数グループが桜の下にシートを敷いて酒食に興じている程度である。運良くあいていたベンチに榛名を座らせ、自販機で飲み物を調達してきた槻木が、温かいココアの缶を榛名へと差し出す。


「……ありがとうございます」

「日が陰ると、流石にまだ冷えるな」


 夕暮れをそろそろ通りすぎる時間帯の風は冷たく、榛名は手の中の缶の熱さにほっとするような心地になった。槻木は榛名の隣に座り、珈琲の缶を開けて一口飲む。ほう、と吐いた息はさすがにもう白くはならなくて、代わりにひらっと桜の花びらが落ちてきた。


「最初から、話をしようか」


 穏やかな声が、撫でるような柔らかさで耳に届く。


「俺が東山コーチに連絡をとったのは、去年の末だ。カナダで組んでいた相手とはペアを継続できそうにないし、やはり日本でパートナーを探したほうがいいだろうと思って、帰国について相談したんだ。……もちろん、そのときはまだ、お前の名は出していない。東山コーチはまた此処をホームリンクにすることを了承してくれて、いい選手がいないか探してみる、とも言ってくれた」


 去年の末、ということは、四大陸よりも前の話だ。槻木は淡々と続ける。


「といっても、実際に帰国したのは二月に入ってからだった。向こうでのペアを解消して、此方に戻ってきて、俺は白神に『四大陸選手権に応援に来ないか』と誘われた。今年は会場が上海だったからな。近いし、ちょうど暇でもあったし、俺はその誘いに乗ることにした」


 白神。唐突に出てきた名前で榛名が咄嗟に思い起こしたのは、年下の友人である女子シングルの白神秋穂の方だったが、この場合は兄であり現在日本の男子シングルエースであるところの白神一夏のことだろう。けれども榛名にとって重要なのは、その名前ではなかった。


「……え。じゃあ、槻木さん、まさか」

「ああ。俺はあの日、――お前が倒れたフリーの演技を、会場で見ていたんだよ」


 榛名は愕然と目を見開いて槻木を見て、槻木は少し困ったように笑う。


「お前には、言わないでおこうと思ったんだがな。……そしてオレは、その日のうちに、東山コーチに連絡を入れた」


 榛名は目を見開いたまま、槻木に尋ねた。


「……何て、ですか」

「『もし榛名が跳べなくなったら、俺とペアを組ませて欲しい』と」


 これ以上驚くことなんてない、と思っていたのに、槻木はあまりにもあっさりと榛名の予想を裏切っていく。

 己が跳べなくなるだなんて、榛名本人だってちっとも思っていなかったのに――槻木はあの日のうちに、それを可能性の一つとして考えていただなんて言うのか。どんな頭をしているんだ、と呆然とした榛名に向けて、槻木は続ける。


「もちろん、そうでないに越したことはないし、あの日の東山コーチには笑い飛ばされたよ。不吉なことを言うなと怒鳴られもした。……でも俺は、どんなに低くても、その可能性があると思ったんだ」

「……どうしてですか」


 一瞬だけ、槻木が口を閉ざす。瞳が伏せられたのはけれどもごく一瞬で、槻木は直ぐにあっさりとした笑みを浮かべて答えた。


「俺が、そうだったからさ」


 槻木の目に、あの痛みが浮かんでいる。


「お前は果たして覚えているかな。俺の、シングルとしての最後の試合、世界選手権の舞台で、俺はお前と同じように、最初の大技を失敗した。……そういえばジャンプの種類も同じだな。四回転のトゥループだ」

「……お、覚えてます」


 槻木はシングル時代、ジュニアでは金を、シニアでも五位入賞を果たしたことのある選手だ。

 武器は美しいスケーティングと、柔らかい体を活かした安定したスピン、そして四回転のトゥループ。当時から二種類の四回転ジャンプを武器にしていた同期の白神一夏とは良いライバル同士で、日本の男子シングルの今後を担っていくと、そう目されていた選手だったのだ。

 だから、日本中がそうしていたのと同じように、榛名もまたテレビの前で、固唾を呑んでその試合を見つめていた。


「そうか。なら、言うまでもないとは思うが……その時、俺は足首の靭帯に大きな裂傷を負った。どうにか滑りきったが結果は散々、手術とリハビリで氷の上に戻るまで半年かかった上に」


 槻木は、ごく穏やかに微笑んだまま言った。


「いざリンクの上に立ったら、ジャンプが跳べなくなっていた」


 その喪失を、どう言葉で表そう。


「原因が、怪我のみにあるわけではないことはわかっていた。怪我はただのきっかけだ。……手術の際に、俺の足首は元々弱くて、過度のジャンプ練習には耐えられないと言われていたこともあって――それでも、怪我と付き合って競技を続けていく選択肢もあっただろうが──俺は結局、アイスダンスに転向することを決めた」


 『過度の』ジャンプ練習、という表現に、榛名は当時の槻木が、どれだけの練習を重ねていたのかが現れている。どうしても脚に負荷が集中しがちなジャンプ練習は、いつだって故障と隣り合わせだ。それでも、四回転を跳べなくては、勝負の場に立つことすらできはしない──男子シングルの選手が争っているのはそういう過酷な世界で、だから槻木にとって、怪我は確かに、ひとつのきっかけに過ぎなかったのだろう。


「だからだろうな。どうしてもお前の姿が、あの日の自分に重なった」


 そう、それはまさしく、榛名にとっての四大陸が、ただのきっかけだったのとまるで同じだ。


「……だからこれは、ある意味では、俺が俺を救いたいだけの話なんだろう。けれども、お前にとっても悪い話ではない。もしお前がジャンプを跳ぶのが怖くて、氷の上に乗ることすら恐ろしくて――それでも、スケートをやめたくないのなら」


 槻木はそこで言葉を切って、ぐっとカフェオレの缶を傾けて飲み干した。傍らの屑籠に缶を放り投げ、槻木は立ち上がって榛名の正面に立つ。


「お前が、ひとりでリンクに立てるようになるまででも構わない。俺と、ペアを組んでくれないか」


 そうして槻木の手のひらは、三度榛名へと伸ばされる。


(……槻木さんは)


 その手がどれほどあたたかく力強いか、榛名はもう知ってしまっていた。


(どうしてわたしより、わたしのことがわかるんだろう)


 ジャンプを跳ぶのが怖くて、氷の上が、どうしようもなく怖かった。それは決して、四大陸での転倒だけが原因ではないのだ。


「……槻木さん」


 榛名は槻木の手のひらから、その優しい顔へと視線を上げる。


「わたし、スケートが上手くなくて、……体もそんなに柔らかくなくて、スピンはそれなりに速いけどステップは得意じゃなくて、ジャンプしかなくて」


 昔から、『ジャンプだけは上手い』と言われ続けてきた。


「そんなの当たり前で、だってわたしは跳ぶのだけが楽しくて、それだけでいいんだって、ずっとそう思ってて」


 他の練習なんてそっちのけで、ただジャンプばかりを練習していた。ルールでは三回までしか続けられない連続ジャンプを五回十回と跳び続けて、東山に怒鳴られたこともある。榛名にとってはジャンプが全てで、楽しくて楽しくて、それさえあれば他の何も要らないと思った。


「でも」


 けれどもあの日――榛名がオリンピックで四回転ジャンプを成功させたあの日に、全てが変わってしまった。



「わたしがメダルを獲った日から、みんながわたしに跳べって言って、同じくらいみんなが、わたしが転ぶのを待ってる気がした」



 もちろん、ジャンプだけで表彰台には上がれない。

 シニアに上がってからはスピンやステップでのレベルの取りこぼしが起きないよう必死で練習したし、演技構成点を上げるようつなぎの要素にも工夫を取り入れた。得意のジャンプでより加点が伸びるように、片手を上げたジャンプも習得した。それでも、どうしたって滑りそのものやステップ、そしてなにより表現力は、ベテランからすれば見劣りがする。あるいは──見劣りがすると、見ている側が思い込む。

 どれだけ演技構成点が伸びていっても、点数に出ている結果だけが、人の目にうつる全てではない。だからこそ榛名は完全に『四回転だけの選手』と見做されたのだ。

 マイクを向ける人々は榛名の口からとにかく『四回転』を引き出したがり、榛名が『跳びます』と言えば喜んだ。ネット上ではスピンの軸やステップの抜け、あまり得意ではないスパイラルの不格好さを散々に論われて、ジャンプへの加点が高過ぎるだなんて書かれたりもした。中には榛名に向かって直接、『ジャンプしかないくせに』という選手だって居た(その時は一緒に居た白神妹が榛名よりも先に怒ってくれて、更衣室内での乱闘騒ぎになりかけたのを何故か榛名が止める羽目になった)。


「でもまだ、練習ではどうにか跳べてたんですけど、……最初のアメリカ大会で、失敗して」


 何が起きたのか、自分でもまるでわからなかった。


「それからはもう、どうやって跳んでたのかわかんなくなって。でも跳ぶしかないから、跳んでないと怖くて、東山さんにやめろっていわれてもやめられなくて、……東山さんも広澤さんも、四回転はやめて構成を変えようって、散々言ってくれたのに」


 それでも榛名の前のマイクは、冷酷に『四回転へのチャレンジはありますか?』と問うてくる。


「……跳ばない、なんて、想像できなくて」


 そうして榛名は昨シーズン、結局一度たりとも、四回転を降りることが出来なかった。

 いつから跳ぶことが恐ろしくなってしまったのか、榛名にはもうわからなかった。きっと人々は榛名のことを『メンタルが弱い』と称するはずで、多分それはちっとも間違っていなくて、かつての榛名にあった強さはもう、決して戻ってこないような気がするのだ。


 だって榛名は重さを知ってしまって、だからもう、知らなかった頃には戻れない。


「ねえ、槻木さん。……わたしはスケートが下手で、スピンもステップも上手くなくて、体も柔らかくなくて、今はジャンプも跳べなくて……全然、アイスダンスの選手になんて、向いてないと思うんですけど」

「自己評価の低さを見直すところからはじめたほうがいいな。それと、アイスダンスにジャンプは不要だ」

「あ、そっか。……それで、ええと、……ずうっとジャンプばっかりやってきて、みんながそう言うから、わたしもわたしがジャンプだけで、ジャンプが好きだって、思ってたんですけど。それもたぶん、間違いじゃあ、ないんですけど」


 確かに榛名を夢中にさせたのは、跳ぶときのあの感覚だ。


「でもさっき、槻木さんが手を引いてくれて……槻木さんと滑ってやっと、気がついたんです」


 槻木の腕の中で氷の上を、踊るみたいにくるくる滑って、跳ぶこともなかったのに。



「わたしが好きなのは、ジャンプだけじゃなかった」



 榛名は確かに、氷の上で笑えていた。



「わたしはちゃんと、スケートそのものが好きだったんだ、って」



 どんなに苦しくても、真っ白い氷が怖くても、榛名をどうしてもスケートリンクに向かわせた、たったひとつのシンプルな事実。

 スケートそのものが好きだったから、ジャンプが跳べなくても、どんなに苦しくても、──それでも榛名は、スケートをやめたくなかったのだ。

 ただそれだけの真実を、榛名は、きっと、自分一人では、見つけることができなかった。見せてくれたのは目の前の槻木の、今まさに差し出されている温かい手だ。 

 「だから」と、榛名はどうにか、笑って尋ねる。


「わたし、ほんとに、アイスダンスのこと何も知らなくて。……槻木さんに頼りきりになっちゃうと思うんですけど。それでも、ほんとに、いいんですか?」


 槻木の目が、ふっと、笑みを宿して細くなる。当たり前の所作で頷いて、槻木は答えた。


「当たり前だとも。――さあ、手を出してくれ」


 いつの間にか日はとっぷりと暮れていて、槻木の向こうにはまん丸い月。そうして舞い散る桜の下で、大きな月を背後に背負って、奇跡みたいに美しい姿で槻木は言った。



「大丈夫だ。──俺がお前を、ほんとうの、氷上の天使にしてやろう!」



 氷上の、天使。

 それは榛名に、かつて与えられた呼び名だった。ジャンプしかない榛名雪の、唯一の取り柄であるジャンプが故に、榛名に与えられた過分すぎる呼び名。

 それがどうして――槻木が口にするだけで、まるで榛名は、己がほんとうに天使にでもなれるような気がしたのだ。

 己の手を、槻木の手にそっと重ねる。そうして、力強く頷いた。



「はい。……よろしくお願いします、槻木さん」



 桜の花の、満開の下。


 やがて日本を代表するカップルとなる二人は、こうして三度、手をつないだ。





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