3-4
「ひどいものね」
東山の一言は、ざっくりと榛名の心に突き刺さった。
「演技構成点は日本杯を参考にされてるから対して落ちてないけど、技術点の加点が伸びてないわ。辛うじて三波・佐倉組には勝ってるけど、本来付けたかった点差にはまるで足りてない……なんでかわかる?」
「後半、疲れが出ました。そのせいで、要素の加点が減っているでしょう。ステップはレベルダウンしていますね?」
「ええ。それに、そもそも、今回は最初からスピードに乗れてなかったでしょう。そのせいで全体的に見栄えがよくなかった。観客の反応も、日本杯と比べたら拍子抜けって感じだった……それと、榛名!」
「は、」
ひゅ、と、喉が鳴る。
「はい」
「あの人形みたいな顔はなに?」
聞かれても、榛名には上手く答えることが出来なかった。
笑っていた、つもりだったのだ。クイックステップの軽やかなリズムに乗って、槻木が可愛いと言ってくれた衣装で、いつもの様に槻木の手を握って、変わらず滑れていたつもりだった。
(でも、――楽しく、なかった)
固まったままの榛名に向けて、東山は続ける。
「今期の課題がクイックステップなのは、随分ラッキーなんだってわかってる? アンタの脳天気な笑顔も、このリズムならどうにか映える。逆に言えば、それがなくなったら審査員へのアピール度も半減よ」
「……はい。わかってます」
不出来は、なにより滑った自分がよくわかっているのだ。客観的な現実として再構成して貰えるのは、むしろありがたいとも言えた。けれども槻木が、「そこまで言うことはないでしょう」と、榛名をかばうように割って入る。
「榛名は、直前練習の時から調子が悪そうでした。感じ取っていたのに立て直せなかったのは、パートナーである俺の責任です」
「甘やかさないで、槻木。あんたは榛名のカウンセラーかなにかなの? この子にも、そろそろちゃんと背負わせてやらないとダメなのよ」
「ですが」
「やめろ東山、言い過ぎだ。槻木も落ち着け。たとえ明日同じような出来でも、一位を譲ることはありえない。それだけ基礎点に差があるのだから、もっと余裕を持て」
東山と槻木の口論がいつものようにヒートアップする前に、広澤の声が冷静に制する。二人はあっさりと口を閉ざして、「榛名」と広澤は静かに言った。
「一昨年を、思い出したか?」
一昨年――十六歳でオリンピックのメダリストになった榛名の一挙手一投足、全てに人々の目が注がれていた。
今日のリンクは、確かに榛名にあのときを思い起こさせた。
「恐ろしかったか」
見られている、ということを強烈に意識して、榛名の脚は確かに竦んだ。
「……はい」
「そうか。――榛名、大衆とは、身勝手なものだ」
広澤はきっぱりと言い切った。
「突き詰めてしまえば、オレも、東山もそうだ。お前以外のすべてのものは、各々身勝手な意図をもってお前を見つめている。氷の上とはそういう場所だ。わかるか、榛名」
真っ白い、うつくしく磨き上げられたリンクの上。
すべての視線が集まる場所で、榛名はひとり立ち尽くしている。
「人々は勝手にお前に期待し、勝手に失望し、時には侮蔑や嘲りをぶつけ、時には感動にうち震えるだろう。それを受けるのは、舞台の上に立つものの義務だ」
広澤ははっきりと断言した。
「お前がそこに立ち続けたいのなら、お前はその恐怖を、己自身で克服しなければならない」
見られているのが、恐ろしい。
大舞台で四回転ジャンプを決めたあの日まで、榛名はそんなことを考えたこともなかった。氷の上は榛名のためだけにあって、榛名はただ榛名自身のために滑れば良くて、観客の視線も歓声も、榛名からはずっと遠い場所にあったのだ。
「己を信じろ、榛名。お前には、その視線に耐えるだけの強さが、或いは──その視線に耐えるだけの覚悟が、既に存在しているはずだ」
そんなことを、言われたって。
己以外の視線を意識してはじめて、榛名は己の弱さを知った。人々の視線は重く榛名にのしかかり、己の描く己の姿と、人に見える己の姿との間のギャップはどんどん大きくなって、榛名はそれを制御することが出来ない。
榛名がただ、己が滑るためだけに滑っていたスケートは、氷の上に乗って人々の目にさらされた瞬間に、己のものだけではなくなってしまうのだ。
「……はい」
それでも榛名に、頷く以外の選択肢は存在しない。
広澤の言葉が正しいことを知っていた。槻木がどれだけ榛名を盲目にしてくれようとしても、榛名はもう己が見られていることを知ってしまっている。だから榛名は、榛名自身で、この恐れを乗り越えていく他ないのだ。
(……でも、どうすれば、そんなことが可能なんだろう)
フリーダンスはもう、明日だというのに。
榛名は途方に暮れて、狼狽えた指先が勝手に槻木の手を探す。けれども此処で、彼にすがってはいけないのだ。拳をきゅっと握りしめ、榛名は唇を噛んで俯いた。
「榛名」
あの日のように、槻木はホームリンクの玄関口で榛名を待ち構えていた。
「送るよ」
「……槻木さんのおうち、駅と逆方向じゃないですか」
「大した距離じゃない」
槻木はあっさり榛名の手から鞄を取り上げて、すたすたと先を歩いて行く。そうされてしまえば榛名に拒否する強さはなくて、雪でも降りそうなきんと冷えた道を、二人は静かに並んで歩いた。
「話を、してもいいか?」
するなと言っても、どうせ槻木は勝手にしゃべるだろう。榛名はひとつ頷いて、槻木は「ありがとう」と笑って続ける。
「天使に会った、男の話だ」
誰を指しているのかは、あまりに明白だった。
槻木の、天使。
それが夜坂でないのなら一体誰であるのかを、榛名はずっと知りたくて、けれども結局聞けぬままにここまで来てしまった。今の精神状態で聞きたい話であるとはとても思えず、榛名は思わず顔を上げて、槻木の言葉を制しようと口を開きかけた。
その唇に、手袋で覆われた槻木の指先がそっと触れる。それだけであっさり言葉を失った榛名を認めると、槻木はそっと指先を離して、榛名から視線を外して前を向いた。
「男はそのとき、人生に絶望していた。……男には己の全てを掛けてもいいと思える夢があったんだが、ちょっとしたことで、その夢がどうやら叶わないらしいことがわかったんだ」
槻木の静かな横顔から、目が離せない。
「男にとってその夢は、己の人生そのものだった。夢が失われるということは、生きる意味を失うということだった。男は途方に暮れていたし、その夢を諦めると決めたところで、他に生きる方法もわからなかった。──男が天使に会ったのは、そんな時だ」
槻木は立ち止まって、夢見るように瞼を閉じた。
「天使は、鮮やかな、炎みたいな色をしていた」
榛名もまた立ち止まって、槻木の瞳が、再び開かれるのをじっと待つ。
「よく見るとそれが、胸元と裾、それに手の甲を覆うように長い袖に入った装飾の色だとわかった。天使だからかな、基調の色は白なんだ。真っ白い空間に、オレンジだけがとにかく鮮烈で――そうして、音が鳴った」
槻木の耳は、きっとその音を聞いている。
「跳ねるみたいな、弦の音色だ――そうして、彼女は跳んだ」
そして閉じた瞼の向こうに、その景色を見ているのだ。
「本当に、羽が生えているんじゃないかと思ったよ」
榛名にはもう、男が見た景色がなんであるのかがわかっている。けれども信じられなくて、同じ景色を見られなくて、榛名は呆然と槻木の夢見るような横顔を見た。
「そこから先はもう夢現だ。男は天使の姿に釘付けになった。クライマックスが近づいて、あまりにも有名なフレーズ、飛び立つ火の鳥のように駆け上がる音階とともに、彼女は氷の上を軽やかに跳ねた」
ふ、と、静かな吐息とともに言葉が途切れる。
「……圧巻だったよ」
感じ入るような、声だった。
「指先がほんとうに翼みたいで、男は彼女がリンクから飛び立ってしまうんじゃないかと思った」
あのとき――榛名はたしかに、本当に、自分が飛べるんじゃないかと思った。
「そうして舞っている間中、彼女はずっと、笑っていた」
槻木の唇が、幸福そうな笑みを浮かべる。
「技巧的に成熟しているとはいい難いのに、あのとき、拍手が巻き起こった。それはきっと、彼女の身体全てから、歓びが溢れでていたからだろう。楽しくて楽しくて仕方がない――そうして彼女は、その細い両腕を──しなやかな翼を、大きく広げた。すべてをその腕の中に手に入れるように。あるいは、この世界のすべてから、解き放たれるように」
そうして、音が、聞こえた。
洪水みたいだ、と思った。巻き起こる拍手と歓声、場内はスタンディングオベーション。音の洪水が榛名を包み込んで、どこか遠く、全く違う世界まで押し流されてしまいそうな気がした。
夢を見ていたのか、それとも、そこからが夢なのか。
榛名にはわからなくてただ、呆けたように高い天井を見上げていたことだけを覚えている。榛名が人々の視線、その熱量をはじめて感じた日。湧き上がる記憶の奔流に榛名が飲み込まれてしまいそうになる直前に、槻木がふっと、夢から醒めるみたいにそっと瞼を持ち上げた。
「そうして男は、泣いている自分に気づいた。……彼女が感じていた歓びを、生きているという実感を、男は知っていた。そして思い知った。……自分がそれを、決して、諦められないということを。諦めたくないと言うことを」
(……スケートが、好きで)
月の見える夜を、思い出した。槻木の手をとった夜。榛名はすべてのはじまりが、あの日にあるのだと思っていた。
けれども、どうやらそれは、違うのだ。
(どんなに苦しくても、それでも、スケートをやめたくなかった。ああ、あの日、槻木さんがわたしに見せてくれたものは)
槻木と榛名を結びつける──たったひとつの、強い思い。
(わたしが、槻木さんに見せたものだった、って。槻木さんは、そう言ってるんだ)
槻木が榛名に向き直り、そっと、手袋をはめた手で榛名の頬に触れる。
「……お前が視線に怯えるのは、広澤コーチの言っていたように、……人々の身勝手な期待と落胆が恐ろしいから、というのもあるだろう。けれども、きっともっと奥深くに、己が人々の歓びを、哀しみを、あるいは怒りを、生み出すことを知ってしまったことがあるのだろうと俺は思うよ。お前は、見られることの恐ろしさを知ってしまった。……俺はお前の隣に立っていてすら、お前をその視線から、守ってやることが出来はしない」
もしも可能であったなら、槻木はきっと、視線からすら榛名を守ってくれようとしたのだろう。「冷えてしまったな」と小さく呟き、槻木はそっと、己の顔を榛名の顔へと近づけた。
とん、と、額が触れ合う。吐息を重ねあわせるような近さで、槻木はそっと、「覚えておいてくれ」と囁いた。
「お前を見つめる、身勝手で無責任な、その沢山の視線の中には――いつかの絶望していた男のように、お前に救われるものが確かに居るだろう。もし、お前に、強さが──武器というものがあるのなら、その姿こそが、お前の武器だ。お前の演技は、そのひたむきさは、滑ることの純粋な歓びは──榛名雪、お前が望むとも望まざろうとも、確かにそういう力があるんだ。だから」
俺の天使、と、槻木は言った。
「お前の手が震え脚が竦むなら、俺がその手を握り、お前を抱きとめるから――だからどうか」
(そうか)
槻木はいつだって、不自然なくらいに榛名に優しくしてくれた。
(槻木さんにとってのわたしは――確かに、クリスティーヌなんだ)
「楽しむことを、忘れるな。そして、……人々の心に触れることを、恐れないでくれ。お前に身勝手に救われたいつかの俺を、──どうか、見捨てないでやってくれないか」
わたしの、武器。
歓びこそがそれであると言うのなら、──たしかに今の榛名雪は、そのすべてを惜しみなく晒せるだろう。
貴方が思い出させてくれた、滑ることと、その歓び。
クリスティーヌの姿を借りて、思いはきっと、氷の上に溢れるだろう。榛名はそう確信し、祈りに似た槻木の言葉にただ、「はい」と小さく頷いた。




