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榛名がシングルの練習を始めた、という話は、夜坂経由で槻木の耳に届いた。
槻木がカップルの解消を言い出した時、榛名は確かに頷いた。とはいえ一抹の不安が存在しないでもなかったのだが、どうやら杞憂であったらしい。夜坂からの電話に、槻木は「そうか」と頷いた。
「調子はどうだ?」
「悪くないわね。ジャンプの成功率も上々で、ルッツもフリップも綺麗に跳べてる。この調子なら、本番のプログラムにはクアドも組み込んでいけるかも」
「当たり前だ。榛名は本来なら、もっともっと跳べるはずなんだ」
この二年の回り道がなければ、榛名は四回転のトゥループだけではなくて、もっと色々なジャンプを身につけていたかもしれない。
昨今の女子シングルの世界では、もはやトリプルルッツートリプルトゥループの連続ジャンプは跳べて当然、それ以外に各々がレベルを上げるための技を組み込むのが一般的になっている。アクセルジャンプが得意ならトリプルアクセル、そうでなければトゥループかサルコウの四回転ジャンプだ。男子の世界でも四回転にコンビネーションジャンプをつけるもの、四回転のルッツに挑戦するものと技術構成の上昇傾向は続いていて、ブランクが有る榛名がトップ層に並ぶのはそれなりの苦労を伴うだろう。
けれどもそれは、決して不可能なことではない。
「プログラムも、まあ、曲は決めてたから。シングルってなるとだいぶ変わっちゃうけど、一応の振りは終わった。来週辺り、全体の構成をざっと流してみるつもり」
「……はやいな」
「誰のせいだと思ってるの?」
夜坂は呆れた声で言った。
「シーズン開始までにプログラムの完成度上げとかないと、やっぱり間に合わなかったのかって見られちゃう。連盟が視察に来るタイミングには仕上げておきたいの」
夜坂の言葉はひどくシビアで、微かに槻木を責めるような響きが伴っている。槻木はぐっと詰まって、辛うじて「そうか」とだけ言葉を返した。
夜坂は、槻木の選択を全面的に肯定してくれたわけではない。小さく落ちた沈黙にため息をついて、「それで?」と夜坂は少し語調を明るく尋ねた。
「曲かけ、見に来るんでしょうね?」
夜坂の問いに、槻木はほんの少し沈黙した。
「……いや、やめておく」
「どうして。気にならないの?」
「里心がつきそうだからな」
「は?」
夜坂は呆れたような声を出した。それから、少し意地悪く言葉を重ねる。
「……なあに、アナタ、あの子がまだアナタを頼ってると思ってる? 悪い癖ね。昔の女がいつまでも自分のことを覚えてだなんて、」
「違うよ。榛名がじゃない」
槻木は答えた。
「俺がさ」
今度こそ夜坂は、完全に呆れたようだった。
「……ショウ、アンタ……」
「何だ?」
「馬鹿でしょう」
「うん。……俺も、そうかもしれないと思っていたところだよ」
* * *
「かもしれないっていうか、あなた、馬鹿でしょう」
槻木の通う、大学のキャンパス。
現れた女は、開口一番にそう言った。槻木は流石に鼻白み、ゆるりとした笑みとともに彼女を迎え撃つ。
「……挨拶もなしに、随分な言い草だな。三波さん」
槻木は、己の外見の上等さを十分に認識している。それはだいたいの女性から戦意を喪失させてしまう類のものだったが、三波はどうやら槻木の見た目に惑わされてくれるような可愛らしさを持ちあわせては居ないようだった。にっこりとした笑みは艶やかで、槻木は少しばかり感心する。
彼女は、頭のいい女性だった。決して飛び抜けてうつくしいと言うわけではない己の容姿を、最高に見せる顔を心得ている。
「此処は、誰に?」
「誰だっていいでしょう。昼はだいたいこのカフェテリアでとっていると伺ったので。……賭けに勝ててよかったです」
三波は槻木の許可を得ず、槻木の向かいの席に座った。席を立ってやろうかと思ったが、それはさすがに大人げないというものだろう。
「……まあいい。話を聞くぐらいのことはしてやるさ」
「ありがとうございます」
ちっとも有難がっている顔じゃあない。槻木は思わず顔をしかめて、三波はそれに面白そうに笑った。
「自分が悪い自覚がある顔をしてらっしゃる」
「気のせいじゃないか。貴方に対して負い目はない。……オリンピックでは、いい成績を期待しているよ」
槻木と榛名が獲ってきた二枠のうち、一枠は確実に三波と青木のものになるだろう。彼らは日本代表として恥ずかしくない演技をしてくれるはずで、槻木はその点において全く不安を抱えては居なかった。もう一組は、今年からシニアに上がるカップルが居ると聞いている。
「私に対しては、ですか。榛名さんに対しては、負い目がある?」
「……聞いたのか」
「正式な話としては聞いてませんけど。人の口に戸は立てられませんから」
気になったのが表情に出たのか、三波は少し笑みを深めた。
「教えませんよ。……でも、榛名さん本人の口からは、他の女子選手には言ってないみたいですね。心配をかけたくないのかも」
「心配?」
「白神さんは随分、貴方と榛名さんのことに気を揉んでいるみたいでしたから」
そうなのか、と、槻木は少し意外に思った。白神妹こと白神秋穂のことは槻木も当然知ってはいるが、極度のブラコンという印象ばかりが先行し、人間関係には淡白だと思っていたのだ。
「貴方たちは、自分が思っているよりずっと、周りに心配されてるんですよ」
「……肝に銘じるよ。それで? そんなことを話しに来たわけじゃあないだろう。用件は何だ?」
まどろっこしい会話に音を上げたのは、珍しくも槻木の方だった。槻木は己がこの手の回りくどさに慣れていると思っていたが、どうやら自分で思った以上に精神が消耗しているらしい。槻木の言葉に、三波は「ああ」と言いながら手元の小さな鞄を開いた。
「これを、渡そうと思ったんです」
そうして差し出されたのは、一枚のD∨Dディスクだった。
「……映像? 何のだ」
「『オペラ座』です」
「は?」
何を言っているのかわからない。片眉を上げて問いの代わりとした槻木に、三波は変わらぬ笑みのままで言った。
「世界選手権の、貴方と榛名さんのフリーダンスです。見ていないでしょう」
緒戦の頃は改善点を探すために試合での演技を繰り返し見たものだが、シーズン末は何かと慌ただしかったこともあって、そういえば演技を見直すタイミングを逸していた。そんなことをしなくても、滑った感覚でわかるというのもあったのだ。
そしてシーズンが終わってからは――槻木はあれが夢だったような気がしていて、どうにも、見返す気になれないでいる。けれどもどうしてわかるのだろう、と訝しみながら頷いた槻木に、三波は傲岸に言い放った。
「わかりますよ。もし、これを見ていて尚、貴方が今の決断を下したというのなら――貴方にはもう、榛名さんをリードする資格なんて無い」
随分な、言い草だった。
けれども今の槻木には、反論する意味も資格も存在しない。槻木はケースに入ったD∨Dを受け取り、ただ「わかった」とだけ頷いた。
「帰ったら、見させて貰う。……でも、わからないな。てっきり君は、ええと……榛名のことが」
槻木は、三波の経歴を知っている。
ノービスの頃はシングルの選手で、ジュニアに上がる際にアイスダンスに転向したという事実は、彼女がジャンプへの適性が低かったことを表していた。以降幼馴染である佐倉と組んだカップルで堅実に実績を詰み、けれどもシニアに上がった次の年にパートナーの怪我と強力なライバルの登場と、同情せざるをえないような経歴だ。そんな彼女が榛名に肩入れする理由が存在するとは思えず、槻木は濁した言葉の持って行きどころを探して一度口を閉ざし、三波が引き取るように言う。
「私が、彼女を嫌っているとでも?」
「……まあ、有り体に言えば、そうだ」
実際、去年の全日本の前に榛名が調子を崩したのは、十中八九三波の影響だろう。頷いた槻木の前で、三波はちょっと肩を聳やかした。
「そりゃあ、嫌いでしたよ。ちょっと、意地悪なことも言いました。お気づきでしょう?」
「予想はしていた」
「昔の話です。そう、怖い目をしないでくださいな。噂通りの過保護ですね」
「俺は榛名が大事なんだ」
槻木の言葉に、三波は思わずと言ったように吹き出した。くつくつと肩を震わせて笑って、それでもこらえきれぬというように一度うつむく。そうして顔を上げた時、彼女の瞳には確かに怒りが宿っていた。
「……全く、女の敵を体現したみたいな人ね、アンタ」
吐き捨てるような語調は、今までの余裕と丁寧さをかなぐり捨てていた。三波は鞄の口を閉めて立ち上がり、突然の変貌についていけず呆然と見上げる形になった槻木を傲岸に見下ろす。
「でも、こっちが榛名さんの味方だから、釣り合いはとれてる。……それじゃあ、槻木さん」
そうして三波は、まるで氷の上みたいに艶然と微笑んだ。
「全日本で、会いましょう」
俺は出る予定がない、と、言い返す間もなかった。三波の颯爽とした後ろ姿を呆然と見送ってから、手元のD∨Dに視線を落とす。
(俺と榛名の、『オペラ座の怪人』に……一体、何があるっていうんだ?)
わざわざ映像で見なくたって、一番近くで、榛名のことを感じていた。けれどもここまで言われてしまっては見ないわけにもいかない。槻木は己の鞄にケースをしまい込み、おそらくちっとも集中出来はしないのだろう午後の講義のために立ち上がった。




