4-1
レイ、と、槻木は微笑んだ。
世界選手権の最終日、バンケットが開けた後、バーに移動して飲んでいた時の話だ。槻木は、まだ酔うほどの量は過ごしていなくて、けれどももしかしたら少しは判断力が落ちていたかもしれない。
でなければ、あんなことを口にするはずもなかった。
「レイ。俺は、貴方に感謝してる」
槻木の言葉に夜坂は目を瞬いて、ちょっと怯えたみたいに「いきなり何?」と言った。
「今更、改まって言われても困るんだけど」
「いや、言わせてくれ。……俺に、あのファントムを演じさせてくれて、ありがとう」
夜坂は今度こそ、ぎょっとしたように目を見開いた。
「俺が最初に『オペラ座』を持っていった時、俺は当たり前に、ファントムの悲恋を演じるつもりだった。ファントムの一方的な恋、嘆きと哀しみ。いくども氷の上で演じられてきたように、俺はそういうファントムを、己の身に重ね合わせるつもりだったんだ」
美しい、己だけの歌姫に恋をした、哀れな怪人。己を信ずるように教えこみ、彼女の求めるものを与えれば、当たり前に彼女が手に入ると思った愚かな男だ。
「……そう、だったかしら。確かに最初、あなたはそう言ってたかもね」
「ああ。……だからレイがプログラムを完成させて、四分に繋ぎ直した曲とともに語ったシナリオに、驚いたよ。クリスティーヌが、ファントムを愛していただなんて」
夜坂はあの日、恋なんて縁遠そうな淡白な調子で淡々と語った。
扉は開かれた。橋はもう焼け落ちた。クリスティーヌはもう、ファントムを愛してしまっていた――
「……氷の上での四分間、俺は幸せだった。貴方のお陰だ。俺はこの一年ずっと、幸福な幻想の中で生きていたような気がするよ」
氷の上で、榛名は槻木だけを見ていた。槻木の腕に応え、ふとすると飛んでいってしまいそうになる儚い肢体を槻木の手に委ねてクリスティーヌを演じる姿は、ファントムが崇めた清らかさと、愛を知った女性の持つ色香を過たずに表現し仰せて――うつくしかった。途方もなく。
「だから、俺は、……十分夢で愛されたから、きっと、ファントムにはならずにすむ」
「……ショウ? アナタ、何言って」
「ほんとうに、感謝しているんだ。……氷の上でだけでも、榛名に愛されることが出来て」
もう戻れない――けれど槻木は、まだ、引き返すことが出来るのだ。
「俺は本当に、幸せだったよ」
* * *
「考えなおせ」
槻木に向かって、東山はきっぱりと言い放った。
「つーか、馬鹿なの? オリンピックシーズンよ。四年に一度の祭典。そのうえ、アンタが獲ってきた二枠なのよ!」
「俺が、ではありません。俺と榛名が、です」
「だとしたら尚更でしょう!」
バン、と机を叩く大きな音がして、槻木は微かに眉を顰める。けれども窘める間を槻木に与えず、空気をびりびりと震わせるような大声で東山は言った。
「それでなんで、引退なんていう話になるの」
反対に合うことは、予想していた。
そして彼女を納得させるだけの言い分は、槻木のうちには存在しない。それがわかりきっているからこそ、東山は再度「考えなおせ」と言い放つ。
「怪我が再発したわけでもなければ、故障でもない。年だってまだ二十二で、アイスダンスじゃあ若手に入るぐらい。その上去年一昨年と、順調に実績を積んできてる――どう考えても、満を持してのオリンピックにしか見えないでしょう。あんた達のために誂えられたような舞台なのよ! 表彰台は無理でも、アジア初の入賞は余裕で圏内じゃない。こっちはもう曲だって、夜坂と相談してるのに!」
「……そんな話は聞いていません」
「『Enchanted』……邦題は『魔法にかけられて』よ。見たことある?」
「……ありますが」
実写とアニメーションを組み合わせたミュージカル映画だ。天真爛漫で強いヒロインは確かに榛名にぴったりで、槻木はちょっと微笑んで言う。
「確かに、良い選曲ですね。是非、榛名のフリーに」
「……アンタ、さっきから、何を言ってンのかわかってんの?」
東山は唸るように言い、槻木は「勿論」と頷く。
「俺は引退する。榛名はシングルに戻る。……最初に話していた通りのことをやっているだけです。何の問題が?」
「あの頃とは事情が違うでしょう!」
槻木が最初に東山に話を持ちかけた時、東山は勿論、直ぐにいい顔をしたというわけではなかった。
当たり前だ。当時の榛名はオリンピック銀メダリスト、不調の一年を過ごしたとはいえまだ押しも押されもせぬ女子シングルのエースで、来期こそはと誰もが復活に期待をかけていたはずだ。その期待こそが榛名にとっては負担だったのだが、それはともかく、そんな選手をいきなりアイスダンスにと言われてあっさりと頷けるはずがない。
だからそのとき、槻木は東山に言ったのだ。
「一年、或いは二年――少なくともオリンピックシーズンまでに、榛名を氷の上に立てるようにする。俺はそう約束して、あいつを譲り受けたんです。借りたものは返す。当然のことでしょう」
「……確かに、あの頃の榛名は、氷に乗れるような状態じゃなかった」
四大陸選手権での転倒以来、榛名の身体は完全にリンクを拒否していた。榛名の母親に聞いた限りでは、少し吐いたりもしていたらしい。そこに槻木が持ってきた話は、榛名に当時不足していた表現力やエッジワークを磨くという点も含めて利があると判断し――たしかに東山は、榛名がシングルに戻るという前提で、槻木の言葉を了承した。
けれどもそれは、二年前の話だ。
「こっちは、二年掛かってでも、榛名が滑れる状態に戻ればいいと思って了承した。それがどう、アンタの手があれば榛名はあっさり氷の上に戻れたし、アンタ達はたった二年で日本記録を塗り替えた。私は榛名が、跳ぶのが好きな選手なんだとばかり思ってた。でも、ちっともそんなことはなかったって、他でもないアンタが証明してみせたんじゃない。あの子は、天性のスケーターだったんだって」
東山の言葉に、槻木は内心で同意と半ばの否定を返す。正しいけれど、正しくない。
「そうですね。俺は最初から知っていました。……榛名は、跳ぶの『も』好きな選手だって」
誇るような気分で言った槻木の言葉に、東山は低く唸るような声を出す。
「槻木、アンタは」
「だからこそ、です。あるべきところに戻るだけですよ。大丈夫。榛名はもう、一人でもリンクに立てる」
槻木の手がなくたって、榛名はもう、氷の上を恐れたりはしないだろう。
「トリプルルッツが跳べることも、もう、確認しています。直ぐにという訳にはいかないでしょうが、感を取り戻せば、元ぐらいは跳べるようになる。そして榛名はきっと、四年前よりもずっとうつくしく滑るでしょう」
そうして彼女は、本来彼女のあるべきステージで、彼女を待ち望んでいた人々に迎えられ、降り注ぐような歓喜の声を聞くのだ。
槻木の居ない氷の上で、彼女はきっと、誰よりもうつくしく輝くだろう。
「俺はそれが見たい。それだけが俺の、」
「──オリンピックに、」
東山は一切の言い訳を許さぬ視線で、槻木の言葉を遮って尋ねた。
「出るために。戻ってきたんじゃなかったの?」
「──、」
すこしだけ。
胸が疼いたのは、未練だろうか。
確かに槻木は、一度は降りたリンクへと、諦めきれぬ夢を抱えて戻ってきた。けれども──けれども、槻木は結局首を振る。
「その夢もまた、榛名が俺に取り戻させてくれたものですから。俺はすべてを返したいんです。榛名が俺に与えてくれた全てを、同じように与えてやりたいんだ」
あのオリンピックの日、槻木将一はふたたび生まれた。それぐらいの衝撃があった。槻木は勝手に救われて勝手に報われて、だからすべてを、榛名の手に戻してやりたいと思う。
すべてを、与えたいのだ。それが槻木の恋だった。もう既に救われているのだから、これ以上報われたいとは思わない。ごく真面目に言い募る槻木に呆れたように息を吐き、東山は半ば諦めたように、それでも諦めきれぬように問を重ねた。
「それが、榛名の願いじゃないとしても?」
東山の問いに、槻木はちょっと目を見開いた。予想していなかったことを言われた、という気がした。目を瞬き、少し考えてから答える。
「……榛名はもう、俺を必要としないでしょう。俺の願いは、榛名の願いと合致する。榛名だってほんとうは、跳びたいに決まっているんですから」
だってあれほど、跳ぶのが好きな少女だった。
この間だってそうだ。槻木の手に導かれ、細やかで可愛らしい歌声に合わせて、榛名はごく当たり前みたいに跳んだ。槻木が踏み切っていなかったことなどきっと、気が付いても居なかったに違いない。
そうして、奇跡みたいにあっさりと、榛名は翼を取り戻した。
「榛名の背中には、羽がある。貴方だって知っているはずです」
四年前、大歓声の中で、確かに少女は天使だった。槻木はどうしてもその光を、まばゆく美しい己の天使を、氷の上に返してやりたいと思うのだ。
「……アンタが、梃子でも動かないって腹なのはわかったわ。でも、連盟には、とてもそんなことは言えない。言ったって、納得するとは思えない」
東山はがりがりと頭を掻きながら、槻木に現実を見せる方向で説得しよういう腹か、そんなことを口にする。槻木は微かに眉を寄せて尋ねる。
「……夏までの仕上がりで、どうにか」
「ならないでしょうね。女子シングルは、あんたも知っての通り層が厚いの。白神妹を筆頭に、どっからも不調の話は聞こえてこないし、三枠を余裕で獲得したぐらいなんだから、実績も充分だって言えるでしょう」
東山はただの事実を言う体で淡々と続けた。
「となると、榛名がシングルに復帰したとして、強化指定が貰えるとはとても思えない。そうなればグランプリシリーズへの派遣も難しいから、オリンピックに出られるかは、完全に全日本一発での賭けになるわ。……あんた、本当に、あんたの可愛い可愛い榛名を、そんな賭けに一人で挑ませるつもり?」
探るような目つきに、槻木は思わず一瞬だけ怯んだ。可愛い可愛い、という表現に誇張はなく、槻木はたしかに榛名のことが、可愛くて可愛くてしかたがないのだ。
一瞬だけ、リンクに立つ榛名が、心細い目でリンクサイドの槻木を探す情景を幻視する。けれどもそれを振り払って、槻木は頷いた。
「はい」
そんなのはきっと槻木の都合のいい幻想で、現実の榛名は槻木のことなんて忘れて、ひとりリンクで笑うのだろう。
「榛名はもう、あの日よりも強い翼を手にしたはずだ。俺はそれを知ってるし、そう、信じているんです」




