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わたしのファントム  作者: 逢坂景
第一章
3/24

1-2


 榛名雪は、現在の日本女子シングル代表で、唯一、クアドラブルジャンプが跳べる選手である。


 三年前、十五歳でトリプルルッツ─トリプルトゥループの連続ジャンプを成功させ、ジュニアグランプリを獲得。十六でシニアデビューして全日本選手権で金メダルを獲得。オリンピック代表に選ばれて、その晴れの舞台で四回転トゥループを成功させ、見事銀メダルを獲得した。

 つまるところ榛名雪は、ジャンプが得意な、というよりは『ジャンプしか無い』と揶揄されるたぐいの選手だったのだ。


 故に榛名は、広澤が何を言っているのか、ちっとも理解できなかった。


「……いやいやいや、おかしいでしょわたしがアイスダンスとか!」


 先程までのどっぷり落ち込んだ心持ちも忘れて、目を見開いてわたわたと手を振る。


「アイスダンスって、ええと、跳ばないやつですよね? わたしのできることなんて無いじゃないですか!」

「……『跳ばないやつ』って。フィギュアスケーターが言っていい台詞かそれは」

「だって!」


 槻木の呆れたような声に振り向いて、榛名は「あっ」と気付いて目を瞬く。


「っていうか、槻木さんと組んで、って。槻木さん、アイスダンスの選手になってたんですか!?」

「去年からな」


 榛名の問いをあっさりと肯定して、槻木は苦笑した。


「お前が知らないのも無理は無い。まだ、国際試合には出ていないんだ」

「え」


 シングルでは(ジュニア時代ではあるが)メダルを手にしたこともある槻木が、まだ試合に出ていない、とはどういうことだ。大きな目に疑問をいっぱいに乗せて槻木を見る榛名に、槻木は淡々と説明する。


「アイスダンスは、国内での環境が整っているとは言い難い。すぐには組む相手も見つからなかったし、リハビリも兼ねて一年カナダのリンクに居させて貰っていたんだが……向こうで組んだ相手は当然日本人ではないから、どちらの連盟に所属するわけにもいかなくて。とりあえず、大会への出場に必要な級だけを取得したんだ」

「そ、そう、なんですか」


 榛名にとっては初耳の上に、同じ競技スケートの世界であるはずなのに、まるで別世界みたいに聞こえる話だった。なにせ榛名は日本に戻って以来、競技会以外では海外に出たことがない。カナダを拠点にして、なんてちっともピンとこなくて、間抜けな相槌を打つことしか出来なかった。


「そうなんだよ。とはいえ、いつまでも国際大会に出ないでは居られない。どうしようかと考えていたところに、この話があって……しかしおまえ、俺を見て驚いていたから、まさかと思ったが……」

「アイスダンス、とか、初耳です!」

「……そうか」


 槻木はひとつため息を吐いて、確かめるみたいに東山へと視線を向ける。東山は「そんな目で見られてもね」と嫌そうに顔を顰めた。


「榛名が全然電話に出ないのがいけないの。家まで行っても出てこないし」

「東山」


 広澤が威圧感のある声で東山を制し、東山がぴたりと口を閉ざす。呆然とする榛名と、驚いた顔をする槻木を交互に見て、広澤は言った。


「何にせよ、ペアの相性は、滑ってみなければわからない。事前に了解をとっておいたところで、相性が合わなければどうしようもない」


 淡々と言い切られてしまうと、そのとおりだという気もしてくる。返す言葉を失った榛名の前で、けれども槻木が「そうは言っても」と一歩進んで非難するような声で言った。


「何の心の準備もなしでは、榛名だって驚くでしょう。……それに」


 ふっと槻木が己を見て、榛名は彼の手がまだ己の手と繋がれたままだったことに気がつく。榛名が慌てて手を引っ込めようとするのを察したようにぎゅっと手に力を込めて、槻木は榛名の瞳をしっかりと捉えた。


「俺のことを知らずに来たということは、榛名は此処に、『シングルの選手として』来たということです。……そうだろ? 榛名」


 静かな問いに、榛名の心臓がばくんと跳ねる。

 槻木の言葉は正しくて、けれども半分は正しくない。結局一人で此処に辿りつけなかった榛名を拾い上げた槻木こそそれを知っているはずで、その上での問いに榛名は少しく混乱した。

 確かに榛名は、槻木のこともアイスダンスのことも知らないままに此処に来たけれど。


「――わたし、は」


 真っ白い氷の上。煌めく照明の下。

 くわんくわんと頭に鳴り響くみたいな歓声のせいで、榛名は息ができなかった。

 目の前が真っ白になって、辛うじて聞こえてくる音だけを頼りに滑って、跳んで、それから――


(あ、――まずい)


 真っ白いリンクの上。曲が聞こえてくるのに聞こえてこなくて、どんどんと体が冷えていって、白かった視界が急激に黒く塗りつぶされていった。

 駄目だと思う間もなくて、抗えなくて、榛名は結局大音量で曲が鳴り響いたままのリンクの上で、気を失ってしまったのだ。


(あの時と、同じだ)


 じわじわと、視界が黒く滲んでいく。

「……榛名? ……榛名!」

 槻木の声が遠く聞こえて、ぐっと強く腕を引かれて、体がなにか温かいものに受け止められるような感じがあった。


(……あの時は)


 それでも全てが、榛名を引き戻すには弱すぎる。


(冷たかった、な)


 リンクの冷たさを、恐れたことなんて無かったのに。榛名にとって氷の上は、そうでない場所よりずっと馴染んだ、楽に息ができるはずだった場所なのに。


 榛名、と。


 呼ばれた名と強く握られた手を最後にして、榛名はふっと、意識を失った。



* * *



『アメリカ大会では残念な結果となりましたが、今のお気持ちは如何ですか?』

『次回中国大会への意気込みをお聞かせください!』

『惜しくもグランプリファイナル出場を逃す結果となりましたが、全日本選手権では四回転へのチャレンジはあるのでしょうか?』

『グランプリファイナルではトリプルアクセルを決めた日本の白神秋穂選手が銅メダルを獲得しましたが……』

『全日本選手権の結果を、どう受け止めて居られますか?』

『四大陸選手権での目標は』

『四回転は』

『メダルは』


『……なんだ、あの四回転は、やっぱり、まぐれだったんですか?』




* * *



「……名、榛名!」


 ひゅっ、と。

 目覚めた瞬間にどうしてか思い切り息を吸い込んでしまって、榛名はげほげほと大きく咳き込んだ。


「榛名、大丈夫か。榛名!」


 横を向いて背中を丸め、止まらぬ咳を繰り返していると、温かい手が背中を撫でるのを感じる。やがて喉が落ち着いて、ゆっくりと呼吸を整えてから、榛名はそろそろと体を起こした。


「……つきのき、さん」

「無理して起きなくてもいい。……大丈夫か?」


 はい、と小さく頷きながら、当たりを見回す。小さな医務室のパイプベッドの上、リンクで接触などの事故が発生した時のための場所だ。


(……そうだ、あのとき、気を失って)


 ゆっくりと記憶が蘇り、じわじわと血の気が引いていく。


「も、もしかして、槻木さんがここまで……?」

「ん? ああ」


 最後に感じたのは、確かに槻木の体温だった。恐る恐るの問いをあっさりと肯定されて、榛名はますます顔色を失ってしまう。けれども榛名が何かを言うよりも前に、槻木はからりと笑って言った。


「本当にペアを組むなら、抱いて運ぶぐらいのことはできて当然だ。……というか榛名、思ったより軽いなお前」


 筋トレが足りていないんじゃないか、と、明後日な方向に心配までされてしまう。


「お、思ったよりってなんですか!」

「だって、甘いものとか好きだったよな? よく練習帰りにコンビニで甘いものを」

「いつの話ですかそれ!」


 そりゃあ榛名は甘いものが好きだけれど、そんなの女の子なら誰だってそうだ、という程度だ。榛名が特別というわけではなくてつまり、甘いお菓子の類は全ての女子選手共通の敵ということである。槻木らしくないとも言えるデリカシーの無さに、榛名はむっとして言った。


「今はちゃんと我慢できます! 軽くないと、跳べないし」


 重さはいつだって榛名に纏わりついて、その身体を縫い止めようとする。榛名の言葉に槻木はちょっと目を見開いて、そっとその大きな掌を榛名の頭に乗せた。


「……そうか」


 ぽん、と、子どもにするみたいに二回。


「偉いな」


 それだけで槻木の掌は離れて、それを名残惜しいと思うより前に、まるで見計らったみたいに「あ、榛名起きた?」と東山が入ってくる。


「顔色は……ひどいね」

「ええ。日を改めたほうがいいでしょう」


 槻木が答えるのを聞いているのかいないのか、東山はじいっと榛名の顔をのぞき込んだ。


「榛名」


 東山は本来、スケートとは縁のない人生を送ってきた女性だった。

 バレリーナだったのだ。けれども、男子シングルの選手であった広澤が、東山の所属するバレエ団に教えを請いに来たのをきっかけに広澤と出会い、そこから広澤の振付やバレエ指導を担当するようになり、今では広澤とコンビを組んで、数々の選手を世界に送り出している。

 その東山の、数々の選手を見てきた目が、測るみたいに榛名を見た。


「あ、あの」

「……榛名。立てる?」

「え。あ、はい」


 もう頭がくらくらするような感じもなくて、立つことも歩くことも、走ることだって可能だろう。滑ることはどうだかわからないけれど、と思いながら榛名が頷くと、東山は「よし」と言って身体を離した。


「んじゃ、着替えて、しっかり柔軟して、リンクに来て」

「……え?」

「な」


 榛名が何か言葉を発するよりも、槻木が「待ってください!」と東山に楯突く方が先だった。


「榛名の顔色が見えていないんですか!? この状態でリンクに立てだなんて」

「うるさい。この子は去年、これよりずっと酷い顔色で、やめろっつっても滑ってたの」


 確かに、東山の言うとおりだ。

 去年の榛名は、広澤と東山がどれだけオーバーワークを諌めても、リンクから降りることが出来なかった。滑っていないと、跳んでいないと、ちっとも心が落ち着かなかったのだ。

 あの日々のことを東山に引き合いに出されたら、榛名には立ち上がる以外の選択肢はない。「去年と今とは違うでしょう!」と尚も東山に抗議する槻木を遮って、榛名は言った。


「大丈夫、です」


 槻木が榛名に不安げな視線を向けて、榛名はどうにかそれに笑ってみせる。


「わたし、やれます。……着替えて、リンクですよね。わたしの荷物は?」

「……そこの椅子に」

「それじゃあ、此処で着替えちゃいますね。更衣室より、こっちのほうがリンクに近いし」


 だから出て行ってください、と、笑みに込めたのが伝わったのだろう。さっさと立ち去る東山をちらりと見て、榛名を見て、槻木もまた仕方がないと言いたげに立ち上がった。


「榛名」


 やる気が萎える前にと椅子から荷物を引き寄せていたところで、槻木が振り返る。


「はい?」

「また、後でな」


 そんなこと、言われなくたって大丈夫だ、と。

そう、言い切ることができなかった。中途半端に口を開いたままの榛名へ優しい笑みを残して、槻木の姿はあっさりと扉の向こうへ消えていく。


「……また、って」


 鞄から、仕舞いっぱなしだったウェアと、手入れだけは習慣的にやっていた靴を取り出す。煌めくブレードが眩しくて手にずっしりと重くて、榛名は思わずそれを鞄に戻しかけた。

 けれどもどうにか、榛名はそれを手に収めたまま持ち上げる。


「ちゃんと、……行かないと」


 また、と、言った槻木が、練習着に着替えて靴も履いて、榛名のことを待っている。


 その想像が己を突き動かすのが、自分でもひどく不思議に思えた。また、と、槻木はただそう言っただけなのに──思いながら、榛名はいつもより手早いぐらいのスピードで着替え、ベッドの上で入念に体を解して、きゅっとスケート靴の紐をきつくしばった。




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