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わたしのファントム  作者: 逢坂景
第一章
4/24

1-3

 そうして辿り着いた見慣れたリンクの上では、ノービスの選手が練習をしているところだった。

 なるほどスケートリンクは数少なく目指す選手は多く、少しだってリンクを空けておいては勿体ないというものだ。榛名が集合時間に遅刻するであろうことはもちろん、直ぐにはリンクに上がれないことだって、考慮のうちだったのだろう。練習中とあっては中にはいるわけにも行かずに、榛名は出入口傍のベンチに所在なく腰掛けて中を眺める。

 真っ白い氷の上では、たくさんの少女たちがジャンプの練習をしていた。その中心に年若い指導員とともに広澤が立っているさまは、己だって同じように指導を受けたはずなのにいつまでたっても見慣れない。


「なんだ、使用中か」


 声に顔を上げると、榛名の予想通りウエアにきちんとスケート靴を履いた槻木が、榛名の横に立っていた。槻木は眩しそうに目を細めて、「懐かしいなあ」としみじみ言う。


「ちっちゃい身体でぴょんぴょん跳ねて。……昔のお前みたいだな?」

「え。槻木さん、見てたんですか?」

「勿論。上手い選手は、気になるものだろ」


 もっともっと小さいとき、氷に乗ったばかりの頃は年齢も性別も関係なく纏めて滑るから、槻木とも滑った記憶がある。それ以降、個別に練習するようになってからも、氷の上に乗る時間はどうしたって被るから、槻木が見ていたとしても不思議ではないが──それでも榛名と槻木は、特段仲が良かったというわけではない。不思議に思って見上げた先で、槻木はひどく柔らかく微笑んでいた。


「よく跳ぶなあ、と、思ってた」

「……それ、みんなに言われます」

「だろうな。あれは印象に残るから」

「わたしだって、槻木さんのこと、見てましたよ!」


 なんだか対抗したくなって、榛名はむっと唇を尖らせる。槻木は「お」と面白そうな顔になった。


「俺のことを? まあ、そうだな。当時の俺は結構な美少年だったからな! 憧れるのも無理はない」


 自分で言うか、という気もしたし、こういう人だった、と思い出しもした。自分の魅力に自覚的な、爽やかなナルシスト。


「……いえ、別に顔は見てませんけど」


 憧れていたのは事実だし、本当はだいぶ顔も見ていたけれど、なんだか悔しくてしれっとそう言ってみる。むっと顔の槻木を見上げて、榛名はちょっと笑ってみせた。


「足元、見てました。お母さんに、槻木さんのスケーティングは勉強になるから、って言われて」


 榛名が日本に戻ってからもスケートを続けられたのは、なかなか日本に馴染めないでいる榛名を心配した母親が、近場にスケートリンクをあったのを幸いとレッスンに連れてきたからだった。学校は行きたがらなかった榛名がスケートだけは喜んで通って、そのうちにまるで技術的な知識を身につけようとしない榛名の代わりに母親がオタクばりに詳しくなっていったのは、子どもがスポーツをやっている親にはよくありがちな流れと言えただろう。


「……足元って……コンパルソリーの?」

「はい。あと――音、聞いてました」

「……音?」


 ブレードが氷と触れ合うとき、音が生まれる。それはエッジが深く良く滑っているほどに涼やかで、心地よく耳に届くのだ。


「それ聞いてると、眠くなって。……ああ、そういえばあの頃、よくこのベンチでうとうとして怒られてました」

「俺のブレード音は子守唄か何かか?」


 そんなやりとりをしている間に練習が終わったのか、子どもたちが続々とリンクから降りてきた。皆一様に槻木と榛名の姿を見て目を見開き、けれども広澤と東山の躾が徹底しているからか、何かを口に出すことはない。その代わりに槻木のほうが、爽やかに笑って片手を上げた。


「ああ、終わったのか。──みんな、お疲れ様」


 そりゃあどんなに堪えようとしたって、声を上げてしまうだろうという顔だった。

 きゃあっ、とそれでもどうにか抑えた調子の歓声が沸き上がり、あーあーと榛名が半眼で槻木を眺めていると、すっかりと浮足立った生徒たちを見た東山が「コラ槻木!」と案の定の怒鳴り声をあげる。


「騒がせないの!」

「挨拶しただけですよ」

「ちっともんなこと思ってないくせに、白々しい。……あ、広澤。お疲れ様」

「ん」


 最後の生徒がリンクから降りるのを見届けて、広澤もまたリンクから降りる。東山がブレードのカバーを手渡すのを横目に見て、榛名は反射的に立ち上がった。

 人の居ない、真っ白なリンク。


「……ええっと、……久しぶりなんで、ちょっと流していいですか?」


 猶予の時間が過ぎてしまえば、榛名はそれと向き合うしかない。あくまでなんでもない調子を己に言い聞かせるように言った榛名に、広澤はちらりと視線を向けた。


「……柔軟は、充分にしただろうな」

「医務室で、やってきました」

「なら、構わん」


 広澤が首肯するのを見て、榛名は己のブレードからカバーを外す。体を動かしていれば暑くなってくるとはいえ、氷の上は当然に冷たい。いきなり無茶をすれば筋肉のほうがあっさり悲鳴を上げるから、リンクに乗る前の柔軟は普段以上に行ったつもりだった。

 そうして、榛名は氷の前に立つ。

 ノービスの練習の直後だから、たくさんの乱れたブレードの跡が残った、まっさらとはあまりに程遠い氷だ。観客席には勿論誰も居なくて、照明だってただ練習用に無機質に照らされているだけの、あまりにも見慣れたホームリンク。


(……そう。いつもの、リンクだ)


 目を瞑っていたって、壁に書いてある模様すら目に浮かぶ。それぐらいに滑り慣れきったリンクだった。一月のストライキの分だけ久しぶりといえばそうだけれど、それよりももっとずっと長い間、滑り続けてきたリンクなのだ。


(だから、一歩、踏み出すだけでいい。……あとは、身体が覚えてる。そういうふうに、もう、わたしの身体はできてるのに)


 歩くよりも走るよりも、滑ることが自然であるように。

 そういうふうに榛名は己の身体を作り替えていて、それなのにどうして、足が竦んだようになって動かなかった。

 じっと見つめた足元の白に、目が吸い寄せられて離せない。


(白。――氷の白、照明の白、そうだ、あの時のわたしの衣装も、ばかみたいに真っ白で)


 曲目は、散々に似合わないと言われた『白鳥の湖』。その調べが脳内にくわんと流れて、榛名の体が大きく震えた。


(ああ、――駄目だ)


 そう思った瞬間に――シャッ、と、氷を蹴る音が榛名の耳を突き刺した。


「え」


 ふわっと体の横に風の余韻が通って、榛名は狭いリンクの出入口、己の脇を誰かが通り抜けていったことを知る。

 びっくりして顔を上げた先で、他の誰でもあるはずがない、槻木がふた漕ぎでぐんと速度を上げるのが見えた。榛名はぱしぱしと、夢から冷めたみたいに槻木が滑る姿を見る。


(わ、あ)


 国際大会でだって滅多にお目にかかれないような、伸びるような加速だった。

 しゃあっ、と、流れるみたいな音が響くのは深いエッジワークの証で、榛名は久々に耳にしたその美しい音に思わず聞き惚れる。まるで力を込めていなさそうな、ゆったりとした足さばきで、びっくりするぐらいの速度でリンクを一周した槻木は、榛名の目の前でザッと氷を掻いて止まった。


「榛名」


 そうして、目を瞬く榛名の前で、まるで王子様みたいな優雅さで手を差し出す。



「俺の手をとれ、榛名」



 あまりにも優しい笑みとともに言われた、それは、確かに命令だった。

 榛名はただただ驚いていて、頭なんてちっとも回らなくて、言われるがままに槻木の手にそうっと己の左手を乗せる。そしてその手の暖かさにまた驚いて、榛名はぽかんとしたままに槻木を見た。


「いい子だ」


 槻木の笑みが、満足気に深くなる。

 そうしてくっと手を引かれると、榛名の足は先程までの竦みをすっかり忘れたみたいな顔で、あっさりと氷の上に乗った。あ、と怯えて足元を見るよりも先に、槻木の手がぎゅっと榛名の手を握る。


「視線はこっちに。俺を見ろ、榛名」


 余りにも優しい声で、けれどもそれは、やっぱり、どうしたって命令なのだった。榛名から思考力を取り上げる優しい命令。

 そうして降り立った氷の上を、榛名の脚はたしかに覚えていた。槻木の顔を見つめたままでも、脚は微塵の揺るぎもなく氷を蹴る。槻木もまた真っ直ぐに榛名を見ていて、ぴったりと合った視線の離し方がわからなかった。


(……滑れてる)


 身体が震えることも、目眩がすることもない。繋いだ手の温かさと槻木の強い眼差し、その二つだけが意識を支配して、榛名から思考の全てを奪っていくようだった。

 二つのブレード音はぴったりと重なって、氷を蹴る動きもまた、意図せぬままにシンクロする。


「つ、槻木さんって」

「うん?」


 白く塗りつぶされそうだった視界は代わりに槻木の顔を捉えて、もう音楽も聞こえない。そうして榛名は氷の上で、深く深く、息を吸った。

 息をすることが、出来た。


「魔法使いだったんですか」


 馬鹿みたいな台詞が、ごくごく真面目に口から溢れた。

 魔法だとしか思えなかった。榛名の問いに目を瞬いた槻木は、けれども直ぐに余裕のある笑みを取り戻す。


「お前が言うなら、そうかもしれないな。……さて、それじゃあ、魔法の続きと行こうか」


 ハンド・イン・ハンド。――ただ手を繋いだだけの、ホールドとは見做されない――アイスダンスの、基本の基本だ。槻木が榛名に合わせてすこし速度をゆるめて、足の動きがぴったりと揃う。


「そう、上手だな。……昔、皆でアイスダンスをしたことがあったよな。覚えているか?」

「……ええっと、なんとなく……、……端の方でひとりで跳んでたような……」

「お前は本当に……いや、まあいい。その時に聞いた基本の姿勢は?」


 今はただ、ゆっくりとリンクを周回しているだけだ。それだけのことが随分と久しぶりで、なんだか胸が苦しいような感じがして、榛名は曖昧に頷いた。


「はい。あ、名前はちょっと、覚えてないですけど」

「そんなことだろうと思ったよ。……さて、もう一周したらちょっとやってみようか。先ずはキリアンからだな。同じ方向を向いて……そうだ。此方の手を伸ばして。右手は俺の右手の上に乗せて……そう、上手いぞ」


 槻木の右手が榛名の腰をそっと抱き寄せ、体温の近さに榛名は微かに体を竦める。後ろから抱き寄せられるような姿勢だから、槻木の顔がすぐ後ろにあって、指示する声はまるで耳元に囁かれるみたいだった。


「いい感じだ。もう少し速度を上げられるか?」

「え、っ、わたし、蹴っちゃうかも!」

「少しぐらいなら大丈夫さ」


 ホールド、と言うだけあって、体はすっかりと密着している。少しでも足捌きが乱れたら槻木の脚を蹴り飛ばしてしまいそうで、榛名は慌てた。けれども槻木は頓着する様子もなく、軽快な音を響かせて少しずつ速度を上げていく。


「ほら、出来ただろ?」

「は、はい」


 しっかりと、支えられている。

 アイスダンスに転向してからまだ一年足らずのはずなのに、全くの初心者であるはずの榛名をリードする槻木には、一切の迷いが見られなかった。槻木の手があまりにも力強く榛名の手を握り、その視線がまったく榛名から外れないから、榛名もまた槻木の顔から視線を離せない。

 榛名は槻木に操られるみたいにしてポジションを変え、ステップを踏み、その間何度か組み替えることはあったものの、二人の手が長く離れていることは一度もなかった。


「槻木、さん」

「ん?」

「これが、アイスダンスなんですか」

「……そうだ」


 ぐっと、繋いだ手を強く握られた。榛名は思わず振り返って、すぐ後ろ、身長差のぶんだけ上にある槻木の顔を見上げる。槻木は優しく榛名を見下ろしていて、また、ぴったりと視線が重なった。



「これが、アイスダンスだよ。今、お前に掛かっている魔法の名前だ」




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