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わたしのファントム  作者: 逢坂景
第三章
17/24

3-5


 ──オルゴールの音色が、目覚めを誘う。


 真白い氷の上にふうわりと広がったドレスは薄桃色。胸元に白い薔薇を模した飾りが幾つも飾られ、ほんの少し毛先にウエーブを掛けた髪には小花が散りばめられて、すっかり歌姫の装いのままに、クリスティーヌはファントムの腕の中で眠っていた。


 穏やかな目覚め。むき出しの真っ白い腕がゆるりと掲げられ、ファントムがその手を優しくとって、二人は流れるように滑りだす。オルゴールの音はまだ止まない。マスカレード、此処は仮面の洪水、マスカレード……ファントムとクリスティーヌは向かい合わせで、クリスティーヌはまだ夢を見ている。


 その夢を覚ます、音が鳴る。


 舞台を一気にオペラ座へと塗り替えるメインテーマ、その序曲。クリスティーヌの脚が高く弧を描いて、ファントムの腕でその背へと誘われる。その肩に仰向けにクリスティーヌの白い脚が、ドレスに入ったスリットの合間から高く掲げられる――ダイナミックなロングリフト。


 クリスティーヌは夢見るように両手を上に掲げ、顔をなぞるようにしながら下し、同時にファントムがその腰に手を回してくるりと下し、弄ぶように腰の高さで一回転した後に着氷。メインテーマはまだ鳴り止まず、息つく間もなくコンビネーションスピンへと移行していく間に、氷上はすっかりとファントム・ジ・オペラの空間に移り変わっていた。



『冒頭のクリスティーヌはまだ、夢の中にいる。だからクリスティーヌは身を委ねる――彼女の友達であり、理解者であり、父親であり――ありとあらゆる、世界の全てだった。そんな相手を拒む理由はどこにもない。クリスティーヌは少女の顔で、父親の幻想を見つめてる』



 けれども――クリスティーヌの手がファントムの顔、左側を払いのけるようにふわりと動いた。



『クリスティーヌは夢から醒める。この世のものとは思えぬようなファントムの顔を見て、クリスティーヌは怯える』



 前半のステップ。引き寄せようとするファントムと抗おうとするクリスティーヌの、悲しい追いかけっこはけれど、一度としてファントムの手を振り払うことが出来ずに終わる。ファントムの腕の中で、クリスティーヌは俯いて動きを止めて――音楽が、切り替わる。



『彼女は怯えて……でも、ねえ、本当は、逃げられないことを知っているんでしょう? だって彼女は、ファントムの目に宿るものを見てしまった。それをひと目見てしまったら、どうあがいたってファントムを愛さざるをえないようなもの』




 ――Point of No Return(もう、戻れない).




『……ねえ夜坂さん、わたしはやっぱり、ファントムと触れ合った舞台の上で、クリスティーヌは確かに選んだんだと思うんです』



 絡みあうような音楽に乗せて、クリスティーヌはファントムに手を伸ばす。身を委ねる形でのシットスピンから、官能的なステップへの流れは明らかに前半とは違う――クリスティーヌの腕が確かに、ファントムを求めていることがわかるものになっている。



『悲しみと孤独、絶望と、憧れ。……夜坂さん、自分が悲しみと絶望に沈んでいた時に、優しく声を掛けてくれた【音楽の天使】のそんな顔を見て、一体誰が』



(此処に来たからにはもう――後戻りはできない)



『――誰が、愛さずに居られるって言うんでしょう』



 雪ちゃん、と。

 あのとき夜坂は、気圧されたように目を見開いた。



『夜坂さん。クリスティーヌは、わたしと同じです。愛じゃないものを、自分じゃあない幻想に注がれた愛を、愛だなんて勘違いしてる』



(神様が与えてくれた勇気で貴方に示そう――貴方が決して、孤独ではないということを!)



『クリスティーヌは、ファントムをちゃんと、愛してた。わたしは、そう思います。……受け取らなかったのは、彼女を愛していなかったのは、ファントムの方だ』



(……クリスティーヌ、君を愛してる、心から)



 跪く姿勢で俯くファントムと、振り返りそちらに手を伸ばしたままのクリスティーヌ――二人の指先は離れたまま、音楽は、終わる。



(わたしに)

(さよならを言う力を、与えて)



 ファントムの胸元の、赤い薔薇。

 クリスティーヌはそれを見下ろし、悲しく己の手を、己の胸元に、引き寄せた。




 * * *




 その人の目元が赤いのは、メイクが落ちたからというわけではないようだった。


 キス・アンド・クライを出てからの囲み取材を終え、更衣室へと向かう途中のことだ。三波はもう着替えを終えていて、舞台化粧を落とした彼女の顔が歳相応に幼いことに、榛名は少し驚いて目を瞬く。


(氷の上では、あんな、大人みたいな顔してるのに……そうか、わたしと一つしか違わないんだ)


 落ち着いた言動のせいもあって随分上のように思っていたけれど、今目を赤く腫らせた彼女は寧ろ、榛名よりも幼い少女みたいに見えた。


「……三波さん」


 こういうときに掛けるべき言葉を、榛名は持たない。というよりも言葉に意味があるのか、榛名にはよくわからないのだった。

 勝負の世界は残酷で、いつだってそこにいるものを、明白に二つに分けてしまう。困惑して眉を下げた榛名に向けて、三波は泣き腫らした目を堂々と晒したままで言った。


「……『お人形』なんて言って、ごめんなさい」


 唐突な謝罪に、榛名は一層困惑を深める。どうやら彼女本来のものらしい捌けた声音で、あっさりと笑って三波は続けた。


「どうすればあの演技がただの人形に見えたのか、今じゃあ却って不思議なぐらい。……あれは、あなた達の『オペラ座』は」


 もしかして、と、榛名は気がついて目を見開く。


「ファントムじゃなくて……クリスティーヌの、ひとりの女性としての、クリスティーヌの物語だったのね」


 榛名は三波の涙の理由を、当たり前に敗北によるものだと思っていた。

 けれどもどうやら――違うのだ。


「はっきり言って、驚いた。あなたにあんな顔が、あんな演技ができるなんて。……胸が締め付けられるみたいだった。恋の痛みよ。最後のリフト――クリスティーヌの手がファントムの顔を包んで、クリスティーヌは真っ直ぐにファントムを見下ろしているのに、ファントムは目を閉じてる。そのときの」


 クリスティーヌとファントムの視線は、決して噛みあうことはない。ファントムは結局のところ、クリスティーヌではなくて、理想の歌姫の幻影を見ているのだ。

 クリスティーヌはそれに、気付いてしまった。


「あなたの顔、指先、全身から溢れ出る哀しみが、わかった」


(――貴方は決して、孤独ではないというのに!)


 榛名さん、と、苦しく震える声で名を呼んで、三波はちょっと、ぎこちなく微笑んだ。


「……いい、プログラムだった」


 はじまる前と、同じ言葉だ。

 けれども込められた感情の重さに、榛名は胸が詰まるような心地になった。ありがとうございます、と答えた声が掠れて、榛名は零れ落ちそうになるものを堪えるために少し俯いてしまう。

 その頭を、ぽん、と三波が撫でた。


「二枠、期待してるから」

「……へ」


 二枠? と顔を上げた時にはもう、三波の姿は遠くなっていた。榛名は二度瞬いて、もう一度、三波の言葉を反芻する。


「……二枠?」



 そういえば来年は――オリンピックシーズン、というやつではなかったか。



「……オリンピックで、二枠のためには、……世界選手権で、十位以上!?」




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