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わたしのファントム  作者: 逢坂景
第四章
23/24

4-4

 そうして辿り着いたリンクには、しんと静まり返っていた。


 照明はついているが、リンクサイドに東山や広澤の姿すらない。客席側から入った槻木はぱちりと目を瞬いて時計を確認したが、とうに練習が開始する時間は過ぎている。どういうことだ、と思った瞬間に、リンクサイドからひとつの人影が現れるのが見えた。


(……榛名)


 練習用の衣装なのだろう、シンプルな膝丈のドレスを身に纏った榛名は、客席の槻木に気づくこともなく軽くリンクを二周する。随分と伸びて背中に届くぐらいになった黒髪はサイドを編みこみ後頭部でバレッタで留められて、童話の姫君のような清楚さを榛名の横顔に与えていた。


 そうしてリンクの中心で、榛名は、夢見るように目を閉じる。


 ほんの少し顎を上げた姿勢は、まるで、口付けを待ち望むかのように見えた。曲目は『魔法にかけられて』だったか――と思うと同時に、静かに、曲が流れ始める。


(最初は、そうか……『True Lover's Kiss』)


 穏やかな滑り出し。冒頭のジャンプは、クアドはまだ調整できていないだろうからルッツのコンビネーションか、と思ったところで、槻木は己が大きな思い違いをしていることに気がついた。


(これは、……違う、これは、シングルの構成じゃない!?)


 思わず客席の最前列、柵から身を乗り出すようにしてリンクを見据える。榛名はジャンプを跳ぶ代わりに片足を大きく上げたスパイラルシークエンスに入り、勿論それは、こんな序盤に持ってくるような要素ではない。

 つまりそれは、見立てなのだ。


(なんで、……どういうことだ)


 混乱する槻木の目の前で榛名がステップシークエンス、シングルには存在しない要素であるツイズルを続けるに至って、疑惑はとうとう確信へと至る。


(これは、アイスダンスの振付だ)


 よくよく見なくとも榛名の視線は明らかにシングルとは違う体で、誰もいない自らの隣へと向けられ続けていて――つまり榛名はそこに、確かに、誰かを見ているのだ。榛名は見えない己のペアに向かって、ひどくうつくしく微笑み続けている。曲は移り変わり、『That's How You Know』の明るく華やかな曲想に合わせて、榛名は軽やかに、歌い踊るようにステップを刻む。


(『黙っていては 愛は届かないの』……待て、くそ、皮肉か!)


 榛名の微笑みは槻木ではない誰かに向けられていて、どうして、そのうつくしさに、魅せられずには居られない。


「……ちゃんと来たか。つくづく、茶番めいていると思わないか?」


 そうして只管に榛名を見つめていたから、槻木は、広澤がいつから己の隣に立っていたのか気が付かなかった。

 声が聞こえても榛名から視線を逸らせず、広澤もまた槻木の反応を求めぬままに言葉を続ける。


「榛名ほどの才能を持ったスケーターは、なるほど、確かに決して多くはない。オレはそれなりに長くココーチを務めているが、榛名ほどのジャンプセンスを持った選手を見たことはない。故に、お前の決断はたしかに正しい。だが……」


 正しいと思ってくれたのなら、何故、こんな茶番を行っているのか。考えるだけの思考は残されていなくて、ただ槻木は、広澤の静かな言葉を聞き続ける。


「榛名の魅力はそのジャンプのみにあるのではない、と、オレではなく東山ではなく、ほかでもないお前がそう言ったのだろう? ──槻木将一、お前は誰よりもはやく、榛名の才能に気付いた男だ。それなのにお前は、……今となっては、榛名が最高のパフォーマンスが出来るのがどこなのか、榛名の本当の武器はなんなのか、──榛名本人も、オレも、周りの誰も彼もがわかってるのに」


 広澤が、呆れたようにため息を吐いた。


「それを一番間近で見ていたはずのお前だけが、わかっていないと言うのだからな。正直、驚いた」


 榛名の魅力。榛名の武器。スケートが好きで、跳ぶのが好きで、そのひたむきさと溢れ出る歓びとで、見るものの心を強く引きつける。槻木はかつて榛名向かってそう告げて、──けれども確かに、今の榛名の姿には、それだけではないものが確かにあった。


(……ひとの心を、揺さぶることを)


 恐れないでくれ、と、槻木はかつてそう言った。


(榛名はもう知っていて、……その姿で、その演技で、より強く求めることを覚えたんだ。クリスティーヌを演じることで、そして今、ジゼルを演じることで、……ああ、こんなにも!)


 パートナーへ向ける視線、繋がれた手、交差する動き。榛名の視線の先、氷の上にいるはずの槻木と、榛名は物語を作り出す。シングルでは表現できない世界の中で、確かに榛名は、跳んでいるときのように、跳んでいるときよりもずっと、──強く、見ているもののこころを掴むかのようだった。


「槻木。これ見ても、お前はまだ、お前の幻想の榛名の方が――一人で踊っている榛名の方が、榛名らしいと言い切ることが出来るのか?」


 本来なら、抱き合うのだろうフィニッシュのポーズで、抱えてくれる腕を持たずに榛名は一人、己の体を抱えるように蹲って目を閉じる。


「オレも東山も、勿論夜坂も。もう、榛名をシングルに戻そうだなんて思っては居ない。榛名はもう、アイスダンサーだ。そうであることを、自らの手で選んだんだ。お前が、そうであるのと同じようにな。……それでもお前が、下らない我を張り通すと言うのなら……」


 こちらにも考えがないではない、という広澤の言葉を、けれども槻木は最後まで聞かなかった。客席から飛び出して階段を駆け下りて、槻木は一刻も早く、辿り着かなければならないと知っている。


 そうしてリンクサイドに飛び込んで――榛名はもう立ち上がって、真っ直ぐにリンクサイドの槻木を見た。


「槻木さん」


 真っ白い氷の上に立つ榛名は、槻木の姿を認めて、ふっと泣きそうに眉を下げた。


「ごめんなさい、……ごめんなさい、わたし」


 というか、泣く時の顔だった。音が消え、静まり返ったリンクサイドに、榛名の決して大きくない声がくわんと響く。榛名が何を謝っているのか槻木にはよくわかって、つまり、榛名を今まさしく泣かせているのは槻木なのだ。槻木は一度止めた脚を、慌てて前に踏み出した。リンクサイドから、氷の上に。スケート靴を履いていないことも忘れていた。


 榛名のことを、抱きしめたかった。今直ぐに。


(謝る必要なんて、無いんだ。勿論お前が、泣く必要だって)


 槻木はリンクの真ん中に居る榛名に駆け寄った。いや、正確には、駆け寄ろうとした。氷の上だということを忘れていた槻木のごく普通のスニーカーに氷を噛む力があるわけもなく、槻木はおもいっきりバランスを崩してたたらを踏んで、結局なすすべもなく思いっきり後ろにひっくり返った。


「つ、槻木さん!?」


 格好が付かないにも程がある。尻もちを着いた姿勢で、衝撃で一度閉じていた目を慌てて開いて、槻木は目に入った光景に思わず二度瞬いた。

 駆け寄ってきた榛名が、槻木に、手を差し伸べている。


「大丈夫ですか!?」


 リンクの照明をその背に負って、榛名はやっぱり、いつだって槻木の天使だった。槻木は伸ばされた手をとらぬまま、「榛名」と小さく、その名を呼ぶ。



「榛名。……その手をとったら、俺は一生、お前を離さない」



 榛名が少し、驚いたように目を見開く。その澄んだ瞳をまっすぐに見据えて、槻木は重く言葉を重ねた。


「そしたら俺はもう、お前を空に返してやれないし、お前が他の誰かと組むことも許さない。一生、俺の隣で、俺と共に生きて貰う」


 最後の慈悲のつもりで口に出したのに、それはまるで、縋りつくみたいな響きになった。結局、と、槻木は笑うような心地になる。


 結局槻木は、ファントムとおなじになってしまった。


(『私無しでは、生きていけないと言って。貴方の居るところ、何処までも、ついていくから』……だなんて、ああ、その通りだ!)


 榛名にこうして手を伸ばされて――とらずにいられる己であるはずがないのだ。榛名は暫くぽかんとしたあと、ちょっと怒ったようにきゅっと眉を寄せた。


「……は、はる」

「あのねえ、そんなの!」


 榛名はぐっと上体を屈め、伸ばした手で強引に槻木の腕を掴んだ。掌で掌を、ぎゅっと強く、知らしめるみたいに掲げながら握る。


「わたしの台詞ですよ! じゃなきゃ、わざわざ槻木さん呼んで、此処で滑ってみせたりしないでしょ!?」


 怒りにきらきらと煌めく瞳から、目が離せない。握りつぶしでもしたがるように槻木の手をきつく握ったまま、榛名は「ねえ槻木さん」と、震える声で言った。


「……わたしが居なきゃ、生きていけないって言って。そしたらわたし、どこまでだって槻木さんと一緒に行くから。表彰台のてっぺんだって、槻木さんと一緒に行くから! だから、……だから」


 じわり、と、榛名の瞳が濡れて歪む。


「わたしに、ひとりで滑れなんて、もう、言わないで」



 ――榛名を、彼女が一番輝くところに、導きたいと思っていた。



 その願いがそもそも傲慢であったと、どうして槻木は、気付かずに居られたのだろう。槻木は繋いだ手をぐっと引いて、己の胸元へと榛名を抱き込んだ。

 繋いでいないほうの手で、その背中を強くかき抱く。


「ああ。……悪い、榛名。泣かせた」

「な、いて、ないです」

「そうだな。榛名」


 ずっと、手を繋いでいよう。


「お前なしじゃ、生きていけない」


 そんなの三年前から――もしかしたらもっと前からずっと、そうだったのだ。


「一生、俺の隣で生きてくれ」


 胸の中で、榛名が何度も頷く。その顔が見たいと思ったけれど、きっと泣き顔を無理に晒したら怒るだろう。だから槻木は代わりに榛名の頭に口付けて、もう一度強く、その身体を抱きしめたのだった。





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