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わたしのファントム  作者: 逢坂景
第三章
19/24

3-7

 本来であればシーズンを締めくくるはずの世界選手権を終えても、榛名と槻木は一休みというわけにはいかなかった。国別対抗戦が開催されるためだ。

 シングルが男女二人ずつ、ペアとアイスダンスが一組ずつ参加するこの試合は元々お祭り色の強いものではあったが、オリンピック種目のひとつとなったことで近年注目度が増している。


 出場選手も世界ランキング上位から選出するのが一般的で、男女シングルは白神兄妹ともうひとりずつが指名され、榛名と槻木、桃井と山中も当然出場の運びとなった。今まではペア競技の弱さが指摘されてきた日本勢がこれでメダルを狙えるのではないかと、報道は既にお祭り騒ぎだ。


 現在、男子シングルとアイスダンスの両競技が終了し、迎えた三日目。本日のペアと女子シングルのフリーをもって、順位が確定することとなる。

 現段階で、日本勢はメダル圏内である二位の位置につけていた。榛名と槻木は六組中ショート四位、フリーは三位の好成績でチームに貢献し、あとは仲間の健闘を見守るばかりである。


「……で、騒ぐだけ騒いで、ダメだったらペア競技が弱いからとか言うんですよね。知ってる」


 とは言え榛名のマスコミ不信は、お祭りムードに流されない程度には根深いものだ。こそっと呟く榛名の頭をぽんぽん撫でて、槻木は笑った。


「カメラの前で可愛くない顔をするな。俺たちは十分やったさ。あとはただ楽しめばいい」

「そもそも可愛くない顔ですもん」

「お前、俺の天使に向かって何を言う」


 国別対抗戦は通常の試合と違い、キス・アンド・クライではなく『応援席』というものが存在している。桃井の提案で何故か全員猫耳カチューシャにふかふかの肉球をつけて、皆はペアのフリー演技を見守っていた。

 桃井と山中の武器は、シングルの選手顔負けのジャンプの実力だ。冒頭のトリプルルッツが決まると、会場からは大きな歓声が上がる。榛名は先程までの不機嫌も忘れて、思わず大きく手を叩いた。


「すごい! 全日本では手をついてたとこなのに、随分綺麗に決まりましたね!」

「流れに乗ったな。良く滑れてる」

「普段は喧嘩ばっかりなのに」

「きっとそれはそれで、息があっているんだろう」


 途中のサルコウで桃井が両足着氷となり、スピンで山中に少し乱れが出たが、そのあとに続いたステップでは勢いが落ちていない。最後のスロージャンプでは着氷に乱れが出たもののどうにか転倒はこらえて、フィニッシュに合わせて榛名は思わず立ち上がって手を叩いた。


「すごい! すごかったですね槻木さん!!」

「ああ。もしかしたら、世界選よりも良い点数が出るかもしれないぞ」


 槻木の声も少しばかり興奮していて、ヒュウ、と一夏が口笛を吹いた。

 キス・アンド・クライではなく応援席で点数発表を聞くことになる国別対抗戦では、滑り終わった選手は直ぐに応援席にやってくる。充実感に溢れる笑みを浮かべて戻ってきた二人を、皆は拍手とともに出迎えた。


「ちょっとスピンズレちゃったかな。誰かさんのせいで!」

「そういうお前だってサルコウで両足だったろ!」

「はは、戻ってきて直ぐに喧嘩か」


 息があっているのは氷の上だけのようだ、と槻木が笑って言う前で、榛名が桃井にぎゅうと抱きつく。一夏が山中の肩を叩いて二人の健闘を讃えている間に、放送が流れた。


「演技構成点……パーソナルベスト更新だ!」


 山中が、思わず、といったように桃井を抱き寄せる。桃井は「ぎゃっ」と声を上げて一瞬抵抗するように山中の肩を掴んだが、秋穂にこっそりと「カメラ! カメラ入ってるから!」と囁かれ、諦めたように山中の背に手を回した。


「……感動しいなんだから、ほんと」


 ぽんぽん、宥めるみたいに桃井が山中の背中を叩く。その様子になんだかじんとしてしまった榛名の隣で、「負けてられないな」と秋穂が呟く。

 最後、勝負の女子フリーを担うのは、白神秋穂だ。榛名はそっと、カメラから見えないように秋穂の手を握ると、秋穂はぎゅっとその手を握り返してくれた。




 * * *




 国別対抗戦は、日本の銀メダルで幕を下ろした。

 長いシーズンが、やっとのことで終わりを告げる。とは言えもう四月も終わり、来シーズンのはじまりは五ヶ月後に迫っていた。皆の目にはちっとも終わりの穏やかさは宿っていなくて、全ての眼差しが次を見据えているのがわかった。


 オリンピック・シーズン。


 四年に一度の祭典まで、もう、一年もないのだ。前のオリンピックが遠い昔に思える、と思いながら、リンクサイドの壁に寄りかかって榛名は尋ねた。


「槻木さん。話って、何ですか?」


 突然夜に呼び出されて、こっそりと忍び込んだホームリンク。

 最小限の照明だけを灯したそこはまるで何かの舞台のようで、普段着でスケート靴だけを履き替えた榛名の前で、同じく普段着のジャケット姿の槻木がくるりとターンした。ごく普通の格好でも、つくづく絵になる男だ。榛名の問には答えず、滑りながら榛名に向かって手を伸ばして、槻木は言った。


「話、……の前に、ちょっと、滑ろうか」


 そう言われてしまえば、断ることなど出来ない榛名である。氷を蹴って手を伸ばすと、槻木はあっさりと榛名の掌を捕まえた。いつものウォーミングアップのように流していると、槻木が唐突に歌い始める。

 聞き覚えがある曲だ。――そう、これは、桃井と山中の。


「覚えてるか? 桃井と山中の、フリーの曲」

「はい。槻木さん、歌あんま上手くないんですね」

「な、……違う、今はそんなことはどうでもいいんだ。振りも覚えているか? 最初の、トリプルルッツのところまで」

「え?」


 突然の問に、榛名は小さく目を瞬く。槻木はごく自然に微笑んでいて、わけがわからぬまま榛名は頷いた。


「覚えてますけど」

「あれ、やってみないか」

「……え?」

「お前、あれを見て、ずいぶんとはしゃいでいたようだったから」


 そうだった、だろうか。榛名は目を瞬いて槻木を見上げ、槻木の思いの外真剣な眼差しに少し竦んだような心地になる。微かに手に力がこもったのと同時に槻木がふっと表情を悪戯に和らげて、「流石にスロージャンプや高いリフトは無理だが」と笑った。


「山中くんはあんなに細いのに、随分力があるよな」

「桃井さんがちっちゃくて軽いからじゃないですかね。体重聞いたらびっくりすると思いますよ!」

「そうか。……桃井くんがペアに転向したのは、そのあたりの理由もあるのかもしれないな」


 桃井の身長は百五十センチにも満たないぐらいで、最近は身長も手足も長い選手が増えてきた女子シングル界ではどうしても見栄えで劣る。


(それでも)


 榛名は、国別対抗戦での桃井と山中の演技を思い起こした。


(あんな演技が出来る相手がずっと隣りにいて、カップルを組める幸運があった。……全ての要素は、収まるべきところに収まるためにそうなってるんだ)


 例えば榛名と槻木が、今こうして手を繋いでいるように。最近の榛名はそういう運命みたいなものをすっかりと信じていて、榛名はそうっと口を開いた。

 先ほど槻木が歌っていたのと同じ、桃井と山中のフリーの滑り出し。槻木よりは多分いくらかマシなはずの調子で歌って、思い出しながら切ったターンはぴったりと槻木と重なった。

 つないでいた手が自然と離れて、助走は身体が覚えていた。そうして最初の盛り上がりとともに、榛名はエッジで氷を蹴る。エッジの判定が厳しくなっているから踏切は正確に、と、意識出来たのはそこまでだった。



 ――二年前が嘘のようにあっさりと、重力は榛名の身体を手放す。



(跳べ、た?)


 榛名の身体は、浮き上がって宙を回る。一回、二回、三回きちんと回りきって着氷したときにはあっけなさすらあって、榛名はランディングとともにちょっと呆けた。


(……跳べた。二年、全然跳んでなかったのに)


 身体が覚えている、というだけではないような気がした。榛名の身体は、跳ぶために存在したのだ。子供の頃と同じ、いくらでも跳んでいられると身体が歓ぶ感覚が奥底から沸き上がってくるようで、榛名はその久々の感覚に馴染めずに呆然と氷の上を滑る。途方に暮れてすがるように見た先で、槻木はもう脚を止め、榛名を真っ直ぐに見据えていた。


「榛名」


 槻木は、穏やかに微笑んだままで言った。その笑顔は変わらず美しいのに、どうしてか榛名はぞっとするような、底冷えする感覚を得て怯える。そうして榛名の怯えに正しく答えて、槻木はあくまでもやさしく、柔らかく、榛名に言った。



「――カップルを、解消しよう」



 この日が、いつか、来ることを。

 榛名は、ほんとうは、気づいていたはずだったのだ。





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