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わたしのファントム  作者: 逢坂景
第三章
15/24

3-3

 アイスダンスは、数年前に大きなルール変更が行われた。


 元はコンパルソリーダンス・オリジナルダンス・フリーダンスの三つの合計点で争われていたものが、その他のフィギュアスケート種目と同じくショートダンスとフリーダンスの二種構成に切り替えられたのだ。ショートダンスは三分間、シーズンごとにテーマと規定のステップや要素が提示され、各選手はその規定をこなすように演技を構成することとなる。

 今期のテーマは『クイックステップ』。


(つくづく、ワルツとかじゃなくてよかった……。やっぱりまだ、大人のムードとかはいまいちだもんな、わたし)


 明るく弾けるような曲想を表し、榛名の衣装は明るい黄色のシンプルなドレスだ。レースを重ねたスカートはAラインで、ステップの時にふわりと広がる様が可愛らしいと、槻木には随分好評である。


(といっても、槻木さんはなんでも可愛い可愛いって言ってくれるんだけど)


 どうあがいても美人とは言えない顔立ちの榛名に自信をつけさせようとしてくれているのだろうが、子供っぽいと強調されているような気分になってしまう。百七十五センチの槻木と並ぶと一応西欧のカップルにも体格負けしない百六十センチ超えの身長だけが救いと言えば救いだけれど、と思いながら着替えを行っていたところで、カチャリと扉の開く音がした。

 視線を向けて、榛名は軽く目を見開く。


(すごい)


 入ってきたのは、当然といえば当然のこと、本日出場する二組のうち一人である三波結衣だった。もう演技用のメイクを済ませた顔、引かれたアイラインの妖艶な鮮やかさに、榛名は思わず息を呑む。三波がちょっと視線を上げて、二人の視線がぱっちりと合った。


「あ、……どうも」


 榛名は慌てて、ぺこりと頭を下げる。三波はちょっと眉を上げてから、ごく優しい笑みを浮かべた。


「はじめまして。三波結衣です。今日は宜しく」


 思いの外さばさばとした口調とともに差し出された手を、榛名は「榛名雪です」と答えながら握った。

 細くて冷たい氷みたいな手が、榛名の手を握り返してくる。強い力に榛名が少し驚いて目を見開いた先で、柔らかに笑んだまま三波は言った。


「日本杯の演技、見ました。いいプログラムでしたね。クリスティーヌが、純粋で、可愛らしくて。榛名さんにぴったり」

「え、あ、……ありがとうございます」


 褒められた。

 榛名はちょっと瞬いてから、少し照れた笑みを浮かべた。夜坂に何度も無理を言って帰国してもらって作り上げたプログラムはいい出来だと言い切れるものだったが、他人の、それも同じアイスダンサーの口から言われるとやはり嬉しい。榛名の顔をにこやかに見上げたまま、三波は続けた。


「本当に、……おにんぎょうさんみたいに、かわいい、クリスティーヌで」


 その口調の、氷みたいな冷ややかさ。


「槻木さんに手を引かれるままアイスダンスをしてる榛名さんに、クリスティーヌが似合うのは道理ですね。……ファントムに導かれるままに歌う、ファントムのお人形であるクリスティーヌと同じ」


 唐突に、笑顔のままにつきつけられた悪意に、榛名の思考が凍りつく。それはひどく、覚えのある悪意だった。


『――ジャンプしかまともに出来ないくせに』


 脳がすっかりと麻痺したみたいになって、榛名は反論の言葉ひとつ口にだすことが出来ない。とはいえ頭が回っていたとして、榛名がなにか、三波に言葉を返せたかといえば難しかっただろう。

 確かに榛名は、槻木に導かれるままに、槻木の手に縋るようにして、やっとリンクに立っている。


「『氷上の天使』……でしたっけ。そのままで居ればよかったのに、貴方のファントムは残酷だ。貴方は、ジャンプのないこの世界じゃ」


 三波はまっすぐ榛名を見て、一層艶やかに、鮮やかに笑った。


「決して、天使になれはしないのに。……榛名さん」


 榛名には決して浮かべることの出来ない、自信に溢れた妖艶な笑み。



「世界の舞台に行くのは、私達です。二日間、よろしくおねがいしますね」






 ──そういう手管だというのは、榛名にだってわかっている。


 大舞台で、最後に勝負を分けるのは結局のところ精神面だ。シングルとしてのシニア二年目を絶不調とともに過ごした榛名はそれをよくよく承知していて、だからこそ三波の言葉に惑わされるのが愚かだということも、当たり前に理解している。


(三波さんは、悪い人じゃない。桃井さんは、知的で冷静で、面倒見のいい、いいひとだって言ってた……だから、わざとなんだ。ちょっとした精神攻撃ってやつ。そういうことをするのは、彼女がわたしに、正攻法じゃ勝てないって思ってるからだ)


 榛名の中の冷静な部分は、きちんとそこまで整理して見極めることだって出来ていた。伊達に世界の舞台で戦ってきたわけではなくて、けれども。


「……榛名。何かあったか?」


 理解している、という理由で全てを抑え込めるほど、榛名のメンタルは強くない。リンクサイド、己の手を握って直ぐの槻木の言葉に榛名ははっと顔を上げた。


「あ、」


 ここで、言われたことを全て話して、『気にするな』と笑ってもらうことは、ひどく容易いことだった。槻木は今までそうしてきたように、榛名の心を救い上げ、榛名の手を強く握って、氷の上に導いてくれるだろう。


(でも、それじゃ、駄目だ)


 『槻木さんに手を引かれるまま』と、三波はそう榛名を嘲ったのだ。

 ここで槻木に縋っていては、榛名は彼女の言葉を肯定することになる。榛名はちょっと槻木の手を握る手に力を込めて、首を振った。


「別に、何もないですよ。……ええっと、ちょっと緊張はしてますけど」


 聞こえてくる歓声は、三波・佐倉組のショートダンスに贈られたものだ。いい演技だったのだろう、と思うと少し心が竦んで、けれども榛名は、まっすぐ槻木の瞳と瞳を合わせた。


「大丈夫です。……いい演技、しましょうね」

「……ああ」


 槻木の目にはまだ猜疑が滲んで、けれども彼は、それ以上を尋ねようとはしなかった。


「無論だ。……行くぞ、榛名。最高にかわいいお前を、俺に見せてくれ」


 俺に、と、槻木は言う。

 それはつまり榛名に、観客の目を意識させないようにする言葉だ。槻木の目だけを見て、槻木の存在だけを感じて、去年まではずっとその言葉に、甘えてきてしまったけれど。


「はい」


 コールを受けて、二人は手を繋いで氷の上に立つ。


(アイスダンスの基本は、ハンド・イン・ハンド。ずうっと手を繋いで滑るんだ。わたしはずっとそれに、甘えてたけど)


 全身に、視線を感じた。日本杯で日本人初の表彰台に乗ったこともあり、榛名と槻木への注目度は去年とは桁違いになっている。その視線は榛名の体に、一種不快な懐かしさを伴って絡みついた。


(みんなが、わたしを見てる)


 人々の眼差しは、榛名がただ己のために滑ればいいわけではないということを思い出させる。榛名は一度目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。


(大丈夫)


 目を開ければ、槻木のうつくしい、自信に溢れた瞳が見える。



(わたしは、一人じゃない)



 音楽が、響く。大丈夫、と己に言い聞かせ、榛名は氷の上で一歩を踏み出した。



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