1-4
榛名に掛かっている、魔法。
「……ずうっと、」
リンクの上で、榛名はずっと一人だった。
「手を繋いでるんですか?」
だからこうして二人で滑っていることがただただ不思議で、それなのに全く違和感も不安もなくて、榛名はいっそ混乱する。槻木は榛名の幼い問いに、「そうだな」と一つ頷いた。
「演技のときは、ステップやスピン、ツイズルがある。だから、本当にずっとと言うわけにもいかないが……その要素さえ、二人が近いほど評価が高い。繋ぐ手を変えるときさえ、一小節以内に行うというルールがあるんだ。アイスダンスは、ふたりがひとつになる競技なんだよ」
「……ふたりが、ひとつに」
榛名には、想像もつかない世界だった。
今こうして滑れているのは、完全に槻木の技量のおかげだ。榛名はただ槻木に体を預けて、槻木の声だけを聞いて、槻木だけを見て、言われるがままに滑っている。榛名の困惑を見て取ったのだろう、槻木は安心させようとするみたいに笑みを深めた。
「と言っても、俺もまだ、己が身で理解しているとは言えないが。……さて、ひと通り滑ったし、そろそろ終わりにするか。疲れただろう?」
槻木がそっとホールドを解き、最初の姿勢、ハンド・イン・ハンドに体勢を戻す。榛名はぱちりと瞬いて、リンク脇に設置された時計へと視線を流した。
「え。もうこんなに滑ってたんですか!?」
「ああ。急に無理をさせて悪かった。あんまりお前が上手く滑るから、つい楽しくなってしまって」
時間を意識してしまえば、疲れが自覚されるようである。夢から覚めたような心地になりながら、ふたりは手を繋いだまま速度を落としてリンクサイドへと戻った。
「……榛名の調子がどうとか言ってたのは、さて、どこのどなただったかしらね?」
そうして最初に落とされたのは、当然、東山の雷だった。皮肉げな一言のあとに思い切り息を吸い、リンクに響き渡る大声で怒鳴る。
「そのアンタがむちゃさせてどうするの! 榛名、脚にきてない? どこかに違和感は?」
流石に今回は叱られる理由があると自覚しているらしい槻木が、言い返さずに首を竦める。榛名はぱちぱち目を瞬いて、「は、はい!」と慌てて答えた。
「大丈夫、です」
「……ならいいけど。――あー、それで、どうだった?」
東山はがしがし頭を掻きながら、榛名の顔を見上げて言った。榛名は一瞬、今の己の心の中を言い表す言葉を探して沈黙する。
(……どうだった、だろう)
思えば榛名が氷の上に乗ってジャンプを跳ばなかったのは、どれぐらいぶりかもわからないほどに久々だった。
それなのにちっとも足りない感じはしなくて、体は純粋に久々の氷を楽しんでいる。榛名はちらっと、傍らの槻木の顔を見上げた。
「ん?」
ずっと榛名をリードして滑っていたのに、その顔には少しの疲れも見られない。榛名は東山へと視線を戻し、答えた。
「……ええっと、どう、っていうのも難しいんですけど、その。――安心、しました」
槻木がずっと、榛名の手を握っていてくれたから。
榛名は槻木だけを見ていれば良くて、氷の白も照明の白も、ちっとも目に入りはしなかった。足元から聞こえてくる二人分のスケーティングの音が心地よくて、榛名の頭は音楽を忘れた。
だから榛名は、安心して、氷の上に乗っていられたのだ。
「……一応、外に渡ったぶんのことだけはあったみたいね、槻木」
「当然でしょう。俺ですから」
「って、ちょっと褒めると直ぐそれなんだもの。……広澤、どう思う?」
東山が広澤を振り仰ぎ、広澤は静かに答えた。
「それは、本人たちが一番良くわかっているだろう」
「ま、そりゃそうか。槻木?」
視線を向けられて、槻木が軽く眉を上げる。
「見えていたとおりです。とても滑りやすかった。俺と榛名の相性も勿論いいんでしょうが、榛名のスケーティングスキルの高さもよくわかりました。コンパルソリーを滑り込む必要がないとは言いませんが、現時点では十分です」
「だらだら喋らない。口説くときはシンプルがいいのよ、とくに榛名みたいな阿呆の子を口説くときはね。色男を自称するくせにそんなことも知らないの?」
「え」
阿呆の子とは?
「別に自称はしていませんが……そうですね」
あっ槻木さんも否定しないんだ? 槻木は顎に手を当てて、少し考えてから榛名を見た。
「榛名。俺は、お前と滑りたい」
「……え」
榛名に伝わる言葉を選ぼうとすると、そこまでストレートになってしまうのか。どれだけ頭が足りなく見られているのだろう、と思いながらも、そのはっきりとした口調に胸を打たれるような感じがしたのも確かだった。
(槻木さんと、滑る?)
今はもう離れてしまった手にじんわりと残る温もりが存在を主張して、榛名はさっきまでと同じように、ただ槻木のいうことを聞いてしまいたくなる。けれども槻木の大きな黒い瞳に向けて、榛名の口からこぼれ落ちたのは、まるで正反対の言葉だった。
「槻木さん、でも、わたし」
みんな、さっきからずっと、おかしなことを言っている。
こびりついた違和感が急速に浮き上がって浮上して、榛名は当たり前のはずのことを、訴えるみたいに槻木に言った。
「わたし、──跳ばないと」
榛名の言葉に、槻木の秀麗な眉がきゅっと顰められる。
(あ)
その目に宿る感情の意味が、何故か榛名には、手に取るようにわかってしまった。どくん、と心臓が大きく跳ねて、榛名はそっと視線を東山へ、そして広澤へと動かす。
確認するまでもなく、わかりきっていたことだった。──皆の目が、一様に、同じ色の痛みを宿して榛名を見ている。
(そうか)
そうして間抜けな榛名雪は、やっとのことで理解した。
(みんな、知ってるんだ)
どうして、知られていないだなんて、都合のいい幻想が抱けたのだろう。榛名は三人の顔を見渡し、小さく笑った。
「なんだ」
わかってしまえば、あまりに明白な筋書きだった。
榛名はこの一ヶ月を、完全に引きこもって過ごしてきたわけではない。
このリンクにこそ足を向けられなかったものの、榛名は数度、隣県のスケートリンクを訪れていた。
そして白い氷の上に立って、そのときは今日のように倒れるのだけはどうにか堪えて──震える身体を抑えて滑って、いつものように、跳ぼうとした。
けれども榛名は、跳べなかった。
踏切は無様にタイミングを外し、宙に浮いた身体の軸は崩れ回転は解けた。繰り返す都度にひどくなるジャンプはついに踏み切ることすら出来なくなって、榛名は結局一度として、一回転のジャンプすら、成功させることが出来なかったのだ。
(……お母さんには、一応、口止めしたんだけどなあ)
スケート靴を持っての外出は見咎められているだろうから、母親が榛名を心配するあまりに東山かだれかに喋ってしまったというのは、なるほど納得できる話だ。榛名は口元にうっすら笑みを履いて、榛名は言った。
「跳べなくなったなら、アイスダンスに転向しろ、って。そういうことなら、ちゃんと、最初に言ってくださいよ」
跳べない榛名にまだ価値があると思ってくれているなら、それは多分、ありがたい話ということになるのだろう。見切りをつけられた、と思うほうが間違っているし、跳ぶことが恐ろしくてろくに氷にも乗れないでいたのだから、跳ばなくていいことを喜ぶべきなのだ。
それなのにぽっかりと、心のなかに出来た虚が埋められない。
「そういうことなら、やります。アイスダンス、やりますから」
「榛名、待て。誤解だ」
「何がですか」
槻木が榛名の肩を掴んで、けれど榛名は、思い切りその手を振り払った。
「榛名」
槻木の顔が苦しげに歪んで、榛名はその瞳を見ていられずに顔を逸らす。そうして誰の顔も見ないまま、榛名はどうあっても傷ついたことを晒してしまう震える声で言った。
「……今日はもう」
槻木にだけは、そんな目で見られたくなかった。
「帰ります」
だって榛名は一年間、その無遠慮な同情に晒され続けていたのだ。
リンクを上がってその場から逃げる榛名のことを、誰も、引き止めることはしなかった。