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桜が咲いている。
駅からスケートリンクへと続く、一面の桜並木。まさに春爛漫、満開に咲く桜の花を眺めながら、榛名はほうっと息を吐いた。
(春は、嫌いだ)
雪が溶けて氷が溶けて、榛名に掛かった魔法も一緒に溶けてしまう。
フィギュアスケートのシーズンは秋から冬──より正確に言えば、九月から三月までだ。多くの人びとにとってのはじまりの季節は、榛名にとっては終わりの季節だった。
だから榛名はこの時期、毎日通る道に咲き誇る桜の花が、ちっとも綺麗だとは思えなかった。
(……った、けど)
今榛名の目に映る桜は、真っ白いリンクの氷みたいに目に眩しくて、ほんのすこし寂しくて――うつくしい。榛名は足を止めてしばし、その桜並木を見つめた。
(今、わたしは、ほっとしてる。確かに)
春が来たことを、シーズンが終わったことを、榛名は確かに喜んでいる。その安堵の裏にべったりとこびりついた罪悪感が、榛名の脚を道の上へと縫い止めた。
肩に下げた鞄の中に入っているスケート靴の重みが、ずっしりと榛名にのしかかってくるようだった。
脳裏に舞い踊るのは銀盤の上ではなくて、スポーツ紙の、ワイドショーの、ネットニュースの見出しばかりだ。
『氷上の天使――失われた翼』
『榛名、四回転転倒! 世界選手権へは白神妹が出場へ』
『四回転女王の復活はあるのか』
誰もが予想していなかったシニア一年目でのオリンピック出場からの、銀メダル獲得。その、翌シーズン。
報道の加熱に反比例するように、榛名の成績は落ち込んだ。初戦のスケート・アメリカでの四回転転倒が契機だったのか否か、榛名のジャンプは昨シーズンが嘘のように成功率を落とし、四回転どころか得意のトリプルルッツジャンプも精細を欠くような有り様だった。
結果、グランプリ・ファイナルへの出場権を逃したのは勿論のこと、全日本選手権での結果が四位に終わったことで世界選手権への出場も逃した。四大陸選手権への派遣は決定したものの、途中棄権という結果に終わった。
昨シーズンと比べるまでもない成績に終わった榛名に対する世間の視線は、当然、暖かいものではありえない。これで世界選手権に出場した三人が来期の三枠を獲得できていなければ、榛名の失態は日本の女子シングル全体の低迷とすら揶揄されるような出来事となっていただろう。
(氷の上が、好きだった)
榛名がスケートを始めたのは、父親の仕事の関係で、カナダに住んでいた頃のことだ。日本人の子どもも多く通っているからと連れて行かれたスケートリンクで、榛名はあっさりと氷上の虜になった。
それからもう、十年だ。
(滑りたくないなんて……思ったこと、なかった)
父親の任期が終わって日本に戻ってきてからも、スケートを辞める選択肢はなかった。運良く環境に恵まれて、学校よりもスケートリンクに通うほうが楽しい日々を、ずっとずっと続けてきた。薦められるままに大会に出て、勝負の世界に上がってからも、榛名は練習の日々に辛さを感じたことがなかったのだ。
(でも、去年は、……一年、ずっと、苦しくて)
ざあっ、と、強く、風が吹く。
(フリーの曲目は、『ムーラン・ルージュ』。オリンピックの『火の鳥』から、イメージを一新したほうが良いって言われた。大人っぽさを出していかないといけないって……それと勿論、四回転。絶対に後続の選手が出てくるから、成功率を上げないといけない。トリプルアクセルにも挑戦して……)
思い起こすたびに沸き上がってくる重さに耐えかねて、榛名はとすんと肩から鞄を落とした。流れる桜の白さに目眩がして、一歩前に踏み出すどころか、結局榛名はその場にしゃがみこんでしまう。
(……どうして跳べないのか、わかんなかった)
スケート・アメリカ。
あの日まで、いつもどおりだったはずなのだ。ムーラン・ルージュのヒロインを模した、露出の高い真っ赤な衣装が似合っている自信はなかったけれど、ジャンプの仕上がりだけは悪くなかった。そうして最初の、四回転トゥループ。
後から映像で確認しても、どうして転んだのか、わからなかった。
榛名は一瞬氷の上で呆然としてしまって、音楽に急き立てられるように慌てて立ち上がってからも、ちっとも冷静さを取り戻すことが出来なかった。続くトリプルルッツはコンビネーションジャンプのはずが単独になって、そこからもう、榛名の記憶は真っ白だ。
(『何が起きたのか、わかりません』だなんて、いくら混乱してたからって、インタビューに答えるには最悪だ。あんな真っ青な顔で、そりゃあ誰だって不調だって書きたくなるし、……次のインタビューでは、『四回転跳びますか』って聞きたくなる。……ああいうのを、きっと、悪循環って言うんだろう)
一度崩れた調子を立て直す方法が、榛名にはちっともわからなかった。不調というものを、経験したことがなかったからだ。四回転にチャレンジするかと尋ねられれば頷くしかなかった。コーチの東山は四回転を外した構成にしようと散々薦めてくれたけれど、もう、榛名には、跳ばないことのほうが恐ろしかったのだ。
(そしてわたしはもう、……すっかり、跳び方を、忘れてしまった)
跳べば跳ぶほど、空から遠ざかっていくような気がした。自分が何を恐れているかもわからないまま、氷の上が怖くて、試合になるたびに脚が竦んで震えた。
怪我のせい、と公表されている途中棄権の、実際のところの原因は心因性のものだ。榛名の身体は完全に氷の上を拒否していて、あれからもう、二ヶ月。
(もう二ヶ月、氷の上に乗ってない。そして多分、今日、東山さんはわたしに言うんだろう)
もう体の何処にも、不調なんて存在していない。それでもコーチである東山が強く言うから氷から離れて、そうして一月前、丁度世界選手権の頃。
東山に断りもなくこっそり尋ねた、見慣れたホームリンクのリンクサイドで、氷に乗る前に榛名は倒れた。
(それで、わたしは、きっと)
きっと、もう二度と、氷の上に戻れない。
恐ろしい想像から逃げるように、ぎゅう、と、きつく目を閉じた瞬間に――その声は、上から降ってきた。
「……何をしている?」
心配と呆れとを、半々に含んだ声だった。
同時に何か、頭の上にふわりとした暖かさを感じる。ぽん、と軽い衝撃が弾けて、撫でられていることに気がついた。慌てて顔を上げて前を見て、前には何もなかったから横を見て、榛名はぽかんと目を見開く。
「……え」
二回瞬いて、それでもまだ信じられない。
榛名の表情が、余程おかしかったのだろう。視線の先の人は小さく吹き出して、「何て顔だ」と言って笑った。
「幽霊かなにかか、俺は」
「だ、だって」
幽霊のほうがきっと、まだ驚いたりしなかった。「なんで」と尋ねる声は裏返って、けれどもそんなことを気にする余裕は欠片も残っていない。大きな目をまん丸く見開いて、どれだけ見なおしたところで変わらない整った相貌、確かに見知っている顔に向かって、榛名は叫んだ。
「なんで、ここに居るんですか、――槻木さん!」
かつて、日本男子シングルを背負って立つスケーターと目された男──槻木将一が、当時のままの美しい姿で、榛名の前に、立っていた。
「なんで、と言われても。リンクに行くんだろう? 俺もだよ」
「……え」
ついさっきまで泣きそうだったことなんて、すっかり頭から吹き飛んでいた。
榛名のひっくり返った声に対して、槻木将一はかつてテレビで良く見せていた爽やかな微笑みとともに応じる。当然のように言われた言葉の意味がよくわからなくて、榛名はひたすら混乱した。
槻木将一は、榛名雪にとって、ホームリンクの二年先輩にあたるスケーターである。
最高成績はシニア初年の、世界選手権での五位入賞。高いスケーティングスキルと四回転トゥループ、そして東洋美の具現とまで言われた美しい容姿──長い手足とシンメトリーに整った美しい顔──を武器に、いずれは表彰台に乗ることを確実視されていた。
――といっても、今となっては全てに「だった」と過去形をつけたほうが正しい選手でもあった。
槻木は榛名がシニアに上がる前の年の世界選手権での転倒により、足首を怪我し、翌年──オリンピック・シーズンの復帰を断念。以降はこのホームリンクで見かけることもなくなり、競技を引退した、と風の噂で聞いた。
(……ん、だけど)
ぽかんと槻木を見上げる榛名にやたら芝居がかった所作で手を差し出し、おずおずとその手に手を伸ばすと、きゅっと握って優しく榛名を立ち上がらせる。そうして本当になんでもないことみたいに手を引いて、槻木は榛名に、あんなに恐れていたホームリンクの門を潜らせた。
握られたままの手をどうすることも出来ずに、榛名はちらりと槻木の横顔に視線を投げる。
(いや、『きれいな顔』は、過去形じゃないか。……どうして、ここに居るんだろう?)
少年の名残を削り落として、槻木の美しさは一層磨き上げられたようだった。服越しにもわかる程度には筋肉がついた身体も、現役時代以上に作り込まれているように見える。視線を感じたのか、槻木は「どうした?」と首を傾けて榛名を見た。
「い、いえ」
慌ててぱっと視線を逸らすと、繋がれたままの手が目に入ってきて動転する。ひとりであたふたとする榛名を気にもとめずに、槻木は榛名の手を引いたまま、入り口の自動扉を潜った。
今まで何をしていたのか、どうしてここにいるのか、もしかして競技に復帰するのか──聞くことはいくらでもあるはずなのに、どれひとつとして、榛名の口から出ていくことはない。混乱したままにロビーを通り抜け、榛名はきゅっと唇を結んだ。
母親から伝え聞いた打ち合わせ場所は、一回にある小さな会議室だ。
此処まで来てしまった以上、腹をくくるより他にない。そう己に言い聞かせながら「それじゃあ」と言いかけた榛名の手を、けれども槻木は離さなかった。
「……へ?」
きょとんと見上げても、槻木はにこにこと笑うばかりだ。そうして槻木は榛名を半ば引っ張るように、欠片の躊躇いもなく榛名が目指していた会議室へと進んでいく。
「え、ちょっと待って、槻木さん!」
心の準備が! と叫んだところで、迷いのない背中はちっとも聞いてくれなかった。何が起きているのか全くわからないままの榛名の前で、無情に扉が開かれる。
「ああ、やっと来た。遅すぎるわよ、あんたたち!」
そうして中から飛んできた第一声は、予想通りの大きな罵声だった。
榛名は思わず槻木の後ろに隠れるみたいに縮こまり、それから、ぱちりと目を瞬く。
(……今、東山さん、なんて言った?)
榛名の予想が正しければ、部屋にいるのは今怒鳴り声を上げた女性──サブコーチである東山鈴と、もうひとり、メインコーチである広澤勇気のはずだった。そしてふたりが呼んだのは、当然、教え子である榛名ひとりのはずだ。
そのはずなのだ。
(なのに、あんた『たち』って。それじゃあまるで)
混乱する榛名の手を握ったまま、朗らかな声で槻木が言う。
「すみません。外の桜があまりに美しくて、少し見惚れてしまっていて。代わりにちゃんと拾ってきたので、それでよしとしてくれませんか?」
「いいわけないでしょ。そうやってヘラヘラしてれば、全ての女が言うことを聞くとでも思ってるの? ……榛名も、隠れてないで出てきなさい!」
「はっ、はいっ!」
東山は、榛名がジュニア時代からずっと師事しているコーチである。すっかり躾けられた体が先に反応して、慌てて榛名は槻木の後ろから飛び出した。
東山の顔を見る前に頭を下げると、喉から、口から、考えるより前に言葉が溢れ出す。
「す、」
頭が真っ白になって、心臓がばくばくして、目元がじわっと熱くなって目を瞑った。
「すみません、でした!」
言わなければ言わなければと、思ったまま抱えてきた言葉だ。榛名の声が響いた部屋はしんと静まり返り、榛名はああ怒られる、と体を硬くする。
ふっ、と、東山が息を吐く音が聞こえた。
「……榛名。それは、何に対する謝罪?」
静かに問われると、ノービスの頃に戻ったような気持ちになる。縮こまる榛名に向けて、東山は続けた。
「今遅刻してきたこと? 私からの電話に出なかったことか、それとも、籠城して門前払いを食らわせたこと?」
東山の言う全てについて榛名は謝る必要があって、けれども今の榛名の謝罪は、そのどれに対するものでもない。咄嗟に首を振った榛名の頭に、東山はそっと大きな手のひらをのせた。
「……もしあんたのそれが、四大陸のことについてなら、それは必要ない。誰も、怒ってなんかいない。そうよね、広澤?」
ぐしゃぐしゃと髪を撫でられて、榛名の目からひと粒だけ、ぽたりと涙が床に落ちた。そうして東山の手が離れると同時に、低い声が問いに答える。
「無論だ」
じんわりと、榛名の耳から体にしみとおるような感じがした。
「顔を上げろ、榛名。お前はよく戦った」
そんなことは、ない。
いくら信頼している広澤が言おうとも、今はどうしてもその言葉が信じられない。顔を上げられなくて、再び落ちた沈黙の中――榛名は己の手が、ぎゅっ、と強く握られるのを感じた。
繋いだままだったのだ、と、その痛みで思い出す。
「榛名」
熱い手の持ち主に、促すように優しく呼ばれる。ただそれだけだったのに、魔法にかけられたみたいに、榛名の上半身が持ち上がる。最初に目に入ったのは東山の苦笑で、次に奥の椅子に座ったままの広澤の無表情が見えて、ああ、と榛名は目が覚めるような気持ちになる。
(……いつもの、景色だ)
まるで、なんにも変わってないみたいな光景だった。ほんの少しだけ体の力が抜けて、思わずほうっと息を吐く。そんな榛名の顔を真っ直ぐに見据えて、広澤はいつもの無表情で口を開いた。
「榛名雪」
フルネームで呼ぶのは、改まった時だけだ。体がもう一度ぴりっと固まって、何事かと固唾を飲む榛名に向かって、広澤は淡々とした声音で言った。
「突然だが。お前には今期、そこにいる槻木とペアを組んで――アイスダンスの選手として、エントリーして貰いたい」