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わたしのファントム  作者: 逢坂景
第三章
18/24

3-6

 三月下旬、ヘルシンキ空港。

 榛名はきょろきょろとあたりを見回し、直ぐに目当ての姿を見つけて「槻木さん!」と大きな声を上げた。槻木は手元のスマートフォンから視線を上げて、榛名を認めると優しく顔を綻ばせる。


「榛名!」


 そうして広げられた手に、榛名は躊躇わずに飛び込んだ。

 槻木の手が榛名の腰に周り、まるで氷の上に居る時と同じように軽々と榛名を抱き上げる。


「無事着いて良かった。体調はどうだ? 飛行機の中では、よく眠れたか?」


 そのまま榛名をくるくる振り回してしまいそうな様子で、槻木が尋ねる。榛名は「ばっちりです!」と答えて、それから「……あ」と気付いて視線を後ろに向けた。


「いやー、……仲良さそうで、何よりね」


 なんとも所在なげに後ろに立っていたのは、榛名と同じ便でヘルシンキに着いた、ペア日本代表の二人である。急に居心地の悪さを感じてわたわたとする榛名をしっかり抱きとめたまま、槻木は「ああ」と朗らかな声を上げる。


「ふたりも、元気そうだな。コーチたちは?」

「荷物受け取りに手間取ってるみたいで、まだ」

「そうか。じゃあ、此処で待とうか」


 榛名は本来であれば昨日、槻木を始めとしたホームリンクの面々とともに現地入りするはずだった。けれども大学の事情で日程に無理が生じ、一日遅い現地入りをする予定だった桃井たちペアの面々に同行させて貰ったのである。己を抱き上げたまま会話をする槻木の腕を、榛名はぺしぺしと軽く叩いた。


「うん?」

「お、下ろしてください」

「ああ、悪い」


 気付けば桃井とそのパートナーの山中からだけでなく、一般の客からもちらちらと視線が向けられている。槻木はそっと榛名を下ろして、榛名はわけもなくニット帽の位置を直しながら槻木から視線を逸らした。


「ほんっとーに仲いいのね。ウチとは大違い」

「は? お前、されたいのかアレ」

「いや全然」


 だろうな、と山中が肩をすくめて、榛名はますます居た堪れないような気分になる。この調子じゃあ、普段歩くときも手をつないでいるだなんて言ったら、天然記念物でも見るような顔をされてしまうに違いない。そう思っていたところで「待たせたな」とコーチ陣が姿を表した。 「これで全員だな。連盟がバスを借りてくれているんだ、行こうか」


「ああ」


 というかそれなら槻木が迎えに来る必要もなかったんじゃ、と思っていたら、「槻木は随分とパートナーに過保護だな」とコーチが笑った。


「そうですか? 普通のことしかしていませんよ」

「それを普通と言っては、うちの山中が困るだろう……ほら、今だって」


 槻木の左手はごく自然に榛名の手の中にあった大きなスーツケースを引いて、もう片手は当たり前みたいに榛名に向かって伸ばされている。先程思ったこともすっかり忘れてその手を握ろうとしていた榛名は、気がついてはっと手を引っ込めた。


「わ、わたし、一人で歩けます!」

「うん? そうか」

「荷物も持てます!」

「いや、それぐらいはやらせてくれ」


 というやりとりに、コーチ陣が微笑ましそうに笑う。桃井と山中は「アレやれって言われたらどうする」「っていうか荷物ぐらい持ってよ、無駄におっきいんだから」「ムダって言い草はないだろう」と何故か一触即発になっていて――というのをぐるりと見渡してから、榛名は槻木に視線を戻す。


「行こうか」


 槻木はにこにこと、ただ榛名がそこにいることが嬉しい、とでも言いたげに笑っている。


「……はい」


 なんだか力が抜けてしまって、榛名は頷いて結局槻木の手を握った。

 世界選手権。

 今期の締めくくりとなる、また、オリンピックシーズンたる来期の枠を掛けた争いが、始まろうとしていた。




 * * *




「……っていうか、あれで付き合ってないの? ほんとに?」

「へ?」


 国際大会では、試合後にバンケットが開かれる。

 選手や関係者が皆ドレスアップした空間は試合とは別の華やかさがあるが、未成年である榛名と秋穂、そして成年済とはいえアルコールを嗜まないらしい桃井はそう長居することもなく会場を辞し、桃井の部屋でこっそりと二次会を催していた。


 世界選手権の結果は、これ以上ないものだった。


 シングルは男女ともにメダルを獲得、来年のオリンピックでの三枠を確定させ、榛名達は目標の十位にぎりぎり滑りこんでオリンピックの二枠を、桃井達のペアも一枠を確定させている。多少浮かれ気分になるのも無理は無く、部屋の中には売店で購入してきたジュースや菓子が並んでいた。先ほどの立食でも十分詰め込んできたが、今日ばかりは無礼講といったところだろう。

 そうしてベッドに腰掛けて、いきなり肩を掴まれて、大声で言われた言葉に榛名はきょとんと目を瞬いた。


「付き合ってる、って?」


 榛名の返しに桃井は絶望したような顔をして、秋穂がため息をついて「諦めましょうよ」と言う。


「付き合ってないんですって。あれで、本当に、マジで。一夏くんも言ってたもん」

「いや、だって……目の当たりにすると信じられないでしょこんなの。空港でいきなり抱き合って? 朝から晩までずーっといっしょで? 移動するときはずっと手を繋いでて? そんで今日のバンケットでも、あの人ちっとも榛名から離れなかったじゃない! 部屋戻るって言ってもちっとも安心してない顔で! いくらカップルって言っても限界があるでしょ!」

「でも、それが槻木さんの通常運転なんですよね」


 秋穂が呆れたように肩を竦めて榛名を見遣り、榛名は「ええと」と困惑するしか無い。


「通常運転ですし、付き合ってないものは付き合ってないです。なんていうか、……多分ですけど、槻木さんにとってのわたしは、手のかかる妹みたいな感じなんですよ」

「いやいや。一夏くんもだいぶ過保護だけどあそこまでじゃないし、私だって一夏くんのこと大好きだけど、普段から手を繋いだりなんてしませんよ。ていうか、榛名さんは槻木さんのこと好きでしょう?」


 そうして投下された爆弾に、榛名は飲んでいたジュースを思いっきり吹き零す羽目になった。


「え」

「へ?」


 秋穂がきょとんと目をまたたき、榛名はみるみるうちに真っ赤になってしまって、それを見た秋穂が「ええっ」と愕然とした声を上げる。


「否定される気満々だったのに……榛名さん、ちゃんと自覚してたんですね!?」

「え、……待って、ちょっと待って。秋穂、いつから気づいてたの?」

「いやこっちの台詞ですよ。一体いつ自覚したんですか?」


 秋穂がずいと身を乗り出して、至近距離で榛名の目を見つめる。


「去年は全然そんな素振りなかったですよね? あ、夜坂さんが来てからですか? 嫉妬みたいな?」

「いやそういうんじゃ、っていうか秋穂、なんでそんなに詳しいの?」

「一夏くんから色々聞いてるんです!」

「それつまり槻木さん経由でってことだよね!?」


 槻木は一夏に一体なにを話しているのか、考えるだに恐ろしい。榛名は深く深呼吸をして、「いつっていうか」と曖昧に答えた。


「……ずっと、好きだったんだよ。シングルの頃から、……あんまり、話したことはなかったけど」


 そのブレード音を子守唄にし、うつくしい滑りに憧れていた頃から、榛名はきっと、ずっと槻木が好きだった。けれどもその逃げを許さずに、秋穂がきゅっと眉を寄せる。


「そういうんじゃなくて。あるんでしょう? そのぼんやりした『好き』が、ちゃんとした恋になった瞬間が」

「……は、恥ずかしいこと言うね、秋穂」

「誤魔化さない!」

「うっ」


 秋穂の表情は真剣で、単なる野次馬以上のものを榛名に感じさせた。多分きっと、おそらく、ものすごくやきもきさせていたのだ。そう思えば申し訳ない気持ちにもなり、榛名は仕方なく口を開く。


「じゃあ、言うけど、……でも、やっぱり、最初からですよ。一緒にアイスダンスをするって決めた日。あの日わたしは、槻木さんに魔法をかけられたんです」


 槻木はその魔法の名前を『アイスダンス』だと言ったけれど、今の榛名は、それが間違っていることを知っている。


「滑れなかったわたしを、滑れるようにしてくれた魔法。わたしのことをわたしよりも知っていて、わたしよりも大切にしてくれるひとが、きっと意図せず、わたしに掛けてしまった魔法。『オペラ座』を演ることになって、わたしはその魔法の名前に気が付いたんです」


 恋という名の、盲目の呪い。秋穂は黙って榛名の言葉を聞いていて、──それから、「ああ」と、納得したような声を上げた。


「だから、……だからなんですか? 榛名さんと槻木さんの『オペラ座』は、普通と少し解釈が違う。榛名さんのクリスティーヌは、ファントムに恋してるみたいに見える……あれはつまり、榛名さんの解釈だったんですか!」

「うん」


 伝わるようにと願って演じたけれど、伝わっているとわかると少し気恥ずかしい。


「一夏さんには言わないでね? あのプログラムのシナリオ、わたしが夜坂さんにお願いしたの。夜坂さんは『そういう解釈も成り立つわね』って笑って、わたしの願いを叶えてくれた」


 内緒、と口元に人差し指をあてて榛名は笑い、秋穂は微かな困惑を宿して眉を寄せる。その隣で桃井が「なるほど」と小さく息を吐き、まるで感じ入るみたいに頷いた。


「そういうことだったのね。……それなら、ええ、わかるわ。あれを見たらすぐにわかる。誰だってわかるでしょう。クリスティーヌは、ファントムを愛してる」


 榛名の、――そしてクリスティーヌの、決して届かない恋を、わかってくれる人がいてよかった。


「あ、でも、勿論、氷の上ではちゃんと演技でやってますけど!」

「それにしたって、自分が表現したいものを、心から理解してるかしてないかで大違いでしょ。……そうか」


 桃井が榛名を見て、いやにしみじみとした口調で言う。


「槻木さんは」


 そうして、榛名に向けて優しく笑った。


「あなたに、スケートだけじゃない色んなものを、教えてくれる人なのね」


(お導きください、私の先生(マイ・マスター)


 榛名の頭に、歌が響く。確かに槻木は榛名の先生で、そして、それ以上ではない。「はい」と榛名が頷いてなんだかしみじみとした空気になったところで、桃井が「……って!」と気付いたように目を瞬く。


「ちょっと待って、なんでそれで、『いい話だったなー』みたいな空気になっちゃうの。榛名が槻木さんのこと好きで、それならますます、なんで、付き合ってないのかって話になるでしょ普通は!」

「なんで、って。それは、槻木さんがわたしのこと好きじゃないから……?」


 榛名が槻木のことを好きでも、恋愛は二人の問題だ。何をあたりまえのことを、という口調で言った榛名に対して、秋穂が「へっ!?」と大声を出した。


「榛名さん、それ本気で言ってるんですか!?」

「ちょ、待って榛名、あなたまた変な誤解してるでしょう。どうして槻木さんが、あなたのこと好きじゃないだなんて言い切れるの」


 桃井が慌てた様子で問うてくるのに、榛名はただ不思議な気持ちになるばかりだ。むしろ、どうして。


「っていうかどうして、みんな、槻木さんがわたしのこと好きだって思うんですか」

「いや一目瞭然だから!」

「流石に槻木さんが可哀想ですよそれは!」


 どうしてみんな、取り違えてしまうのだろう。榛名はすっかり困り果ててしまって、眉を下げて口を開いた。


「誤解をしてるのは、みんなのほうじゃないですか? 槻木さんはたしかに、わたしのことがすごく、大事なんだと思うけど」


 槻木の手はいつだって優しくて、ありとあらゆるものから、榛名を守ろうとしてくれる。


「でも、それって、わたしが好きってこととは違うんです。槻木さんはただわたしが大事で、わたしが……滑り続けることを、願ってる」

「……どうして、そう思うの?」


 桃井が、悲しそうな声で榛名に尋ねる。それにちょっと笑って見せて、榛名は答えた。


「わかりますよ」


 天使、と。

 夢見るみたいに、槻木は榛名をそう称した。


「ずっと、隣りにいるんですもん」


 槻木にとっての榛名はきっと、あの日ひとつの恩返しにと、守り庇護する対象なのだろう。ただ優しさしかない手がそれを証明している。

 榛名の言葉にふたりはまだ納得していない顔をしていたけれど、桃井がそれ以上の追求を止めるように「そう」と一つ頷いて、この話は終わりとなったのだった。




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