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「……そうですね。私にとっての転機になったのは、やっぱりあの、『オペラ座』だと思います。今でも、ええ、はっきり覚えてます」


 そう言って榛名雪は、夢見るみたいに目を閉じた。


 もう三十に近づこうというのに、彼女の表情はまるで少女のようにあどけない。大きな目を再び開いて、氷上で見せる妖艶さが嘘のように無邪気に笑って、彼女は言葉を続けた。


「クリスティーヌ……誰かを演じることを意識したのは、あの時が初めてでした。私は彼女が演れてよかった」

「クリスティーヌからファントムへの愛の表現が、随分話題になりましたね」

「そう……だったのかな。あの頃はあんまり、周りの評判を聞いてる余裕もなくて」


 若かったなあ、と、照れたように笑う彼女の演技は、もう競技会では見ることが出来ない。

 槻木将一とのカップル結成から十年。ついに手にした世界選手権のメダルを最後に、彼らはアマチュアからの引退を発表した。


「でも『オペラ座』については、今でも覚えていると言ってくれる方が多くて。嬉しいです」

「私もよく覚えています。……また」


 少し、問いの声が震えた。


「榛名さんのクリスティーヌを、見ることは出来ますか?」


 引退後の展望について、榛名と槻木はまだ、公に何かを言うということはしていなかった。プロになってアイスショーに出るのか、はたまた指導者や解説者のとしての道を選ぶのか、完全にスケートの世界から離れるのか。槻木の実家が大手企業の経営者一族であることは有名で、彼はそちらを今後の活躍の舞台に選ぶ可能性もある。

 もしそうなったら、彼女はひとりでどうするのだろう。もしかしたら彼女たちの間で話がついていないのかも知れず、だとしたら意地悪な問である可能性もあった。


「ええと、……そうですね」


 はたして榛名は、少し困ったように眉を下げる。少し迷うように視線を泳がせてから、彼女はそっと、口を開いた。


「……わたしにとって、あのプログラムは特別です。わたしはあのプログラムで、わたしにも、ファントムが居ることに気がついた。わたしにとっての『エンジェル・オブ・ミュージック』……そういうものが確かにいることを」


 榛名の言葉は誠実で、彼女がきちんと、こちらの問いに答えようとしていることが感じられる。そうして困ったような顔のまま、彼女は答えを締めくくった。


「ちょっと、簡単にもういちど、というわけにはいかないかなあ、という感じです」

「……なるほど」


 結局彼女がこれからどうするのかは、まるでわからないままだ。けれどもこれは、答えたくない、或いは答えられないということなのだろう。


「ちなみにその、『榛名さんのファントム』というのは、勿論?」


 わかりきったことなのに尋ねてしまったのは、彼女の口から、その名前を言わせたかったからだ。己のパートナーのことを口にする時、このカップルは途方もなくいい顔をする。はたして榛名はふうわりと、花のように微笑んだ。


「いやだな、言わせないでくださいよ。……わたしのファントムが誰かなんて、みんな、知っているでしょう?」

「パートナーの……ええと、元パートナーの、槻木さん?」

「……ほんと、意地悪な人だなあ」


 競技引退を発表したからには、榛名と槻木のカップルを『元』と呼ぶことは間違いではない。とは言え正式にカップル解消を表明したわけでもない二人に『元』を冠するのは当然意図的で、榛名は諦めたみたいに笑った。


「元、は、要らないです。わたしと槻木さんに、その言葉がつくことはありえないので」


 それはつまり。思わず息を詰める記者の前で、榛名は続けた。


「わたしにとってのファントムは、勿論、彼であり……そして、スケートそのもので」


 やわらかく、夢見るみたいに彼女は語る。



「わたしはその両方を、とっても、愛しているんです」



 もう、手放すことなんて出来ないぐらいに。


 榛名はそう言って笑って、それはつまり、と具体的なことを聞かなければならないのにどうしてもそれが野暮に思えて──結局記者である男が榛名と槻木の結婚、そして榛名の妊娠による休養を知るのは、のちの公式ブログでの発表を報ずるネットニュースでのこととなるのだった。







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