4-3
アパートの部屋の前に見覚えのある白いコートを見つけて、槻木は思わず眉を寄せた。
「……何をしている、榛名」
「あ、おかえりなさい」
もう春とはいえ、日によっては随分冷える。春用の薄手のコートを身に纏った榛名の身体は細く頼りなげで、槻木は駆け寄ってその頬に触れた。
「何時から此処に居たんだ。来るなら連絡を」
「……したら、会ってくれました?」
こちらを見上げてくる榛名の問いに、槻木はぐっと言葉を詰まらせる。榛名がもう槻木の逃げに思い至れるようになっていたのか、とその成長にひんやりとしたものを感じる前で、「って」と榛名はちょっと苦笑する。
「夜坂さんに言われたんですけど。槻木さんはきっと直に会わずに済まそうとするから、会いたいなら押し掛けていくしかないって」
「……レイ」
昼間の三波の件といい、夜坂はいったいどちらの味方であるのだろう。思わず天を仰いだ槻木は、ため息とともに諦めて言った。
「とりあえず、中に」
「あ、いえ、此処で」
榛名は手を横に振り、槻木の提案を退ける。驚く槻木を真っ直ぐに見上げて、榛名は言った。
「明日、通しで練習する予定なんです。細かいところは全然なんですけど、とりあえず雰囲気だけつかむようにって」
「……ああ、そんなことを言っていたな」
「見に来て下さい」
槻木は思わず息を呑んで、咄嗟に断りの言葉を探す。いや、と言いかけた槻木の言葉を聞かず、榛名は言葉を続けた。
「いえ。槻木さんは、見に来なきゃいけない。夜坂さんも、そう言ってました。……貴方がわたしを、氷の上に戻してくれた。スケートの楽しさを思い出させてくれた。そして、氷の上に立つことの意味と──氷の上で、人に伝えたいと思う心を教えてくれた。貴方は、その結末を」
榛名の目の強い輝きに圧倒されて、目が離せない。
「その目で、見届けるべきなんです」
「……それは」
けれども辛うじて反論した、槻木の声は震えていた。
「オリンピックの場では、いけないか?」
榛名のおおきな澄んだ瞳が、槻木を決して逃さぬ目で見据えてくる。
「駄目です。明日でなきゃ。……ねぇ、槻木さん。わたしの、最後のお願いです」
最後、という響きが、ぐっさりと突き刺さって抜けない気がした。
「そうか」
そう、言われてしまっては。
「……わかった。明日の夜、講義が終わった後になるが。必ず行くと、約束しよう」
* * *
『Yuki Haruna,Shoichi Tsukinoki――Japan!』
コールの声が、リンクいっぱいに響き渡る。
迎える観衆の声と拍手は暖かく、客席には応援のバナーや日の丸が翻っているのが見えた。解説の声は……フランス語だろうか。少なくとも国内で放映されたものではないようだ、と槻木は思った。
(おそらく、アングル違いなのだろうな。……何か、おかしなものでも映っているのか?)
三波はどうやってこの映像を手に入れたのだろう。あの如何にも策士な顔をした女の考える事などわかるはずもなく、槻木はそれ以上を考えることもなく開始の姿勢をとる自分と榛名の姿を見つめる。
槻木の――ではなく、ファントムの腕の中で、クリスティーヌは眠っている。
(静かな、オルゴールの調べ……クリスティーヌは、目覚めているが、まだ、夢を見ている)
冒頭のダイナミックなロングリフトとともに、オペラ座の幕が上がる――映画の演出と同じだ。人々の拍手と歓声が、槻木と榛名の演技が人々をオペラ座の世界に引きこむことに成功したことを表していた。
(まだ、さして前というわけでもないのに)
勢いをつけたスピンは速く、この一年柔軟性の向上に取り組んできた榛名のポジションはうつくしい。夜坂の案で片足部分にスリットの入ったドレスは、脚を上げた時の姿勢をよりうつくしく見せるのだ、と、槻木は改めて感じ入るような思いがした。
(……もう、このころには、戻れない)
曲はもう後半に入り、流れているのは丁度『Point of No Return』だ。ファントムが一方的にクリスティーヌを求めていた前半とは一転し、ふたりは恋人同士のように見つめ合う。
(幸せ、だった)
榛名の瞳が恋するように槻木を見ていて、槻木はそれが、演技であると知っていた。榛名は『オペラ座の怪人』の映画に深く感動していたようだったし、その上で夜坂の解釈と演出を聞いて、彼女の中にも存在していたらしい乙女心というものが疼きでもしたのだろう。榛名の演技は去年に増して真に迫っていて、槻木はまるで、本当に榛名が槻木に恋しているのではないかと、そう。
(……そんな、幻想も見るはずだ。なんて顔をしている?)
あまりにも切ない、恋をしている女の顔だ。氷の上でその視線を受けていた時より、どうしてか観客として彼女を見ている方が、余程強くその恋情を感じるような思いがした。
(しかし、わからないな……)
とはいえそれは、つまりは外側から見ると、より演技がよく見えるというだけの話だ。審判受けも観客受けもよくよくするはずだ、という納得があるぐらいで、実際聞き取れはしないものの異国の言葉の解説が随分興奮しているのはよくわかる、が。
(三波はつまり、一体、何を見せたかったんだ?)
最高の出来だ。そんなことは、滑った感触でも、点数でもわかりきっていることだ。この画面に映っているのは正しくそれだけで、それ以上のものがあるとは思えない。そうして見つめた先、最後の要素であるショートリフト――祈るように慈しむように、ファントムである槻木の顔を両手で包む榛名の表情に、目を見開いた。
(……なんだ、これは)
槻木はこのとき、目を閉じていた。
そういう演出だったのだ。クリスティーヌは切なくファントムを見つめるが、ファントムは己の中のクリスティーヌを見ている。だから、二人の視線は、最後には決して交わることはない。リフトの後最後のポージングに至っても、ファントムを見ているのはクリスティーヌだけだ。
だから槻木は――槻木だけは、その顔を見ていない。
(なんだ、これは)
最初は、少なくとも緒戦のときは、こうではなかったはずなのだ。クリスティーヌは切なく眉を下げ、哀しい顔でファントムを見下ろす。槻木が見た試合の映像ではたしかにずっとそうだったはずで、けれども今、榛名は。
(……なんで、微笑んでいる?)
槻木はその時初めて、そのリフトに観客が与えた、万雷の拍手の意味を知った。
──そこには、愛があった。
愛とは、つまり、赦しなのだ。クリスティーヌの微笑みは、まるで聖母のそれだった。クリスティーヌはファントムを赦し、受け入れ、真実の愛をファントムに与える――嗚呼、貴方が孤独ではないということを!
(どうして、……演出を変えたのか? いや、レイはそんなことは言っていなかった、ならどうして、どうして)
夜坂はこの『オペラ座の怪人』について、こう言った。
『これは、哀しい愛の物語だ。……ファントムの、一方的な愛。そしてクリスティーヌの、報われぬ愛の物語なんだ。通い合わないんだ。思いは通じ合わない。どんなにファントムがクリスティーヌを求めても……クリスティーヌがファントムを愛しても、駄目なのよ』
だからクリスティーヌは、最後まで、切なくファントムを求めているはずだったのだ。
(レイじゃ、ないのなら)
夜坂は何も、言っていなかった。であるのならば、演出が変わった理由はひとつしか無い。
(榛名が)
スタンディングオベーションに応える榛名はもう、槻木のよく知る、弾けるような笑みになっている。今にも槻木に抱きつきたいけれど、キス・アンド・クライまでは我慢します、とでも言いたげな顔だ。
興奮した異国語の解説を聞きながら、槻木はまだ呆然としていた。
(……榛名が、変えたのか? どうして――だって榛名は、レイが指示したクリスティーヌを、ただ演じていただけじゃないのか)
キス・アンド・クライで抱き合う己と榛名の姿はもう、随分と遠い過去であるような感じがした。確かに、と、槻木は思った。
確かに槻木が知らなかった、三波が見せたかったもの。三波はおそらくずっと槻木たちの演技を見続けてきて、榛名の表情の変化に気が付いたのだろう。そうして、その榛名の顔が、最もよく見えるアングルの映像を選んで槻木に渡してきた。
それが意味するものが、槻木に、察せないというわけではない。榛名の表情、その愛が向けられているのがただファントムだけなのだと、つまり、あれを見て思うほうが難しいのだ。その上榛名が、自ずからその表現を変えたのだとあっては。
(……だとしても、だ)
Point of No Return――もう、戻れない。
槻木はもう、榛名の手を離すと決めた。けれども今、あの顔を見てしまった今となっては、果たして己の決断が本当に正しかったと、槻木にははっきりと断言することが出来なかった。
* * *
『槻木さん、もう一回! もう一回跳んで!』
『……別に構わないけど、榛名、ジャンプなら白神のほうが得意だぞ?』
『槻木さんがいいんです、槻木さん、ふわって跳ぶんだもの。わたし、そういうふうに跳びたいんです』
『ふわ……? よくわからないが、お前、十分跳べているじゃあないか。羽が生えているみたいだ』
『羽?』
『ああ。……榛名雪、お前はまるで』
夢を見ていた。
幼いころの夢だ。槻木と榛名がまだ、ジュニアの選手だった頃。
『すべてのものから、自由であるみたいに跳ぶんだな』
(そうか、……だからオレは、榛名に)
原体験、或いは、はじまりの記憶。
(なにものからも、――オレからも、自由であって欲しいんだ)
だから槻木は、榛名の手を離す。
『――それが、榛名の願いじゃなくても、か?』
* * *
悪夢を見た。
途中までは、いい夢だったような気がしていたのだ。けれどもどうしてか最後に割って入った男の、誰のものだかもわからない嫌な響きが、槻木の夢をぶち壊した。
(……いや、そもそも、講義中に寝るなという話だ)
昨夜はどうしても寝付けずに、結局アルコールの力を借りて布団に入ったから、どうしても多少の寝不足は否めない。どうにか一日の授業を終え、槻木は足取り重く大学を出た。
普段ならもう帰るだけだけれど、今日は行くべきところがある。ホームリンク、で、あった場所だ。訪れなくなってまだ一月も経っていないというのに、それまでの日々を思うと随分脚が遠のいていたような気がした。
(……最後のお願い、か)
今日を最後に、榛名は完全に槻木の手を離れ、槻木が望んだ道を歩いて行く。祝福すべき門出のはずなのに、どうしたって槻木の脚は、脳の命令を拒否し心ばかりを優先して、亀のような歩みになった。
(二年前、だ)
もう、桜はとうに葉桜だ。二年前の桜の季節、槻木はこの道で榛名雪を拾い上げた。その手を引いて氷に乗せて、己の全てを榛名に捧げた。
(報われようだなんて思ってなかった。俺はファントムじゃない――ファントムになんてなりたくもない。俺は榛名の良き師であり、理解者であり、良き友……或いは父親。新しい世界へ導く存在……それら全てでありたかったが)
槻木があの日、榛名の演技に救われたように、榛名を救い上げる光でありたかった。
(けれども俺は、お前の、……お前の恋人にだけは、なりたいと思ったことはなかったよ。思うまいとしていたんだ)
愛をささやかれるのは、恋する瞳で見つめられるのは、氷の上だけでいい。
それは槻木が、自身に掛けた戒めだった。もしもそれを求めてしまったら、槻木は榛名を地下に閉じ込めるファントムになり仰せてしまうだろう。榛名を元の世界に、彼女が居るべき光の下に返すことが、できなくなってしまうだろう。
(……と、言ったら、東山に怒られるかな。アイスダンスを下に見ていると? ……違うよ。そうじゃない。そうじゃないんだ。俺が下に見ているのは、アイスダンスそのものじゃあない)
槻木は立ち止まって、まるであの日の榛名のように地面を見つめた。流石に蹲ることはしなかったけれど、もう、一歩だって歩くことが出来ないような気がしたのだ。
(俺が下に見ているのは、……俺が暗闇だと思っているのは、俺自身だ。榛名が滑る氷の上が光の世界なら――俺は榛名をそこから奪う闇だ。榛名が最も輝くのは、ひとりで自由に滑り、そのうつくしい翼で跳ぶときなんだ。決して)
榛名がどんなに、槻木の腕の中でうつくしく、優しく笑うことが出来たって。
(俺の腕の、中じゃない)
その真実に、皆ももう気づいた頃だろう。この道をたどった先、氷の上で、直ぐに真実は詳らかになるのだ。観客が槻木しか居ないリンクの上で、きっと榛名は自由に、解き放たれて踊るだろう。
槻木はそれに惜しみない拍手を送り、榛名を送り出す、義務がある。
(……歩け。最後の仕事だ)
大丈夫。二年掛けてやってきた心の準備のもとに、槻木はきっと役をやり果せる。思いながらもう一度踏み出した脚はもう震えていなくて、槻木はしっかりと前を向き、雨の匂いを孕んだ初夏の道を歩んだ。




